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第十五章 男木島

 男木島の集落は、急斜面の上にあった。

 桟橋から集落へ向かう道は、すぐに坂になった。石畳の坂であり、両側に石垣が続いていた。

 石垣の隙間から、猫が顔を出した。

 男木島は猫の島として知られている。来てみると、確かに至るところに猫がいた。石垣の上、路地の曲がり角、縁側、石段の踊り場。人に慣れた猫は、慎也が近づいても逃げなかった。見て、興味がなければ目を逸らした。尾道の猫と同じ目をしていた。関係ない、という目だった。

 ただ、尾道の猫よりも、ここの猫は生活の匂いがした。島の路地を縄張りとして生きている猫の匂い。愛玩ではなく、共生の匂い。


 集落の中を歩くと、人の気配が薄かった。

 朝の時間だったが、人が出ている気配がなかった。洗濯物が干されていたから、無人ではない。でも、声が聞こえなかった。

 路地は複雑に入り組んでいた。

 曲がるたびに、また別の路地が現れた。石垣が高く、空が狭かった。路地の向こうに海が見えることがあった。狭い石垣の隙間から、突然、広い海が見えた。その落差が息を詰めさせた。

 閉じた空間と開いた空間が、交互に来た。

 それが、この島の呼吸のように感じた。


 高い場所まで上ると、灯台があった。

 男木島灯台は、明治時代に建てられた白い灯台だ。円筒形の白い塔が丘の上に立っていた。周囲に木がなく、灯台だけが空に向かって伸びていた。

 灯台の前に立った。

 しまなみを旅しながら、三枝の灯台守の物語を読んだ。今治では、その続きを書いた。灯台守は灯りを灯した、と書いた。

 実際の灯台を前にすると、小説の中の灯台が現実の重さを持って感じられた。

 灯台は今も使われている。

 夜になると灯りが点る。船に、ここに岩があると知らせる。見えないものを、光で可視化する。それが、灯台の仕事だ。

 慎也はその仕事をしばらく考えた。

 見えないものを可視化することは、書くことにも通じている。でも、見えないものを本当に可視化できるのか。灯台は、岩礁の位置を正確に示せる。しかし、人の内側は正確には示せない。示せないのに、自分は示したように書いた。

 示せないことを知りながら、それでも書くことの意味はどこにあるのか。

 問いが来たが、答えは来なかった。

 灯台は黙っていた。


 灯台から下りる途中、路地の角に男が座っていた。

 年齢は五十代の後半か。無精髭を生やし、作業着は汚れていた。膝の上に猫を乗せ、撫でていた。慎也が通りかかると顔を上げた。

 目が鋭かった。

 観光客を値踏みする目でも、歓迎する目でもなかった。何かを測る目だった。

「灯台を見てきたか」

 男は言った。慎也に向けた言葉かどうか、最初はわからなかった。

「ええ」

 慎也は答えた。

「観光か」

「そうではないんですが」

「本を書く人間か」

 男は言った。

 またか、と思った。

 西川老人も同じことを言った。書く人間の目、というものが、島では見破られやすいのかもしれない。

「そうです」

「名前は」

「杉本といいます」

 男は猫の背を撫でながら、慎也を見た。

「何を書いている」

「小説です。旅の話を」

「この島の話を書くつもりか」

「わかりません。来てみて、書けるかどうかを見ようと思って来ました」

 男はしばらく黙っていた。猫が男の膝から降り、路地の奥へ消えた。男は目で追い、消えたのを確認してから、慎也の方を向いた。

「座れ」

 路地の石段を指した。慎也は腰を下ろした。


 男の名前は、中川(なかがわ)といった。

 この島で生まれ、島を出て、そして、戻ってきたという。戻ってきた理由は言わなかった。島でひとりで暮らしていると言った。仕事は施設の管理をしているらしい。

「島に、作家が来ることは多いんですか」

「多い」

 中川は言った。

「アートの連中も来る。写真家も来る。小説家も来る。来て、みんな何かを持って帰る」

「それは、嫌ですか」

「嫌だ」

 中川は即座に言った。

「嫌だが、止められない。来るなとも言えない。来て、見て、持って帰る。それが(ここ)への関わり方だと思っている連中には、他の関わり方が見えていない」

「他の関わり方とは」

「ここで生きることだ」

 中川は言った。

「それだけだ。ここで生きることを選ばない人間には、ここのことはわからない」

「では、書くべきではないですか」

「書くなとは言わない」

 路地の向こうで、猫が鳴いた。

「書くことを止める力がわしにはない。でも、書かれることで、ここが変わる。書かれたイメージがここを塗り替える。猫の島、と書かれれば、猫の島になる。美しい路地の島、と書かれればそうなる。書いた者が去った後も、そのイメージだけが残る」

「それが、嫌だと」

「わしが嫌なのは」

 中川は石垣に手を当てた。

「この石垣を背景にされることだ。ここで生きた人間が積んだ石が、誰かの物語の小道具になることだ。石には積んだ人間の時間がある。その時間を、勝手に使われることが嫌だ」


 中川は、島に来る前の自分の話を、少しだけした。

 本土で働いていた。仕事があった。でも、ある時期に、全部を投げて島に戻った。理由は言わなかった。ただ、戻らなければならないと思ったから戻ったと言った。

「島に戻ったことで、何かが変わりましたか」

と慎也は聞いた。

「変わった」

 中川は言った。

「静かになった」

「静か、というのは」

「外の音が聞こえなくなった。ニュースも、他人の話も、流行りも。全部が遠くなった。最初は不便だったが、今は慣れた」

「孤独ではないですか」

 中川は少し間を置いた。

「孤独だ」

と言った。あっさりと。

「孤独だが、それが正確だと思っている」

「正確、というのは」

「孤独が正確な状態だ、ということだ」

 中川は言った。

「人間は本来、孤独だ。それを、言葉で埋めようとする。埋めることで、孤独でないふりをする。ここに来て、それが剥がれた。孤独がそのまま見えるようになった。見えることで、孤独は怖くなくなった」

 孤独がそのまま見える。

 その言葉が、慎也の中に入った。

「語られることより、忘れられる方がいいと思いますか」

 中川は慎也を見た。鋭い目で見た。

「語られるくらいなら、忘れられたほうがいい」

 はっきりと言った。

「なぜですか」

「語られると語られた形に固定される。固定された形は本物ではない。本物は動いている。変わっている。でも、語られた形は変わらない。その変わらない形が、本物の代わりに広まっていく。それが嫌だ。語られないまま、変わり続ける方がいい」


 中川の言葉を、慎也はしばらく黙って受け取った。

 語られるくらいなら、忘れられたほうがいい。

 その言葉は、書くことを否定していた。

 慎也は書く人間だ。語ることを選んだ人間だ。しかし、語るなと言われた。

 反論しようとした。

 語ることで誰かに届くことがある。こころは救われたと言っていた。三枝の文章は、尾道の古本屋の棚で誰かに手に取られた。語られることで残るものがある。

 中川の言葉は、その反論を想定した上で言っているように聞こえた。

 救われた人間がいる。でも、語られることで固定される本人がいる。語ることで救われる読者と、語られることで固定される当事者が、同時に存在する。

 そのどちらが正しいかではなく、どちらも本当だろう。

「あなたについて書くつもりはありません」

 慎也は言った。

「わかっている」

 中川は言った。

「でも、この島について書けば、わしのことも書くことになる。ここにいるという事実は、この島の一部だから」

「それは」

 慎也は言葉を探した。

「避けられないことだと思います」

「そうだ」

 中川は言った。

「避けられない。だから、書かれることが嫌いだ。避けられないことが嫌いだ」

 その正直さが、慎也には重かった。

 嫌いだが避けられない。その状態を、中川は受け入れている。受け入れながら、嫌いだとはっきり言った。両方を持ちながら、生きていた。


 昼過ぎに、中川と別れた。

 別れ際に中川は、

「書くなとは言わない」

と、もう一度言った。

「ただ、書いた後のことを考えろ」

と付け加えた。

「書いた言葉が、どこへ行くかを」

 中川は続けた。

「書いた言葉は、書いた者の手を離れる。どこへ行くかは、書いた者にはわからない。でも、行った先で何かをする。その何かを、書く前に想像できるかどうかが、書く者の誠実さだと思っている」

 慎也は、その言葉をノートに書いた。

 書いた言葉が、どこへ行くかを考えること。

 三枝に言った言葉は、三枝の中でどこへ行ったのか。慎也は考えなかった。言葉を渡した後のことを、考えなかった。渡したことで終わりにした。でも渡した言葉は、三枝の中で動き続けた。

 書いた言葉も、同じだ。

 書いた後、言葉は動き続ける。慎也の手を離れて、読む者の中で動く。こころの中で何かになった。西川老人の中で何かになった。中川の中では、まだ何にもなっていないかもしれない。

 どこへ行くかは、わからない。

 でも、行く、ということだけは確かだ。


 午後、島の南側へ歩いた。

 集落を外れると、道が急に細くなった。舗装が途切れ、土の道になった。両側に草が茂り、秋の枯れた草が道に倒れ込んでいた。踏んで進んだ。

 道の先に、海が見えた。

 南側の海岸は、北側の港とは違う顔をしていた。岩が多く、崖に近い場所があった。波が岩に当たり、白く砕けた。音が大きかった。他の島では聞かなかった音の質だった。

 崖の縁に立つと、下に海が見えた。

 深い青だった。

 透明度が高く、海底が見えた。岩の間に海藻が揺れていた。魚の群れが、光を受けて銀色に輝きながら、方向を変えた。

 美しかった。

 ここには誰もいなかった。観光のルートから外れた場所だから、誰も来ない。美しい海が、誰にも見られずにそこにあった。

 見られなくても、海はある。

 その事実が、慎也に何かを言っていた。

 語られなくても、存在する。

 中川が言ったことは、そういうことかもしれない。語られることで存在が確認されるのではなく、語られなくても存在は続く。語られることは、語る側の行為であって、語られる側の存在とは別のことだ。

 語ることは、語る者のための行為だ。

 その根本を認めなければならない。

 語ることで誰かを救える。同時に、語ることは語る者の視点の行使だ。語られる側は、その行使を受け入れる義務はない。

 海が波を寄せた。

 岩に当たり、砕けた。

 また来た。

 また砕けた。

 それだけのことが、誰にも語られずに続いていた。


 桟橋で船を待つ間、猫が一匹、荷物の横に来て座った。灰色の猫だった。慎也を見てから、海を見た。何かを待っているように見えた。でも、何を待っているかは、慎也にはわからなかった。

 わからないことを、わかろうとするより、わからないままにする。

 この島で気づいたことは、それだったかもしれない。

 船が来た。

 乗り込みながら、振り返った。

 猫はまだそこにいた。桟橋の端で海を見ていた。

 船は動き出した。猫の姿が小さくなり、やがて、見えなくなった。


 慎也はノートを開いた。

 「語ることは、語る者のための行為。それを認めた上で、それでも語るかが問われている」

 船は進んだ。

 男木島が遠ざかっていく。

 夕暮れの瀬戸内に、島が静かに残った。


 高松のホテルに戻り、慎也は澄花に電話した。

 久しぶりの電話だった。島を渡り始めてから、連絡をとっていなかった。

「元気ですか」

 澄花は聞いた。

「元気です。島を渡っています」

「どうですか」

「複雑です」

 慎也は言った。

「自分の本に、足りないものがあることが、少しずつはっきりしてきました」

「足りないもの」

「三枝さんの声です。私が整えた声ではなく、三枝さんの体温が残った声が足りないと気づかされました」

 澄花は少し間を置いた。

「兄の日記を読みますか」

「読んでいいんですか」

「ずっと迷っていました。日記は、人に見せるために書いたものではないですが、でも」

 澄花は続けた。

「杉本さんが次に書くものの中に、兄の声が必要なら渡してもいいと思っています。渡すことが正しいかどうかは、正直、わからないけど」

「では、渡すことが正しいかどうかわからない、ということを含めて、渡してくれますか」

 澄花は少しの間、黙っていたが、

「わかりました。渡します」

と言った。

 慎也は礼を言った。


 電話を切った後、部屋の窓から夜の高松を見た。

 三枝の日記、三枝自身の体温を持った言葉がやって来る。

 それを受け取ることの重さを、今夜は感じておかなければならなかった。

 受け取ったものが、次に書くものを変える。

 変えた先に何があるかは、まだ見えない。けれども、変わることを今夜は怖れなかった。変わることが、書き続けることの証拠だから。

 窓の外の光が、高松の夜を照らしていた。

 明日は祝島へ向かう。

 また別の声に、会いに行く。



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