第十四章 女木島
高松港から女木島への船は、一日に数便しかない。
午前の便に乗るために、慎也は早朝に港へ向かった。高松の夜明けの港は、人が少なく風が冷たかった。売店はまだ開いていなかった。自動販売機の光だけが待合所を照らしていた。
船を待ちながら、小豆島で買った短編集の続きを読んだ。
島の廃村を舞台にした話だった。かつて人が住んでいた集落が、今は無人になっている。そこに主人公が入り込み、残されたものの中に人の時間を感じる話だった。文章は拙かったが、廃村の静けさの描写には本物の感触があった。そこに実際に行った人間にしか書けない質感があった。
知ろうとしながら書く、と昨夜ノートに書いた。
この短編集の作家は、知ろうとしながら書いていた。上手くはないが、知ろうとした痕跡が文章に残っていた。その痕跡が伝わってきた。
女木島の港で降りた。
観光案内の看板があり、レンタサイクルの店があった。冬の平日だったが、男木島より人の気配があった。港の建物に鬼のイラストが描かれていた。「鬼ヶ島」という言葉が至るところにあった。
鬼ヶ島は、女木島の別名であり、桃太郎伝説の島である。
島の山の中に大きな洞窟があり、そこが鬼の住処だったとされている。その伝説がこの島のイメージを作っていた。
鬼の島。
慎也はその言葉を口の中で繰り返しながら、港から続く道を歩き始めた。
風が強かった。
北側に遮るものがないからか、冬の季節風が島を横切っていた。草が風に倒れ、木の枝が揺れた。海面が波立ち、白い飛沫が上がった。
風の島だと思った。
洞窟への道を歩いた。
島の中央部に向かう道は、緩やかな上り坂になっていた。松の木が風で傾いていた。大三島の岸辺で見た松と同じように、長年の風の方向が、幹の傾きに刻まれていた。
洞窟の入口に着いた。
岩壁に開いた大きな口だった。中は暗く、奥は見えなかった。
入ると、中は冷たかった。
外の風がなくなり、代わりに岩の冷気が来た。足元が岩で、照明が等間隔に置かれていた。奥へ進むと、広い空間があった。天井が高く、壁は岩の地肌のままだ。
鬼が住んでいた場所。慎也はその広間に立ち、周囲を見た。
鬼はいなかった。当然だ。伝説の中の存在が、今いるわけがない。でも、ここに何かがいたという話が、長い時間をかけて伝わっている。伝わる過程で、何かが変わり、何かが残ったのだろう。
変わったものと残ったものを、どう分けるか。
それは、誰にもできないだろう。
洞窟を出ると、風が戻ってきた。
冷たい風が、岩の冷気を吹き飛ばした。
集落に戻る途中、小さな建物があった。「女木島語り部の会」と書かれた看板が出ていた。引き戸が開いていたから、入れるようだった。
中に入ると、畳の部屋があり、棚に冊子が並んでいた。
「いらっしゃい」
女性が出てきた。
六十代の後半か、七十代の初め。白髪を後ろで束ね、エプロンをつけていた。顔に深い皺があったが、目が若かった。
「語り部の方ですか」
慎也は聞いた。
「そうです。島の話を伝える会をやっています。今日はお一人ですか」
「ええ。話を聞かせてもらえますか」
「もちろん。座ってください」
女性は名前を名乗った。砂川といった。この島で生まれ、島で語り部を続けているという。
「鬼ヶ島の話をしましょうか」
砂川は言った。
「お願いします」
砂川は語り始めた。
声が変わった。日常の声より、少し低く、少し遅くなった。語るための声に、切り替わった。
「昔々、この島に鬼が住んでいました」
定型の始まりだ。
「鬼たちは、この島の洞窟に暮らしていました。本土の人間たちは、鬼を恐れていました。恐れるのは、鬼が力を持っていたからです。力を持つものは、恐れられます。恐れられると、悪いものだということにされます」
砂川は続けた。
「ある日、桃から生まれた若者が、犬と猿と雉を連れて、この島に来ました。若者は鬼を退治しました。本土に宝を持ち帰り、英雄になりました」
慎也は聞きながら、知っている話を聞いていた。
「これが、本土の人間が語る話です」
砂川は言った。
「でも、島の人間が語ると、少し違います」
「どう違うんですか」
「島に住んでいた者たちは、ある日、外から来た者たちに攻められました。理由はよくわかりません。力があったからかもしれない。場所が欲しかったからかもしれない。いずれにせよ、島の者たちは追われました。追われた者たちは、悪いものだということにされました。攻めてきた者の話は、英雄譚として語り継がれました」
慎也は黙って聞いた。
「同じ出来事の、二つの語り方です」
砂川は言った。
「どちらが本当かではありません。どちらも、語った人間にとっては本当です。でも、語り方が違うと、英雄と悪者は逆になります」
砂川は話し終えると、お茶を淹れてくれた。
慎也はお茶を受け取ると、こう質問した。
「砂川さんは、どちらの語り方をしているんですか」
「両方です」
「両方を、語れるんですか」
「語れます。語ることが、私の仕事ですから。桃太郎として語ることもある。島の者として語ることもある。同じ口で、両方語ります」
「矛盾しませんか」
「矛盾します」
砂川は笑った。
「でも、矛盾したまま語るのが、誠実だと思っています。どちらか一方だけが本当だと言いたければ、言えます。でも、それはもう一方を消すことになります。消したくないから、両方を語ります」
慎也はその言葉を、ゆっくり受け取った。
消したくないから、両方語る。
矛盾したまま語るということを選んでいた。
慎也は砂川に、自分の本のことを話した。
三枝拓海のことは名前を伏せたが、死んだ作家について書いたこと、書いてから足りないものがあると気づいたことを、正直に話した。
砂川は聞きながら、お茶を飲んだ。
「その作家の人は、あなたに語られることを望んでいましたか」
慎也は止まった。
考えたことがなかった問いだった。三枝が語られることを望んでいたかどうか。澄花は語ってほしいと言った。しかし、三枝本人は、何も言わなかった。
「わかりません」
慎也は言った。
「わからないままで、語ったんですね」
「そうです」
「それは」
砂川は少し間を置いた。
「鬼を退治した桃太郎と、同じかもしれない」
その言葉が、慎也の中で静かに落ちた。
「桃太郎は、鬼が何を望んでいたかを、聞きませんでした。来て、戦って、勝って、帰りました。語られる側が何を感じていたかは、桃太郎の物語の中には入っていません」
「私の本も、そういう本ですか」
「部分的には、そうかもしれません」
砂川は言った。穏やかに、しかし確かに。
「でも、気づいているならば、次の語り方ができます。気づかなかった桃太郎と、気づいた桃太郎は、違う物語を書けます」
慎也は砂川を見た。
「次の語り方とは、どういうものですか」
「鬼の声も入れることです」
砂川は言った。
「英雄の物語の中に、退治された者の声も入れる。どちらが正しいかを決めずに、両方が存在することを、物語の中で認めること」
話が終わると、砂川は棚から一冊の冊子を取り出し、慎也に渡した。『もう一つの鬼ヶ島』と表紙に書かれていた。
「島の人間が語り継いできた話をまとめたものです。島の中だけで配っています」
「読んでいいですか」
「はい。ぜひ、持ち帰ってください」
慎也は受け取った。
薄い冊子だったが、手に持つと、重さを感じた。紙の重さではなく、中に入っているものの重さを。
「最後に聞いてもいいですか」
慎也は言った。
「どうぞ」
「語ることの暴力性を、あなたはどう思いますか」
砂川は少し笑った。
「暴力性、という言葉を使う人は、たまにいます。語ることは確かに暴力的な側面があるかもしれません。でも」
砂川は窓の外を見た。風が松の枝を揺らしていた。
「語らないことも、暴力的です。なかったことにすることも、ある意味、暴力です。語ることと語らないことの、どちらかが暴力というわけではないです。語るか語らないかではなく、どう語るか、だと私は思っています」
どう語るか。
その言葉が、今日一番の重さを持って、慎也の中に入ってきた。
語り部の家を出ると、風が相変わらず強かった。
海の方へ歩いた。
女木島の海岸は砂浜だった。白い砂が広がり、波が穏やかに寄せていた。風は強いのに、波は穏やかだった。その矛盾が、この島の正直さのような気がした。
砂浜に足を踏み入れた。
砂が冷たかった。靴の中から冷気が来た。でも踏み込んでいくと、下の層の砂は少し温かかった。表面は冷たく、内側は温かい。
その逆転が面白かった。
外から見えるものと、内側にあるものが、逆になっている。鬼ヶ島の伝説も、そういうことかもしれない。外から見ると鬼の島。内側から見ると、追われた者たちの島。どちらが表で、どちらが内側かは、どこから見るかによって変わる。
慎也は砂浜に腰を下ろした。
波が来た。足元まで来て、引いた。濡れた砂が光った。
砂川の言葉を繰り返した。
どう語るか。
語るか語らないかではなく、どう語るか。
語ることの暴力性を認めた上で、それでも語るとすれば、どう語るか。
一つの答えが、砂川の中にあった。両方語ること。英雄の声も鬼の声も同じ物語の中に入れること。矛盾したまま語ること。
それは、慎也に足りていなかったものだ。
三枝の声を、慎也の視点で整えた。整えた声を、三枝の声として語った。でも、三枝には慎也が知らない声があった。慎也が整えなかった声があった。その声を、次の語りの中に入れられるかどうか。
入れられるとすれば、どう入れるか。
問いが、また深くなった。
高松から船がやってきた。この船に乗れば、次は男木島に行ける。
慎也は乗り込むと、船の中で冊子を読んだ。
島の語りがいくつも収められていた。漁師の話、農婦の話、子供の話、老人の話。それぞれが別の声を持っていた。一つひとつは短く、荒削りで、文学的には整えられていなかった。でも、声が生きていた。語った人間の温度が文字に残っていた。
それを読みながら、慎也は自分が書いた本のことを思った。
声が生きているか。
三枝の声が、生きているか。慎也が整えた三枝の声は、慎也の体温を帯びていた。でも三枝自身の体温は、どこにあったか。
伯方島のノートの中にあった。鉛筆で書かれた荒削りな文章の中に、三枝の体温があった。
慎也の本は整えすぎた。整えることで声から体温を奪った。
その認識が、今日、はっきりした。
船が男木島に近づいた。
慎也はノートを開き、書いた。
「整えることは、体温を奪うことかもしれない。次の語りは、体温を残したまま語ることができるか」
書いてから、冊子を閉じた。
砂川の声が、まだ耳の中にあった。
矛盾したまま語る。両方の声を入れる。体温を残したまま語る。
三つが重なって、次に書くものの輪郭が、霞の中に浮かび始めていた。
それはまだ、霞の中だった。




