第十三章 小豆島
小豆島への船は、高松港から出た。
フェリーは大きかった。
豊島行きや直島行きの船とは、桁が違った。車を積める甲板があり、旅客室があり、売店があった。乗り込む人間の数も多かった。家族連れ、老夫婦、若いカップル、一人旅らしい人間。小豆島は瀬戸内の島の中でも規模が大きく、観光客が多い。冬でも、それなりの人が渡っていた。
慎也は甲板に出た。
高松港が遠ざかった。
瀬戸内の海が広がった。直島を過ぎ、豊島の方角に目をやったが、霞んで見えなかった。昨日と一昨日に渡った島々が、もう見えない。渡ってきた時間が海の向こうに沈んでいった。
しばらくすると、小豆島の山が見えてきた。
大きかった。
瀬戸内の他の島々よりも山が高く、島の輪郭がはっきりしていた。寒霞渓という渓谷があり、断崖が島の中心にあると聞いていた。海から見ると、その山の重量感が伝わってきた。
緑が濃かった。
冬でも、常緑樹が山を覆っていた。
港の周辺に、オリーブの木が見えた。葉が細く銀緑色で、冬の光の中でかすかに輝いていた。日本でオリーブの栽培が始まったのは小豆島からだという。その歴史が、港の植栽に静かに刻まれていた。
船が着岸した。
島に降り立った瞬間、空気に甘みがあった。
豊島の押し込められた静けさとも、直島の計算された空気とも、違う甘みが、ここにはあった。
島の北側、土庄の港から自転車を借りた。
しまなみ以来の自転車である。電動アシストの自転車で、ロードバイクとはまるで違ったが、ペダルを踏み始めると、懐かしい感覚が戻ってきた。
道を走ると、すぐにオリーブ畑が現れた。
畑は丘の斜面にあった。オリーブの木は背が低く、幹が捻れていた。古い木ほど幹の捻れが強く、何十年という時間が幹の形に出ていた。葉は細く、裏側が白銀色で、風が吹くと葉が翻り、白と緑が交互に見えた。
光が生口島に似ていた。
量の多い、平らな光。生口島の光はレモンの黄色と海の青が作る光だったが、ここの光はオリーブの銀緑色が混じっていた。少し柔らかく、少し霞んでいた。
走っていくと、醤油の匂いがした。
小豆島は醤油の産地でもある。島のいたる所に醤油蔵があり、発酵の匂いが漂っていた。甘い匂いと、発酵の奥深い匂いが混ざって、独特の空気を作っていた。
慎也は匂いを嗅ぎながら、この島に来た理由を考えた。
封筒に書かれた七つの島の名前。小豆島はその三番目だった。豊島で切り落としの問題を受け取り、直島で編集の問題を受け取った。小豆島には、何があるのか。
プロットを持たない旅だった。
封筒の送り主の意図はわからない。でも、島は何かを見せてくる。
醤油蔵の並ぶ路地に入ると、観光客向けの小さな店があった。
醤油を使ったソフトクリームを売っていた。甘さの中に塩気と発酵の深みがある、と看板に書いてあった。慎也は一つ買った。
食べながら歩いた。
甘さの中に確かに塩と発酵があった。矛盾する味が一つの中に収まっていた。矛盾がおいしさになっていた。
甘さだけなら単純だ。塩だけでも単純だ。でも甘さと塩と発酵が混ざると、どれかに還元できない複雑さが生まれる。
物語の甘さという言葉を、慎也は考えた。
封筒の送り主が、この島を選んだ理由が、そこにあるかもしれなかった。小豆島は甘い島だ。オリーブ、醤油、観光、ロマンス。甘さが売りの島。甘さの中に何があるかをここで見ろ、ということなのかもしれない。
路地を抜けると、海が見えた。
穏やかな入り江があり、小さな漁港があった。漁船が数艘、係留されていた。網が干されていた。甘い観光の島に、生活の港が静かにあった。
オリーブ公園に向かう途中、坂道の脇に小さな本屋があった。
島に本屋があるという事実が、慎也にはなんとなく嬉しく思えた。
本屋に入ってみた。
古本と新刊が混在しており、観光案内の隣に文芸書が並んでいた。
書架を見ていると、声をかけられた。
「『灯台の島』の方ですよね」
振り返ると、若い女性が立っていた。
二十代の前半だろうか。小柄で、眼鏡をかけていた。エプロンをつけているので、この店の人であろう。慎也を見る目が明るかった。隠しきれない何かが目の奥にあった。
「はい。そうですが」
「やっぱり」
彼女は言った。
「あの本、大好きなんです!」
「ありがとうございます」
「ここで働きながら本を読んでいます。小説が好きなので」
彼女は言った。
「本屋をやりながら、島の人に本を薦めるのが仕事で。最近は観光客の方に薦めることも多くて」
「この島に来て、長いんですか」
「この島の生まれです。一時期、島を出たこともあるけど、戻ってきました」
名前を聞くと、宮本こころ、と言った。
「こころさんは、『灯台の島』のどこが好きでしたか」
と慎也は聞いた。
作家として、この質問をするのは初めてだった。読者に直接聞くことに慎也はまだ慣れていなかった。でも、聞きたかった。
宮本こころは少し考えた。
「灯台守が、灯りを灯した場面です」
と言った。
「灯すことが赦しを求めるためじゃない、というところが好きです。赦してもらえなくても続けるという話が、私には必要でした」
私には必要でしたという言葉が、慎也の中に入ってきた。
本屋の奥に小さなスペースがあり、二人はそこで話した。
慎也は一瞬、伯方島のフミコを思い出した。一人で店を切り盛りしている女性の動きの質感が似ていた。
「必要でした、というのは」
「三年前に母が亡くなりました。病気で。私が島を出ていた頃に倒れて、戻ってきて、でも間に合わなかった」
慎也は聞いた。
「本屋は、母がやっていたんです。母の店を継ぎました。最初は継ぐつもりはなかったんですけど、店を閉めるのが嫌で。母が並べた本を、そのままにしたくて」
「今も、お母さんが並べたままですか」
「半分は変えました。半分はそのままです」
こころは微笑んだ。
「変えた部分が今の私で、そのままの部分が母です。両方あっていいと思って」
慎也はその言葉を聞きながら、直島の黄色いかぼちゃのことを思った。
流されて戻ってきたことで、島のものになった。
変えた部分と変えなかった部分が、両方あっていい。
「救われた、という言葉が正確かどうかわからないけど。続けることを肯定してもらえた気がしました。赦されなくても続ける灯台守の話が、私には母の店を続けることと重なって」
救われた。
その言葉が、慎也の胸に落ちた。
自分の書いたものが、誰かに届いた。届いて何かになった。その事実が初めて、体の感覚として入ってきた。
でも、と慎也は思った。
救われた、とこころは言った。でも、こころが救われた物語は本当ではない部分を含んでいる。慎也が整えた、編集された現実。切り落とされたものがある物語。
その物語で救われた、ということは。
西川老人の言葉が戻ってきた。信じていることと、本当のことは、違う。
慎也は、こころに聞こうとした。
あの本の中に、本当のことではない部分がある。整えられた部分がある。そういう本で救われたことを、あなたはどう思うか。
それを聞こうとして、止まった。
聞くことが正しいのかどうかわからなかったからだ。
こころは、救われたと言った。その救いは、こころにとって本物だ。本物の救いが、整えられた物語から来ていたとしても、救いは救いだ。それを、こちらの側の問題意識で揺るがすことは正しいのか。
でも、黙っていることも、何かを隠すことになる。
そう思い、慎也は口を開いた。
「あの本には、足りないものがあると思っています」
慎也は言った。
こころは少し驚いた様子で、慎也を見た。
「足りない、というのは」
「書いた人間の視点で、整えすぎた部分がある。本の中で書いた人物の声が、私の視点によって変形されている部分がある。そのことに、書いてから気づきました」
「それは」
こころは少し考えてから続けた。
「どの本でも、同じじゃないですか」
「そうかもしれません」
「書いた人間の視点が入らない本は、ないと思います。でも」
こころは続けた。
「それでも、届くものは届きます。届いた先で何になるかは、受け取った人間の中で決まると思います。杉本さんの本が私に届いて何かになった。それは本当のことです。たとえ、足りない部分があったとしても」
慎也はその言葉を、ゆっくりと受け取った。
届いた先で何になるかは、受け取った人間の中で決まる。
確かにその通りだと思えた。
夕方、オリーブ公園まで自転車で行った。
丘の上に公園があり、ギリシャ風の白い風車が立っていた。オリーブの木が広がる丘から、瀬戸内の海が見えた。
夕陽が傾いていた。
海が橙色に染まっていた。オリーブの葉が、橙色の光を受けて、銀と金の中間の色になっていた。美しかった。整えられた美しさとも、偶然の美しさとも判断できなかった。ただ、美しかった。
慎也はベンチに座り、その光を見た。
救われたと、こころは言った。
その言葉が、まだ体の中にあった。
豊島で西川老人に言われたこと。直島で岡部に言われたこと。どちらも、慎也の書いたものへの批判的な問いだった。今日、こころはそれらとは別の言葉をくれた。
批判と肯定が両方ある。
どちらかが正しくて、どちらかが間違っているわけではない。批判も肯定も、両方が同時に本当だ。
その事実を、慎也は今夜初めて体で受け取った。
書いたものへの批判を受け取ることと、書いたものが誰かを救ったという事実を受け取ること。どちらかを選ぶのではなく、両方を持ち続けること。
それが、作家として引き受けるべきことかもしれない。
オリーブの葉が、夕風に揺れた。
銀と金の中間の色が、揺れながら光った。
宿に戻る前にもう一度、こころの本屋に寄った。
閉店の準備をしていたこころは、慎也が来ると少し驚いた。
「忘れ物ですか」
「一冊、買おうと思って。薦めてもらえますか」
「どんな本がいいですか」
「この島で読む本を」
こころは棚を見た。少し考えてから、一冊抜き出した。
島出身の作家が書いた短編集だった。慎也は聞いたことがない名前だった。
「あまり知られていない作家ですが、この島のことが書かれています。ここで生きていた人間の声が、入っています」
慎也は受け取った。
「ありがとうございます」
「また来てください」
こころは言った。
「次の本が出たら、置かせてください」
その言葉が、慎也には嬉しかった。
次の本。
まだ書いていない本を置く場所があるということだ。
次の本を書けるかどうかはわからなかった。でも、置く場所がある。
それが、背中を押した。
宿の部屋で、買った本を読んだ。
短編が六つ入っていた。どれもこの島を舞台にしていた。醤油蔵、オリーブ畑、漁港、山の中の廃村。島の場所が舞台になり、そこで生きた人間の話が書かれていた。
文章は、上手いかどうかで言えば上手くなかった。
かつて、吉野賢二の原稿を読んだときに感じたものと、似た何かがあった。書こうとしているものの輪郭が文章の隙間から見えた。ここで生きた人間の時間が、拙い文章の中に本物として宿っていた。
慎也は読みながら、自分の本のことを考えた。
自分の本には、何が宿っているか。
三枝への罪悪感と、それを超えようとする意志が宿っていると思う。それは、慎也の内側にあるものだ。三枝自身の時間が宿っているかどうかはわからない。
こころは言った。届いた先で何になるかは、受け取った人間の中で決まる。
そうかもしれない。でも届けるものの中に、何が入っているかは、書く側が決める。
自分の内側だけを書くのではなく、自分の外側にある誰かの時間を、書けるかどうか。
それが、次の問いだった。
小豆島の夜は、醤油の匂いがした。
窓を開けると、甘さと発酵の時間の匂いが、夜の空気に混じっていた。
甘さの中に、時間がある。
その時間を、慎也はまだ全部は知らない。知らないまま書くか、知ろうとしてから書くか。
どちらでもなく、知ろうとしながら書く、しかないかもしれない。
ノートに書いた。
「救いは本物だった。批判も本物だった。両方を持ち続けることが、次の書き方の入口かもしれない」
書いて、読み返した。
入口、という言葉が残った。
まだ入口にいる。
でも入口を見つけたことは確かだった。
オリーブの葉が夜風に揺れる音がした。




