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第十七章 周防大島

 周防(すおう)大島へは、本土から橋で渡れる。

 豊島も、直島も、小豆島も、女木島も、男木島も、祝島も、船でしか渡れなかった。海が間にあり、船で渡るしかなかった。でも、周防大島には橋がある。

 慎也は、バスの窓から橋が近づいてくるのを見た。橋の下に海峡が見えた。大畠瀬戸(おおばたけせと)と呼ばれる海峡で、潮の流れが速く、渦を作ることで知られている。

 橋の上から一瞬だけ、渦が見えた。

 速い潮の流れが岩礁にぶつかり、渦になっていた。渦は動きながら、形を変えていた。

 島に入り、バスを降りた。島の空気がした。

 本土と繋がっていても、ここは島だ。道の向こうに海が見えた。

 慎也は荷物を持ち、歩き始めた。


 周防大島は大きかった。

 しまなみの因島(いんのしま)生口島(いくちじま)よりも大きく、島というより半島に近い印象があった。

 山があり、平地があり、集落がいくつもあった。みかん畑が斜面に広がり、漁港が点在していた。島全体がひとつの生活圏として機能していた。

 道沿いに、みかんの直売所があった。

 無人販売だった。生口島で見たのと同じ形式だった。木の台に、袋に入ったみかんが並んでいた。一袋二百円。料金箱に小銭を入れる仕組みだった。慎也は一袋買い、歩きながら一個剥いて食べた。

 甘かった。

 皮が薄く、果汁が多かった。瀬戸内のみかんは、どの島で食べても甘かったが、島によって少しずつ味が違っていた。土が違い、水が違い、風が違うから、同じみかんでも別の味になるのだろう。

 この旅で渡った島々のことも、そのように思った。

 どの島も、瀬戸内の島だった。でも、それぞれが別の顔を持っていた。別の問いを持っていた。別の声があった。その違いを一つの構図に収めることはできない。

 構図が壊れた後に残るものが、次に書くものの素材だ。

 慎也は歩きながら、この旅で積み重ねてきた言葉を思った。

 西川老人の言葉。岡部の言葉。こころの言葉。中川の言葉。砂川の言葉。宮内の言葉。

 それぞれが別の方向から来て、慎也にぶつかった。どれかが正しく、どれかが間違っているのではなかった。全部m本物だった。全部を持ち続けることが、次の書き方の条件となった。


 宿を探しながら、海沿いの道を歩いた。

 道の左手に海があり、右手に山があった。山の斜面にみかん畑の段々が続いていた。オレンジ色の実が冬の光の中で輝いていた。残っている実が多かった。残ったままの実が、時間をかけて甘くなっていく。

 海は穏やかだった。

 祝島の波の高さとは、対照的だった。同じ瀬戸内でも、場所によって海の顔が違う。この島の南側の海は、外洋からの波が遮られて静かだった。水面がゆるやかに動き、光を柔らかく散らしていた。

 慎也は海を見ながら歩いた。

 ここが最後の島だという感覚があった。

 封筒に書かれた七つの島の名前。豊島、直島、小豆島、女木島、男木島、祝島、周防大島。この島で、封筒を渡した女性と再会する。そう予感していた。

 海沿いに小さな漁村があった。

 白い壁の家が続き、道が細くなった。猫がいた。洗濯物が干されていた。当然のことが、今は重かった。どの島にも書かれる前から生活があった。書かれた後も生活は続く。書くことは、その生活の外側から来て、外側へ持っていく行為だ。その行為の責任を、慎也はこの旅で少しずつ引き受けてきた。


 集落の外れに食堂があった。

 引き戸を開けると、テーブルが三つ、カウンターが四席。昼の時間を過ぎていたが営業していた。先客が一人いた。

 カウンターの端に座った女性だった。

 黒いコートを着ていた。

 慎也は入り口で止まった。

 あの女性だ。

 東京の書店で、講演会の後に声をかけてきた、あの女性がここにいた。

「あなたは、あの人の海を知らない」

と言った女性。封筒を渡した女性。

 女性も慎也に気づいた。

 振り返り、慎也を見た。表情は変わらなかった。驚いた様子もなかった。ここで会うことを、まるで知っていたような顔だった。

「来ましたね」

と、女性は言った。

「来ました」

 慎也は答えた。

「座ってください」

 慎也はカウンターの、女性から一席空けた場所に座った。

 食堂の女主人が、注文を聞きに来た。慎也は定食を頼んだ。女性は、すでに食べ終えていた。湯呑みだけが、手元にあった。

「名前を聞いても、いいですか」

 慎也は言った。

 女性は少し間を置いた。

浜田(はまだ)といいます」

「三枝さんのことを、どこで知ったんですか」

「この島で知りました」

 浜田は言った。

「三枝さんは、よくここに来ていました」

 浜田が話し始めた。

 声は静かだった。感情を抑えているのではなく、感情がそのまま静かな声に乗っていた。

「三枝さんとは、この島で知り合いました。私も、ここによく来ていましたから。三枝さんは、この島の海が好きだったと言っていました。穏やかで、でも、油断できない海だと」

「油断できない、というのは」

「見た目は穏やかでも、潮の流れが複雑ですから。大畠瀬戸の渦を三枝さんはよく見ていました。穏やかな海の下に速い流れがある。それが、ここの海だと言っていました」

 慎也は、橋の上から見た渦を思った。水面は静かに見えた。でも、下に速い流れがあった。

「何度も会いましたか」

「何度も」

 浜田は言った。

「この食堂でも何度か会いました。話しました。書くことの話をよくしました」

「三枝さんは、書くことについてどう話していましたか」

 浜田はしばらく黙った。湯呑みを両手で包んだ。

「書くことは、自分を傷つけることだと言っていました。書けば書くほど、自分の中の足りないものが見えると。見えるから書く。見えるほど苦しくなる。でも見ないよりは、見える方がいいと言っていました」

「見える方がいい、と」

「そう言っていました。見えなければ、足りないまま終わる。見えれば、苦しくても、足りないことを知って終われる。それでいいと」

 足りないことを知って終われる。

 三枝は足りないことを知っていた。知りながら書いていた。慎也が原稿を返した後も書いていた。苦しみながら、それでも書いていた。


 定食が来た。

 白身魚の煮付けと、大根の味噌汁と、白米だった。慎也は食べながら、浜田の話を聞いた。

「あなたの本を読みました」

「どうでしたか」

「三枝さんのことを書いた本だとわかりました。名前は変えてあったけれど、わかりました。三枝さんだと思いながら読みました」

「読んで、どうでしたか」

「三枝さんが、少し違って見えました」

「違う、というのは」

「あなたが書いた三枝さんは傷ついて、でも、静かに旅をして書くことを選んだ人でした。それは、本物の三枝さんの一部だと思います。でも、私が知っていた三枝さんとは違っていました」

「どう違いましたか」

「あなたが書いた三枝さんは、静かすぎました」

 浜田は言った。

「本物の三枝さんは、もっと激しかった。怒ることがあった。泣くこともあった。書けない夜に、この食堂に来て、黙って酒を飲んでいることもあった。そういう部分が、あなたの本にはありませんでした」

 慎也は箸を止めた。

「私が知らなかった部分です」

「そうでしょうね」

 浜田は言った。責める声ではなかった。ただ事実を言う声だった。

「あなたは出版社の中でしか会っていない。でも三枝さんは、出版社の外でも生きていました。その外側を、あなたは書けなかった」

「書けませんでした」

 慎也は認めた。

「知らなかったのだから。でも、知らなかったことと、いなかったことは違います」


 食事を終えた後、二人は食堂を出た。

 海沿いの道を並んで歩いた。

 浜田は、しばらく黙っていた。慎也も急がなかった。風が穏やかだった。波の音が遠くから聞こえていた。みかんの木が道に沿って続いていた。

「三枝さんが最後にここに来たのはいつでしたか」

 慎也は聞いた。

「亡くなる二ヶ月前でした」

 浜田は言った。

「一人で来て、二泊していきました。海をよく見ていました。大畠瀬戸に行って、渦を長い時間見ていたと言っていました」

「この海を好きだったんですね」

「好きだったと思います。でも」

 浜田は少し間を置いた。

「怖かったとも言っていました」

「怖い、というのは」

「穏やかに見えて、速い流れがある。その速さが、自分の書くものに似ていると言っていました。表面は穏やかで、でも、下に何か速いものが流れている。それを書こうとすると壊れる。壊れることが怖かったと」

 慎也は海を見た。

 穏やかな水面の下に、渦がある。

 三枝はその海を、自分の書くものの比喩として見ていた。表面を壊さずに、下の速い流れを書けるかどうかを考えていた。

「杉本さんは、次に何を書きますか」

 慎也は答えようとして、止まった。

 次に書くものの形は、まだなかった。でも、この旅で積み重ねてきたもので形を作ろうとしていた。

「わかりません」

 慎也は正直に言った。

「今まで書いたものとは違うものを書く必要があると思っています」

「どう違うのですか」

「一つの声で書かないつもりです」


 浜田が立ち止まった。

 海を向いた。波が穏やかに寄せていた。

「杉本さんは、三枝さんの日記を読んだのですか」

 浜田は聞いた。

「澄花さんから画像を送ってもらいました。まだ、全部は読んでいません」

「読んでください。最後の方に、杉本さんのことが書いてありますから」

 慎也は止まった。

「まだ、そこまで読んでいません。祝島から来る間、読もうとしましたが、読めませんでした」

「そうですか」

 浜田は言った。

「今夜、読んでください。読んだ上で明日、また話しましょう」

「明日も、ここにいますか」

「います。この島に、しばらくいます」

 浜田は慎也を見た。

「渡したいものがあります。日記を読んでから渡します。読む前に渡すと意味が変わると思うので」

「わかりました」

 浜田は踵を返し、来た道を戻っていった。

 慎也は海の前に残った。

 波が来た。引いた。また来た。

 穏やかな波の下に、速い流れがある。

 三枝がここで見ていた海を、慎也は今、見ていた。


 宿に戻り、慎也は三枝の日記の続きを読んだ。

 浜田が言った通り、最後の方に慎也の名前があった。

 日付は、三枝が亡くなる一ヶ月前のものだった。

「杉本さんのことを考えた。会議室でのことではなく、あの人が編集者として何を大切にしていたかを改めて考えた。あの人は、届くことを大切にしていた。読者に届くことを。それは正しいことだと思っている。届かない言葉は独り言だ。でも、届けるために言葉を変えることと、言葉そのものを消すことは違う。あの人は届けるために言葉を変えてほしいと言った。そう言われて、言葉を変えることと言葉を消すことの区別がつかなくなった。それで、書けなくなった」

 続きを読んだ。

「でも、杉本さんを恨んではいない。あの人の言葉は本当のことだったと思う。弱さは、私の中にある。あの人の言葉はその弱さに触れた。触れたことで弱さが出てきた。出てきたことで書けなくなった。でも、弱さが出てきたことは悪いことではないのかもしれない」

 慎也は、読みながら目が熱くなった。

 泣けなかった。

 泣く資格がないとは、もう思ってはいなかった。でも、泣けなかった。三枝の言葉が、慎也の目の前にあった。その言葉を前にして泣くことは、三枝の言葉から目を逸らすことだと思った。

「いつか、杉本さんに話せたらいいと思っている。話せなくてもいい。でも、もし話せるなら言いたいことがある。あなたの言葉は、私を傷つけた。でも、あなたが私の文章を読んでくれたことは本当だった。読んでくれた人間が、世界に一人でもいたことは本当のことだ。それで、十分だったのかもしれない」

 最後の一文を読んだとき、慎也は動けなかった。

 ただ、その言葉が赦しではないことは、わかっていた。


 翌朝、再び浜田と会った。昨日と同じ食堂だ。

 浜田は先にいた。テーブルに座り、何かを読んでいた。慎也が入ると顔を上げた。

「読みましたか」

「読みました」

「どうでしたか」

 慎也は向かいに座った。

「三枝さんがどういう人だったかが、少しだけわかった気がします。あの日記は、整えられていない声でした。荒削りで、矛盾していて、でも、本物でした」

「そうです」

 浜田は言った。

「あれが、三枝さんの声でした」

 浜田はバッグから、封筒を取り出した。

 薄い封筒だった。東京の書店で渡されたのとは別の封筒だった。

「これを渡します」

「何でしょうか」

「三枝さんが、この島で書いていた手紙です。誰かに渡すかどうか、最後まで決めていなかった手紙。なので、私が預かっていました。今回、あなたに読んでほしいと思って持ってきました」

「宛名はありますか」

「ありません」

 浜田は言った。

「誰に書いたかも、わかりません。でも、読めばわかると思います」

 慎也は封筒を受け取った。

 開けた。

 中に便箋が一枚入っていた。

 三枝の筆跡だった。細く、鉛筆で書かれていた。

 手紙には、宛名がなかった。でも読むと、慎也に書かれた手紙だとわかった。

「あなたが私の文章を切り捨てたことを、今は怒っていない。怒れないのではなく、怒る必要がなくなった。あなたは正しかったし、私も正しかった。正しいものが、ぶつかった。ぶつかったことで、私は壊れた。壊れたことで見えたものがある。見えたものを書いていきたい。書けるかどうかはわからない。あなたも書く人なのだろうか。そうであれば、書くことをやめないでいてほしい。あなたに伝えたいことは、それだけだ」

 慎也は便箋を持ったまま、動けなかった。

「書くことをやめないでいてほしい」

 三枝は、編集者である慎也に、書くことを願っていた。

 出会ったことも、怒ったことも、傷ついたことも、全部を含めた上で、書くことをやめないでいてほしいと書いていた。

 その言葉が、慎也の中で、何かを決めた。

 決めた、というより、すでに決まっていたことを確かめた。

 書く。

 そして、書くことをやめない。

 三枝が書けなくなった分まで書くのではない。三枝の代わりに書くのでもない。ただ、書くことをやめない。それが、三枝の言葉に対する、慎也の返事だった。


 浜田が、静かに言った。

「もう書かない、という選択肢も、あったはずです」

 慎也は顔を上げた。

「そうですね」

「では、なぜ書きますか」

 慎也はしばらく考えた。

 簡単には答えは出なかった。三枝の手紙があったから、とは言えた。でも、それだけではない。この旅で出会った人々の言葉があったからだ。西川老人の言葉。岡部の言葉。こころの言葉。中川の言葉。砂川の言葉。宮内の言葉。浜田の言葉。三枝の日記の言葉。

 全部が、書くことへの問いだった。全部が、書くことを難しくした。難しくなったからこそ、書く意味が見えてきた。

「難しいから、書きます」

 慎也は言った。

「難しいから?」

「簡単に書けるなら、書かなくていいかもしれない。でも、難しいからこそ、書いてわかることがあるかもしれない。わからないことを書くことで、わかることに少しだけ近づけるかもしれない。それが、書く理由です」

「足りないまま書く、ということですか」

「足りないことを知りながら、それでも書く、ということです。足りないことを隠して書くのではなく、足りないことを抱えながら書きます」

 浜田は慎也を見た。

 長く見た。

「三枝さんが言っていたことと、似ていますね」

 浜田は言った。

「見えるほど苦しくなる。でも、見えない方がいいとは思わない。そう言っていました」

「三枝さんから教わりました」

 慎也は言った。

「会ったことがない授業で教わりました」


 浜田と別れた。

 その後、慎也は一人で海に出た。

 大畠瀬戸の見える場所まで歩いた。

 潮の速い海峡が、午後の光の中にあった。水面は穏やかに見えたが、よく見ると、流れが見えた。水の筋が、岩礁の周りで複雑に動いていた。速い流れが、表面に模様を作っていた。渦は見えなかったが、渦を作る流れは見えた。

 三枝はここで、この流れを見ていた。

 穏やかな表面の下に速いものが流れている。それを書こうとすると、表面が壊れる。けれども、壊れなければ速い流れは書けない。

 次に書くものは、壊れることを恐れない書き方をする。

 砂川が言った通り、矛盾したまま語る。宮内が言った通り、構図を壊させる。中川が言った通り、固定しない。岡部が言った通り、編集したことを抱えたまま書く。西川老人が言った通り、切り落としたことを知りながら書く。こころが言った通り、届いた先で何になるかは受け取る側が決める。浜田が言った通り、知らなかったことといなかったこととは違う。

 全部を抱える。

 抱えたまま、それでも書く。


 慎也はノートを取り出した。

 海峡の前に立ちながら、書いた。

「語ることは、誰かの沈黙を奪う。それでも、人は語らずにいられない。語らずにいられないから、語り方を問い続ける。それが、語る覚悟だ」

 海を見た。

 流れが見えた。

 穏やかな表面の下で、速いものが動いていた。

 それが、書くべきものの在り処だった。

 表面ではなく、その下に。

 整えられた形ではなく、形を壊す速さの中に。


 慎也はノートを閉じた。

 三枝の手紙を、胸のポケットに入れた。

「書くことをやめないでいてほしい」

 やめない、と心の中で答えた。



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