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第十一章 豊島

 語ることは、誰かの沈黙を奪う。

 それでも、人は語らずにはいられない。


 高松港は、朝の光の中にあった。

 フェリーの乗り場に向かうと、観光客らしい姿はほとんどなかった。冬の平日の朝、島へ渡る船に乗るのは、生活のための人間がほとんどだった。大きな荷物を持った老人、業者らしい男、段ボール箱を台車で運ぶ港の作業員。慎也はその流れの中に混じり、乗船券を買った。

 豊島(とよしま)行きのフェリーは、小さかった。

 しまなみ海道の渡し船とも、観光船とも違う。生活の船だった。甲板に出ると、潮風が来た。高松港の潮の匂いは、瀬戸内のどの島とも少し違った。本土の港の匂いが混じっていた。排気と魚と塩が、均等に混ざっていた。


 船が動き出した。

 高松の町が遠ざかった。

 瀬戸内の海が広がった。

 冬の海は灰色がかっていた。空も灰色で、海と空の境界が曖昧だった。どこからが海で、どこからが空なのか、遠くを見ていると判別できない。その曖昧さが、しまなみの海とは違う質感だった。しまなみの海は光が多く、輪郭がくっきりしていた。でも、ここの海は輪郭が溶けていた。

 豊島が見えてきたのは、四十分ほど経った頃だった。

 低い山がある島だった。緑が濃く、海に迫り出す崖があった。集落が島の南側に固まっているのが、近づくにつれてわかった。白い壁の家々が、斜面に張り付いていた。


 船が港に入ると、波が小さくなった。

 桟橋に降り立った。

 足の下に、豊島の地面があった。

 豊島という名前には、重さがある。慎也はそのことを、来る前に調べて知っていた。

 一九七〇年代から九〇年代にかけて、豊島では大規模な産業廃棄物の不法投棄が行われた。島の谷間に、本土の企業が持ち込んだ廃棄物が積み上げられた。総量は約五十万トンとも言われた。島民は訴えた。行政は長い間、動かなかった。廃棄物は「土壌改良剤」と呼ばれ、問題でないとされた時期があった。

 島民が声を上げ続け、法廷で争い、処理が始まったのは二十一世紀に入ってからだった。処理が終わったのは、比較的最近のことだ。

 慎也はその歴史を、知識として持っていた。

 でも、島に降り立つと知識として持っていたものが、別のものになり始めた。

 桟橋から続く道を歩くと、静かだった。

 静かな島はいくつも渡ってきた。でも、豊島の静けさは、それらとまた違っていた。大三島は時間が止まったような静けさだった。でも、豊島の静けさは、何かが押し込められているようだった。

 道の両側に、みかん畑が続いていた。

 木は手入れされていた。実が残っているものもあった。畑の向こうに海が見えた。人々は農業を続けていた。廃棄物が積まれた時代も、処理が続いた時代も、人は畑に出て、みかんを育ててきた。

 その事実が、慎也には重かった。


 島の西側に向かうと、かつて廃棄物が積まれた谷がある。

 豊島廃棄物処理センターの跡地だ。処理は終わり、今は環境学習の場として整備されている。慎也は、その場所に向かって歩いた。

 道は細く、山の斜面を縫っていた。

 人に会わなかった。

 しばらく歩くと、谷が見えてきた。

 かつてそこに積み上げられていたものは、今はない。処理されて運ばれた。でも、谷の形は残っていた。山が切れ込んで窪んでいる地形が、何かを受け入れた地形のようにも見えた。

 慎也は谷の縁に立った。

 風はなかった。

 木の葉は動かなかった。鳥の声もしなかった。

 ここに、五十万トンの廃棄物があった。

 その事実を、立って感じようとした。しかし、感じられなかった。何もない谷を前に、かつてあったものを想像しようとしたが、想像が追いつかなかった。五十万トンという数字の重さが体に入ってこなかった。

 慎也には、それが正直なところだった。

 知識として知っている。でも、体で知っていない。

 この差が何かを意味していると思いながら、慎也は谷を見続けた。


 集落に戻る道を歩いていると、老人に会った。

 畑の端に腰を下ろし、みかんを手で剥いていた。七十代後半か、それ以上か。日に焼けた顔で、手が大きかった。農作業で使い込まれた手だった。

 慎也が通り過ぎようとすると、老人は顔を上げた。

「観光か」

「そうではないんですが」

 慎也は足を止めた。

「島のことを知りたくて来ました」

「島のどのことを」

「昔のことも、含めて」

 老人はみかんを一房、口に入れた。咀嚼しながら、慎也を見た。値踏みするわけでも、警戒するわけでもなかった。ただ、見た。

「座るか」

と言った。

 畑の端の石に、慎也は腰を下ろした。老人は黙ってみかんを剥き続けた。半分ほど剥いたところで、慎也に差し出した。受け取ると、冷たかった。一房食べると、甘みと酸味が同時に来た。この島のみかんだと思った。

「本を書く人間か」

 老人は言った。

 慎也は少し驚いた。

「どうしてわかったんですか」

「そういう目をしている。何かを集めに来た目だ」

 慎也は返す言葉を探した。

「集めに来たと言えば、そうかもしれません。でも、もっと知らなければならないことがあると思って来ました」

「知って、どうする」

「書くかもしれません。書かないかもしれません」

 老人はまたみかんを食べた。海を見た。

「名前は」

「杉本といいます」

「わしは西川じゃ」

 老人は言った。

「この島で生まれて、この島にずっとおる」


 西川老人は、多くを語らなかった。

 語らないのは、語れないからではなかった。語る必要がないほど、長い時間を過ごしてきた人間の寡黙だった。

 慎也が問いを立てると、短く答えた。

「廃棄物のことは、子供の頃から知っていたんですか」

「知っとった。なんか変な匂いがしよったんよ。井戸の水も、どこかおかしゅうなっとった。ほじゃけど、大人らぁは土壌改良剤じゃ言うて聞かせてきた。わしらには、よう分からなんだ」

「声を上げた人たちのことは」

「仲間だ」

 老人は言った。それ以上説明しなかった。

「長かったですね、処理が終わるまで」

「長かった」

 老人は海を見ながら言った。

「長すぎた。その間に、死んだ人間がおる。処理が終わるのを見られなかった人間がおる」

 慎也はその言葉を、静かに受け取った。

「今は、どうですか。終わって」

「終わっとらん」

 老人は即座に言った。

「でも、処理は」

「処理は終わった」

 老人はこちらを向いた。

「でも、島は終わっとらん。何が終わったかと言えば、廃棄物がなくなっただけだ。この島がどういう島として見られるか、それは終わっとらん。『廃棄物の島』という見られ方は、今も続いとる。アートが来て、観光客が来て、少し変わったかもしれん。でも変わったのは表面だ」

 慎也は聞いた。

「この島のことを、外の人間に正しく伝えることはできると思いますか」

 老人はしばらく黙った。

 みかんの皮を、畑の土の上に置いた。

「伝えようとした人間は、たくさんおった」

 やがて言った。

「記者も来た、学者も来た、作家も来た。書いて帰った。書かれたものを読んだ。悪くなかった。でも」

 老人は続けた。

「全部、どこか足らんかった。足りんのは仕方ない。ここで生きていない人間には、ここで生きることの全部はわからん。それは責めとらん。だが、足りないままで足りていると思って書かれると、困る」

 その言葉が、慎也の胸に入った。

 足りないままで、足りていると思って書かれると、困る。


 夕方になると、西川老人は立ち上がった。

「飯、食っていくか」

 断る理由がなかった。

 老人の家は、集落の中にある木造の家だった。古く、でも、手入れがされていた。玄関に長靴が並んでいた。土間があり、囲炉裏の名残のような場所があったが、今はテーブルと椅子が置かれていた。壁に何枚かの写真が貼ってあった。

 老人が台所で何かを作る音がした。

 慎也は壁の写真を見た。

 白黒の写真があった。若い男女が畑の前で並んでいた。笑っていた。年代は判断できなかったが、古い写真だった。その隣に、カラーの写真があった。集会の写真だった。大勢の人間が、何かの建物の前に集まっていた。横断幕が見えたが、文字は読めなかった。

 別の写真もあった。海の写真だ。

 豊島の海を撮ったものだろう。夕方の海で、光が斜めに差していた。誰も写っていない、海だけの写真だ。

 慎也はその写真の前で、しばし思いにふけった。

 この海を三枝は見たのだろうか。

 三枝の日記に、豊島に行かなければならないと書いてあったと、澄花は言っていた。行こうとして、行けなかった島。なぜ、行かなければならないと思い、なぜ、行けなかったのか。それは澄花にも慎也にもわからない。

 三枝はこの島のことを知っていた。

 知っていて、何かを感じていた。

 それは確かなことだった。


 食事は質素だった。

 魚の煮付け、大根の味噌汁、白米。老人は料理をしながら、話すわけでもなく、黙るわけでもない時間を過ごした。慎也も黙って座っていた。

 やがて、慎也はここに来た理由をゆっくりと明かした。

 老人は、その話を受けて、こう返した。

「廃棄物を『土壌改良剤』と呼んだ人間も、嘘をついたわけではない。そう信じていた人間もおった。信じていることと、本当のことは、違う。お前が書いた物語も、お前が信じた物語だ。本当のことかどうかは、別の話だ」

 老人は茶を飲んだ。

 慎也はしばらく、何も言えなかった。


 夜、宿に戻った。

 豊島の宿は小さかった。民宿で、他に泊まり客はいなかった。部屋に入ると、海が見えた。夜の海は暗く、光がなかった。

 慎也はノートを開いた。

 西川老人の言葉を書いた。

「信じていることと、本当のことは、違う」

 三枝の本当の声を、慎也は持っているか。日記を読んだわけではない。澄花から断片的に聞いた。伯方島のノートを読んだ。生口島の藤井の話を聞いた。山本フミコの話を聞いた。断片を集めた。でも、三枝の本当の声ではない。

 慎也が書いた三枝は、慎也によって解釈された三枝だ。

 解釈することは、どこかで変形させることだ。

 変形させたものを、本物のように書いた。

 その罪は、三枝の原稿を「売れない」と切り捨てた罪と、構造が同じではないか。

 慎也は窓の外の暗い海を見た。

 光がなかった。

 しまなみの海には、常に光があった。橋があり、灯台があり、島の灯りがあった。でも、この海には、今夜は光がなかった。

 光のない海を、慎也は初めて見た。

 怖くはなかった。

 何かが、ここにある。

 見えないが、何かがある。

 それが、この島の正直さかもしれないと思った。


 翌朝、島を歩いた。

 西川老人の家に寄ると、老人はすでに畑にいた。慎也が近づくと、顔を上げた。

「また来たか」

「少し、聞いてもいいですか」

「ああ」

「昨夜、考えました」

 慎也は言った。

「自分の本に、切り落としたものがあるとは思っています。でも、切り落とさずに書くことは、できるんでしょうか。全部を書くことは誰にもできない。どこかで選択が入る。選択が入れば、切り落とすものが出る」

 老人は鍬を地面に突き立てて、慎也を見た。

「できない、と言いたいのか」

「できないとは思っていません。でも、どうすれば切り落とさずに済むかが、わからない」

「切り落とさずに書くことはできん」

 老人は言った。

「それはお前の言う通りだ。でも、切り落としたことを知っているかどうかは、違う」

 慎也は聞いた。

「切り落としたことを知っている書き方と、知らない書き方は、どう違いますか」

「読んでいる者に伝わる」

 老人は言った。

「書いた者が、これは全部ではないと知っている書き方は、読む者にも伝わる。謙虚さではなく、誠実さとして。逆に、これが全部だと思って書いたものは、どこかで嘘になる。嘘は伝わる。書いた本人が気づいとらんでも」

 慎也はその言葉を受け取った。

 これは全部ではない、と知って書くこと。

 書きながら、足りないことを抱えたまま書くこと。

 慎也はその言葉を、ノートに書いた。

 畑の土の匂いがした。みかんの葉の匂いがした。

 豊島の朝は、静かだった。


 午後のフェリーで、島を出た。

 桟橋に立ち、船を待つ間、慎也は島を見た。

 集落の白い壁が、斜面に並んでいた。みかん畑の緑が、その上に続いていた。かつて廃棄物が積まれた谷は、この角度からは見えない。それでも、知っている者にはその場所がどこにあるかがわかる。見えなくても、ある。

 西川老人は、見送りに来なかった。

 来る前に持っていた問いと、帰るときに持っている問いは、別のものになっていた。来る前は、自分の本に何が足りないかを探しに来た。帰るときに持っているのは、足りないまま書くとはどういうことか、という問いだった。

 問いが深くなった。

 それを進んだと呼ぶのかどうかはわからなかった。それでも、変わったことは確かだった。


 船が来た。

 乗り込みながら、慎也は次の島のことを考えた。

 直島。

 アートの島として知られる直島。現実が作品化されている場所。豊島とは、また違う問いがあるのかもしれない。

 船が動き出した。

 豊島が遠ざかった。

 慎也はノートを取り出した。

 「わからないまま書く。それが、次の一歩かもしれない」

 書いてから、その言葉を眺めた。

 答えではなかったが、問いの形が少し変わった。

 変わったことが今日の収穫だと思えた。


 瀬戸内の海が、船の後ろに広がっていた。

 光のない海ではなかった。午後の薄い陽が、水面に落ちていた。

 弱い光だったが、そこにあった。

 あることと、ないことの間に、この旅はある。

 慎也はそう思いながら、船に揺られた。



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