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第十章 再び瀬戸内へ

 本が出た。

 タイトルは『灯台の島』にした。

 最後まで迷った。担当編集者の田辺は、もっと手に取りやすい題名にしないかと言った。

『灯台の島』は地味だと。売れ線ではないと。慎也はその言葉を、どこかで聞いた言葉として聞いた。かつて自分が三枝に言った言葉と、構造が同じだった。売れるかどうかが判断の基準になっている。

 でも、田辺は最終的に慎也の意志を尊重し、『灯台の島』で出した。

 装丁はシンプルだった。白い表紙に、小さな灯台のシルエットが一つ。瀬戸内の空気を帯びた表紙だとデザイナーは言った。慎也はその表紙を、見本が届いた日に、しばらく机の上に置いて眺めた。

 三枝のノートを、隣に置いた。

 二冊が並んだ。一冊は三枝の書きかけたもの。一冊は慎也が書いたもの。並んでいると、どちらがどちらかわからなくなる気がした。慎也の本の中に、三枝の時間が混じっていた。三枝の書いた灯台守の続きが、慎也の本の中にあった。それが正しいことかどうかは、今も確信が持てなかった。でも出した。出したことで、問いは閉じなかった。むしろ開いた。


 発売から二週間、静かだった。

 三週目に入ったとき、ある文芸誌の批評欄に短い評が載った。

 書いたのは知らない書評家だったが、文章は丁寧だった。

「瀬戸内の島々を旅する元編集者の物語。喪失と罪悪感を抱えた主人公が、海の上を渡りながら、書くことの意味を問い直す。静かな誠実さがある」

と書いてあった。

 誠実さ、という言葉が、慎也の胸に残った。

 誠実であろうとした。でも、本当に誠実であったかはわからなかった。


 反響は、じわじわと来た。

 最初は文芸の読者層から。次に、一般の読書家から。SNSに感想が書かれ始めた。

「しまなみ海道を自転車で走りたくなる作品」

「三枝の灯台守の物語に泣いた」

「主人公の罪悪感が自分と重なった」

 悪い感想もあった。

 最初に目についたのは、短い一文だった。

「綺麗すぎる」

 書いたのは知らない読者だ。でも、その二文字が慎也の中で妙な引っかかりを作った。綺麗すぎる。それが批判として書かれていることはわかった。でも、何が綺麗すぎるのか掴めなかった。

 数日後、別の場所に、もう少し長い批評があった。

 「この作品は丁寧に書かれているが、どこか整いすぎている。旅で出会う人々が、主人公の内面の変容を促すために機能しすぎていて、彼らが自律した人間として存在していない。リアルな傷は、こんなに綺麗に折り畳まれない」

 慎也はその文章を、三度読んだ。

 反論しようとした。でも、反論の言葉が出なかった。

 出ない理由を考えてみた。

 考えるほど、その批評の指摘が自分の中の何かに触れてくる感じがあった。痛みというより、違和感。何かがそこにある。でも、それが何かはわからなかった。


 初めての講演会の依頼が来たのは、本が出てから二ヶ月後だった。

 小さな書店の主催で、三十人ほどの読者を前に話す会だった。断る理由はなかった。断ることが正しいとも思えなかった。書いたものについて人前で話すことは、書いたことの続きだと思って受けた。

 会場は、東京の西側にある古い書店だった。

 本棚が天井まであり、床に本が積まれていた。尾道の古本屋に似た雰囲気があった。尾道の古本屋ほど暗くはなかったが、本の匂いが同じだった。慎也はその匂いを嗅ぎながら、この旅が始まった場所を思った。

 三十人の前で一時間ほど話した。

 しまなみ海道を旅したこと。島で出会った人々のこと。書くことを決めた経緯。三枝拓海のことは、名前を伏せて話した。

 話しながら、自分が何を話しているかを意識した。

 整えて話していた。

 旅の断片を、話として聞かせるために、整えていた。矢野の言葉を話すとき、矢野が言った言葉の全部を話したわけではなかった。吉野賢二の話をするとき、吉野の原稿についての自分の評価は話さなかった。

 それは当然のことだった。話には長さがある。全部を話すことはできない。

 でも、削ったものが心に落ちていた。


 講演会が終わり、サイン会があった。

 列ができた。一人ひとりが本を持ってきて、慎也はページにサインをした。名前を聞き、一言添えた。その繰り返しが、三十人分続いた。

 最後の一人になったとき、慎也は顔を上げた。

 女性だった。

 年齢は五十代の半ばか、あるいはもう少し上か。黒いコートを着て、手に本を持っていた。本は慎也の本ではなかった。別の本だった。薄い、文庫本だった。

「サインは、こちらではなくていいんですか」

 慎也は言った。

「サインをもらいに来たわけじゃないんです」

 落ち着いた声だったが、何か重いものを含んでいた。

「少しだけ、お時間をいただけますか」

 書店のスタッフが気にして近づいてきたが、慎也は、

「大丈夫です」

と言った。

 彼女は慎也の前に立ち、まっすぐ目を見た。

「あなたは、あの人の海を知らない」

 その言葉が、静かに、しかし確かに出た。

 慎也は動けなかった。

 海を、という言葉の意味が、すぐにはわからなかった。でも言葉の重さが先に届いた。批判でも、怒りでもなかった。何かの事実を告げる言い方だった。

「あの人、とは」

「あなたが書いた本の中にいる人です」

 彼女は言った。

「あなたが書いた人ではなく、あなたが書くことになった、本物の人」

 三枝拓海のことだ、と慎也は理解した。

 この人は、三枝を知っている。


 書店を出ると、夜だった。

 冬の東京の夜は乾いていた。街灯が白く、人の息が白く見えた。

 彼女は慎也と並んで歩いた。名前は名乗らなかった。

「あの本を読みました。丁寧な本だと思いました。でも、足りないものがある」

「何が足りないんですか」

「海です」

 彼女は繰り返した。

「あの人は、海の人でした。あなたが書いた人物は、島を通り過ぎた人でした。でも、あの人は島に沈んだ人でした。沈んだことが、あの人の書くものの根っこになっています。あなたの本からは、その根っこが見えない」

 慎也は歩きながら、聞いた。

「あなたは、三枝さんをどこで」

「私は島にいました」

 彼女は言った。

「橋では繋がっていない島に。あの人がよく来ていた島に」

 橋では繋がっていない島。

 慎也がしまなみ海道で渡った島々は、橋で繋がっていた。尾道から今治まで、橋が連なっていた。でもしまなみ以外にも、瀬戸内には多くの島がある。橋ではなく、船でしか渡れない島が。

「どの島ですか」

 彼女は立ち止まり、コートのポケットから封筒を取り出した。

 白い封筒だった。差出人の名前はなかった。慎也の名前だけが、表に書かれていた。

「これを渡してほしいと、頼まれました」

「誰に」

「あの人に会いたければ渡れる、と言っていた人に」

 慎也は封筒を受け取った。

 彼女はそれ以上何も言わず、夜の人込みの中に戻っていった。振り返らなかった。人の流れに混じり、すぐに見えなくなった。

 慎也は封筒を持ったまま、夜の道に立っていた。

 開けた。

 中には、紙が一枚入っていた。

 手書きで、島の名前だけが書かれていた。

 豊島(とよしま)直島(なおしま)小豆島(しょうどしま)女木島(めぎじま)男木島(おぎじま)祝島(いわいしま)周防大島(すおうおおしま)

 七つの名前が、縦に並んでいた。

 しまなみ海道の地図ではなかった。これらの島々は、橋で繋がっていない。船で渡るしかない島々だ。三枝澄花の地図と同じ形式だったが、別の手が書いていた。文字の癖が、澄花のものとも、三枝のものとも違った。

 誰が書いたのか。

 なぜ、今。

 慎也の本が出てこの封筒が届いた。繋がりはそこにしかなかった。


 部屋に戻り、慎也は封筒と紙を机の上に置いた。

 三枝のノートの隣に置いた。

 七つの島の名前を、もう一度見た。

 豊島。直島。小豆島。女木島。男木島。祝島。周防大島。

 しまなみ海道の島々とは違う島々だった。瀬戸内の島ではあるが、橋ではなく、船で渡る島々だった。三枝がそこに行っていたのかどうかは、わからなかった。彼女は

「あの人に会いたければ渡れる島」

と言った。三枝はもういない。三枝に会うことはできない。でも、彼女の言い方は、そういう意味ではなかった気がした。

 三枝の書いたもの、三枝が見たもの、三枝が沈んでいった海。

 そこに触れることができる、という意味ではないか。

 慎也は自分の書いた本を手に取った。

 批評家は言った。整いすぎていると。

 彼女は言った。海を知らないと。

 慎也自身も、違和感を持っていた。できるだけ誠実に書いたと思っていた。でも、何かを削って、何かを整えて、読めるものにした。削ったところが、この本にある空洞かもしれないと思った。

 あれは、本当に「彼の物語」だったのか。

 その問いが、初めて形を持って現れた。

 三枝の物語を書いた、と思っていた。三枝に触れた物語を書いた、と。でも、彼女の言葉を受けると、自分は三枝について自分が知っていることだけを書いただけ、という気がした。自分が知っていることは断片だ。断片を繋いで、一つの形にした。でも、形にしたとき、断片と断片の間にあったものが、こぼれた。

 こぼれたものが、七つの島にあるのかもしれない。

 慎也は窓の外を見た。

 東京の夜が広がっていた。光の密度が高く、星は見えなかった。

 大三島の夜に見た星を思い出した。名前を知らない星が暗い空にたくさんあった。名前を知らなくても、星はそこにあった。

 この本に書かなかったものが、どこかにある。

 書かなかったことで、なかったことにはならない。

 慎也は紙を手に取り、もう一度見た。

 七つの島の名前。

 行かなければならない、という感覚が、静かに来た。

 逃げるようにではなく、今度は。

 向かうべき場所があるから、向かう。そういう感覚だった。


 翌朝、澄花に連絡した。

 今度は電話だった。

 封筒のことを話した。女のことを話した。七つの島の名前を読み上げた。

 澄花は、しばらく黙っていた。

「豊島」

と澄花は言った。

「ええ」

「兄の日記に、豊島のことが出てきます」

 慎也は立ち上がった。

「何と書いてありましたか」

「豊島に行かなければならない、と。でも行けなかった、とも書いてあった。行こうとして、行けなかった島だと」

「なぜ行けなかったか、書いてありましたか」

「書いてなかった。ただ、行けなかった、とだけ」

 澄花の声が、少し変わった。何かを確かめるような声になった。

「杉本さん、行くんですか」

「行こうと思っています」

「一人で」

「そのつもりです」

 澄花は少し間を置いた。

「気をつけてください」

とだけ言った。

 それから、一つ付け加えた。

「兄が行けなかった場所に行ってもらえるなら、ありがたいことです」

 電話を切った後、慎也は日程を調べた。

 豊島へは、高松か宇野からフェリーで渡る。橋はない。船でしか行けない。

 橋のない島への旅。

 しまなみとは、違う旅になる。

 慎也は旅の準備を始めた。今度はロードバイクを持っていかなかった。自転車で走る道ではなく、歩いて入る島だと思った。荷物を減らした。ノートとペンを入れた。三枝のノートも入れた。

 行くべき場所がある人間の動作で、準備をした。

 迷いがなかったわけではなかった。でも、迷いよりも向かう感覚の方が大きかった。

「あなたは、あの人の海を知らない」

 彼女の言葉が、まだ耳の中にあった。

 知らないなら、知ろうとする。それが今の自分にできることだった。

 知った後で何を書くかは、知ってから考える。

 書くことと知ることが、慎也の中で、ようやく同じ方向を向き始めていた。


 出発の前夜、慎也は机の前に座った。

 三枝のノートと、自分の本と、七つの島の名前が書かれた紙が、机の上にあった。

 自分の本を開いた。

 最初の一行を読んだ。

「坂が、足を嫌っていた」

 書いたときには、これが自分の言葉だと思った。今もそう思う。でも、今はそれが全部ではないことも、わかっていた。この一行の下に、書かなかったことがある。書けなかったことがある。

 それは、恥ずかしいことではなかった。

 慎也は自分のノートを開き、新しいページに何かを書こうとした。

 でも、今夜は書けなかった。

 書く前に、聞くことがある。

 書く前に、見ることがある。

 書く前に、沈むことがある。

 ノートを閉じた。

 明日、高松へ向かう。高松から船で、豊島へ渡る。橋ではなく、船で。

 しまなみ海道を渡ったとき、慎也は逃げるように出発した。

 今度は違った。

 何かを引き受けるために、出発する。

 引き受けることの重さを、まだ全部は知らなかった。でも、引き受けるという動作が、今の自分には必要だった。

 窓の外に、東京の夜があった。

 光の密度が、いつもと同じだった。変わらない光の中で、慎也は明日の船の時間を確認した。

 橋のない海を、船で渡る。

 それが、次の旅の始まりだった。



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