chapter65 牙姫襲来①
夕方の街を一人、帰路を歩いていくアルファの脳内には、眠るサザの手を握るサァフの姿があった。
いつも一緒に眠っているが、見たことのない柔らかさの、優しい笑みを浮かべていたサァフに、アルファは寂しさを抱いた。
「いいなぁ……」
口から洩れたのは、羨望だった。
しかし、そこにサザへの暗い気持ちはなかった。心に抱いてもいなかった。
確かに、大好きなサァフが遠くへ行ってしまうような気もしていたが、それは仕方のないことだと、アルファは割り切れていた。
アルファの心にあったのは、サァフのサザへ向ける目と感情だ。
彼女の家族へ向ける、無償の愛が、アルファにはたまらなく羨ましかった。
サァフに見たのは、母親の愛だった。
実際には姉妹愛なのだが、普段、姉同然に慕っている彼女の大人びた表情に、アルファは母親のイメージを重ねてしまっていた。
「……ママ」
ふと口について出た言葉に、はっとなった。
普段は胸の奥底に仕舞っている、彼女の本当に欲しい存在。
首を振って、深呼吸。
言葉にしたって、母親は戻ってこない。それはアルファが一番よくわかっている。
ゼットを困らせてしまう。
普段は能天気な父親が、母親の命日に黙祷を捧げている。
幼い頃に、母親の話をせがむ自分に、嫌な顔一つせず、穏やかに語って聞かせてくれた。
「アルファ、お前の母さんは凄い人だった。とても大勢の人から、慕われていたんだ」
「ママは、お姫様だったの?」
「ふふふ、実は女王様だったのさ」
「きゃー!」
幼い頃は喜んで聞かせてもらっていたが、大きくなるにつれて、女王様と父親が結婚できないことを知って、ならばきっととても人柄に優れた人なんだと思うようになった。
女王様のように素晴らしい人。
父親にとっては、まさに敬愛する人だったのだろう。
自分を産んだ時に、死んでしまった、優しい人。
「母さんは、お前を愛していた。最後の最期までな」
何度も聞かされたその言葉を思い出して、今になって目の前が涙で潤む。
泣いちゃダメだ。
ママみたいな凄い人に、ママみたいな人をこれ以上出さないような立派なお医者様になるんだ。
アルファは両袖を目元に当てて涙をしみこませると、前を向いた。
その顔は、笑っていたが、痛みをどこか堪えているようだった。
それからしばらくして、ワンダー診療所へと戻り、ドアを開けたアルファが見たのは、驚く光景だった。
待合室の椅子に、お姫様が座っていた。
持っているお伽噺の挿絵や、学校の授業で見せてもらった絵画から飛び出てきたような、もしかしたらそれ以上の、言葉にできない美しさを纏った、自分と同じ年頃の女の子だった。
窓から射す斜陽を受けた髪の毛は輝いており、顔の両端でくるくると巻いた不思議な髪型が、黄金の渦巻きに見える。
薄緑色のドレスは、ミルシャが着ているものとは全く違う素材でできていることを、その優れた視覚で感じ取った。
牙を想起させる鋭い眦に嵌った緑色の瞳が、まっすぐにアルファを見ていた。
吸い込まれそうな、不思議な感覚に、アルファは胸が大きく跳ねた事を自覚した。
ドアを開けたまま、身動きを取れずにいると、お姫様が目を細めてほほ笑んだ。
「お邪魔しておりますわ」
可愛らしい声に、アルファは我を取り戻して、肩を跳ねさせた。
「ひゃっ、はいっ、いらっしゃいませ……」
どうにか答えていると、奥からアンジュが姿を見せた。
「あ、おかえりなさい。サァフは?」
「ただいま。向こうで一晩泊まることになったよ」
「え? 何で?」
狐につままれたような反応のアンジュに、アルファは後で説明するね、と答える。
「ところでお姉ちゃん、あのお姫様みたいな人は?」
先ほどから気になって仕方ないため、アルファはつい尋ねてしまう。
診療所に来たということは、何かしら診てもらいたいことがあるのだろうが、具合が悪そうには見えない。
「あー……うん、あの子ね」
アンジュが頬を掻きながら件の少女へ目を向ける。
するとお姫様は立ち上がり、スカートの裾を摘まんで優雅に一礼した。
「初めまして、私はファング・ディメンションと申します。特に王族だとか、貴族ではないので、かしこまらなくても結構ですわ」
「そうなんだ?」
貴族でなくても、そんな服を着られるのだろうか、という疑問を飲み込み、目の前の少女の言葉を素直に受け止め、アルファはひとまず落ち着くことに専念した。
「アルファ・ワンダーです」
「アルファ・ワンダー……」
アルファの名前を繰り返した。
「アルファ、とお呼びしても?」
「え? う、うん。ところで、ディメンションさんは……」
「ファングでいいですわ」
ファングはそう言うと、ソファへと座り直した。
言い方はミルシャのようだが、威圧や見下すような感じはなかったので、やはりいい家の生まれなのかもしれないと、アルファは考えた。
と、診察室からゼットが姿を現した。その隣にはカップを手にしたコーシェが付き添っている。
「おかえり、アルファ」
「おかえり」
「ただいま」
アルファは先ほど言った通りに、ゼットたちにサァフが駐屯地へ一泊する旨と、その理由を説明した。
サァフの妹がいて、色々会って診療所にやってくると聞いて、アンジュとコーシェは驚いていたが、ゼットは気にした風でもなく、頷くだけだった。
「わかった」
「わかったって、いいんですかゼットさん……」
「サァフを雇った時だって急な話だったんだ。部屋は空いてるし、別に雇えないこともない。騎士団からすれば、サァフと一緒に働いていてくれていた方が監視しやすいって言うのもあるだろうし」
「はぁ……」
アンジュとコーシェは、まぁゼットなら大丈夫だろう、と言うよりもいつものことかと諦観したようだった。
アルファは、父がサザの事をすぐに受け入れてくれたことがうれしかった。
「明日、伝達があった後、サザが来るって感じだろうな。伝えてくれてありがとう、アルファ」
ゼットに撫でられ、アルファは心が温かくなった。
だが、ふと視線を覚えて振りかえると、ファングがこちらをじぃっと見つめていた。
少し目を細めて、無表情で、アルファを観察しているようだった。
「えぇと、ファングさん?」
「さんもいりませんわ。ファングで結構です」
「えと、うん……」
呼び捨てにすること自体は別に構わなかったが、先ほどと違った雰囲気に、アルファは圧されていた。
敵意と違うようだが、気にくわない、と彼女の目が語っている……気がした。
そこでアルファは、アンジュとコーシェが静かに自分たちを見守っている事に気が付いた。
コーシェに至っては、目を逸らした。
ここでアルファは、駐屯地へ行く前に見たアンジュたちの様子のおかしさの原因が、ファングに起因する可能性に行きついた。
もしかしたら、あの時に、ファングは診療所に来ていたのかもしれない。
だとしても、どうしてアンジュたちがあのような態度を取ったのかわからなかったし、現在、ファングが面白くなさそうに見てくる理由もわからずにいた。
「……なるほど、随分と父親らしくなりましたわねぇ」
「え?」
ファングの言った意味がわからず、アルファは首を傾げた。
だが、ゼットは「父親だからな」と返した。
「全く……鼻の下が伸びていますよ」
「伸ばしてねぇよ」
そこで、アルファは新しく、ゼットとファングの様子にも気付いた。
ゼットの口調が、自分やアンジュたちのような、親しい者へのそれなのだ。
ファングの方も、昨日今日知り会ったような雰囲気ではなく、長い間付き合いのある者同士のようなやり取りの仕方なのだ。
ここに来て、アルファはファングが患者ではなく、来客であること、それも父親の事を知る者だという事を悟った。
「ねぇパパ。ファングと知り合いなの?」
「あー……うん、それについてなんだがな」
ゼットが言いかけたが、横からファングが口を挟んだ。
「ゼット・ワンダーは、私の師匠なのです」




