chapter1
うっすらとした早朝の自室で、アルファ・ワンダーはそっと目を開いた。
カーテンの向こうからは人々が動き出す気配と、昇ってくる朝陽の穏やかな光。
うーんと背伸びをして、右膝の裏に両手を回し、少しだけ反動をつけながらころんと起き上がる。それからもう一度、今度は前に向けて伸びをして、小さく息を吐く。
まだ春先で、少しだけ息が白かったが、肌寒さは感じられない。よく眠れたからかな、と寝ぼけた頭で考えながら、ベッドからそっと降りた。
簡素だがしっかりとした作りの勉強机に、小さな箪笥と本棚、それから部屋の隅っこに置かれた玩具箱があるだけの自室を視界に収め、アルファは寝間着を脱ぐ。
しかし、そこでようやく寒気を感じたらしく、小さな悲鳴をあげてベッドに潜りこみ、枕元に畳んでいた着替えを取ると、掛布団の中でごそごそと着替え始めた。そのまま二度寝をするときもたまにはあるが、今日は一分としないうちに掛布団が跳ね除けられ、麻のブリオーに身を包んだ状態で姿を現した。その後、布団と寝間着を畳んでおくことも忘れない。
「……あの夢、なんだったんだろ」
ふと疑問を漏らすが、答える者は誰もおらず、畳み終えた寝間着を枕元に置くと机の上に置いてあった肩掛け鞄を持って部屋を出た。
その瞬間、ふわりとした美味しそうな臭いが鼻孔を擽る。小さな物音と油の跳ねる音が聞こえてくると、ぐぅぅとお腹が空腹を主張してきた。
一階へ降りると、竈の前で調理器具を手慣れた様子で扱いながら鼻歌交じりにかき回している青年の後ろ姿が見えた。
真っ直ぐに降りた黒髪は首にかかる程度に伸ばされており、前髪も少しだけ長いのだが、今は三角巾の中に仕舞い込んでいるようだ。そうするとおでこが広く見えるけれど、いかにも料理人という風に見える時がある。もちろん、プロと比べるものではないが、アルファは青年の料理が世界で一番好きだった。
アルファが階段を降りきる前に、青年はちらっとだけ顔を向けた。高い身の丈に対して幼く見える独特の顔立ちをしており、最初に彼を見た者は、まだ子どもか、もしくは成人して間もない若人と間違えることだろう。同じ顔立ちの人間はこの国はおろか、周辺国にもいないため、これこれこういう人相の人物と言えば、ほぼこの青年の事だ。
顔のどの作りも全く違うが、髪の色は同じ黒であるし―そもそもアルファはあまり気にしたことはなかった。
彼女にとって一番身近で、一番大事な人であることに変わりはない。
「おう、アルファ。おはよっ」
「おはよう」
軽い調子で朝の挨拶を追えると、青年は再び視線を手元に戻す。
アルファは洗面台へと向かい、くみ上げられたばかりの冷たい井戸水で顔をさっと洗い、自分用の歯ブラシで歯を磨く。いつも通りに寝ぼけた頭を覚醒させる儀式を終わらせて食卓へと戻ると、すでに朝食の準備は整っていた。
と、アルファが用事をしている間、二階へ上がっていた青年が階段を降りてきた。腹減ったなと笑い、二人で席について、両手を合わせる。
「いただきます」
「いただきます」
いつものように食前の挨拶をしてから、二人は手に持った一対の棒を使って、油で熱した野菜を食べ始める。
「あ、今日は卵が入ってる」
「新鮮なのがとれたからな。カボチャたちに感謝だな」
「うん!」
喜色満面で朝食を頬張る彼女を、青年は時折優しい視線で見守っている。
「ねぇ」
「うん?」
「今日ね、不思議な夢を見たの」
「ほう、どんな?」
「どこかの洞窟なのかな、お日様みたいに明るくて、夕焼けみたいに綺麗な赤い鎧の騎士様がいたの」
「どんだけ派手な鎧なんだそいつ……」
呆れながら苦笑いを漏らす青年に、それでね、と続ける。
「騎士様が兜を取ったら、中から誰が出てきたと思う?」
「さぁ……? ミスロかライカか? それともケンドゥスか?」
冗談めかした口調に、アルファは悪戯が成功したと言わんばかりに目を輝かせて、
「パパだった」
無垢な笑顔を向けた。
青年……アルファのパパは飲みかけていたお茶を噴き出しそうになってそれを抑え、返ってむせかえるという奇妙な芸当を見せた。机の上に飛沫一つ散っていない、まさに芸当であったがそこに突っ込む者は誰もいない。
「大丈夫?!」
「大丈夫だ…けほっ、問題……けほけほっ、ない……」
すぐに調子を取り戻した父に、「なんかごめんね」としゅんとした表情を向ける。
それを見て、パパは慌てた様子で手をバババッと顔の前で振った。
「いやアルファは悪くないさ。うん、ちょっと驚いただけさ」
「そ、そう?」
「おう!」
それを聞いて元気を取り戻したアルファに、パパが顎に手を添えてむふふんと得意げに笑う。
「それにしても、夢の中に騎士様の俺か。アルファは俺の事をそんな風に思ってくれてるんだなぁ♪ うんうん」
「うぅん、パパは騎士様っていうよりお医者だよね」
「だよね、じゃなくて現実にお医者だよ、俺は」
少し照れたように頬を赤らめながら、アルファは冷静に返し、パパはそれを聞いてがっくりと肩を落とした。
「……でも、たまにはカッコいいところもある……と思う」
ぼそっと顔を逸らしたアルファのつぶやきに、パパは少しだけきょとんとした表情を浮かべるが、すぐに喜色満面の笑みを浮かべた。
「いやぁ、娘にそう思ってもらえるって俺は幸せだなぁォイ!」
「調子に乗らない! たまにだから、たまにだからねっ!!」
ごふっと苦悶の声を漏らすフリをして仰け反るパパに、アルファはため息をつくが、すぐに噴き出してしまう。それにつられて、パパも苦笑を浮かべ、やがて楽しそうに笑い始めた。
大好きな人と一緒に居る、いつもの風景、優しい時間。
それが、アルファ・ワンダーの当たり前で、幸せな日常だ。
ααααα
「ごちそうさまでした」と先に食べ終えたアルファは食器を持って流し台へと運ぶと、外から鐘の音が聞こえてきた。
「あ、行かなくっちゃ」
「おう、気をつけてな」
「うんっ!」
昨夜のうちに戸口の近くに立てかけておいた細長い麻袋と肩掛け鞄を手に取り、アルファは返事をする。
その時、来客を知らせるベルの音と共に扉が開き、一人の女性が顔を覗かせた。
栗色の髪と凛々しく整った顔立ちの美しい女性だが、身に纏った胸当てと籠手と脛当て、後ろ腰に佩いた剣で、彼女が騎士だとわかる。胸当ての左側には、王国騎士の証である、水色をベースに、三本の黄色い横線に緋色の鳥が描かれたエンブレムが付けられている。
軽装姿だが、軸がぶれていない姿勢で、穏やかな中にも凛とした佇まいを見せている。
立派な様子で騎士然としているが、実は髪を伸ばしており、普段は動きやすいようにと紐で括ってまとめて、インナーの中に入れていることをアルファたちは知っている。
女性騎士はアルファと目が合うと、慈愛に満ちた笑みになって軽く手を上げる。
「お、起きているな。おはよう、アルファ、ゼット」
「おはよう、ミスロお姉ちゃん!」
ミスロは頷いて、アルファが通れるように道を空ける。
その先には、サラサラとした緑の黒髪に、小鳥の髪飾りを付けた少女が立っていて、アルファに小さく手を振っていた。
「おはよぉアルファちゃん。ゼットさんも~」
「おはよっリリアン!」
「あぁおはようリリアン。今日もアルファの手綱は任せたぜ?」
「パパったらひどい!」
「任せてください!」
「リリアンまで?!」
「ほらほら、そんな調子でやってると遅刻するぞ」
苦笑いのミスロに、アルファたちは「はーい」と声を揃えて答えて踵を返す。
「さぁ、今日も一日学んでくるといい」
「気をつけてなー」
「うん! 行ってきまぁす!」
パパとミスロに手を振ると、アルファはリリアンと共に朝の街へと駆けだした。




