第九話 歩く
D-3。
十六時まで、あと、十分。
空野は、すでに、靴を、脱いでいた。
リノリウムの上に、靴下のまま、立っていた。
立っている、というよりは、待っている、と言った方が、近い。
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扉が、開く。
神代だった。
今日は、ヒールでは、なかった。
低い、フラットな、靴。
靴を脱ぐ動作が、昨日より、少しだけ、早かった。
「早いね」
と、神代が、言う。
「お前、それ、昨日も言った」
「そうだったかしら」
「そうだ」
神代は、少しだけ、笑う。
完全な笑いでは、ない。
ただ、口の端が、動いた、というだけの、笑いだった。
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ストッキングのまま、リノリウムの上に、立つ。
肩は、入っている。
抜けていない。
それは、昨日と、同じだった。
ただ、昨日と違うのは、神代が、それに、慌てていない、ということだった。
「今日も、立つだけ?」
空野が、訊く。
「……いや」
神代は、首を、横に振る。
「立てるか、分からないから、歩く」
「歩く?」
「歩いたら、もしかしたら、立てるかもしれない」
⸻
空野は、それを聞いて、少し、笑った。
笑ってから、笑ってしまったことに、驚いた。
神代と二人で、笑った、ということが、生まれて初めて、だったから。
神代は、笑わなかった。
ただ、空野の笑いを、観ていた。
⸻
「歩き方、決める?」
空野が、訊く。
「いえ」
「どっちが、先?」
「あなた」
「俺か」
「ええ」
空野は、頷く。
二歩半、離れた距離から、神代に向かって、歩いてみる、ということに、決めた。
「歩いて、止まる」
「止まったら、お前は、どうする?」
「あなたが、止まるまで、私も、歩く」
「……同時に、歩く、のか?」
「ええ」
「で、お前は、いつ、止まるの?」
「あなたが、止まったら」
簡単な、ルールだった。
簡単なはずの、ルールだった。
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空野は、息を、吐く。
吐いてから、足の、親指のことを、思い出す。
噛む。
噛もうとする。
噛めない。
それでも、思い出す。
歩き出す。
⸻
一歩、踏み出す。
神代も、踏み出す。
空野には、それが、見えなくても、分かった。
床から、伝わる、振動が、ほんのわずか、変わった。
二歩。
三歩。
空野が、止まる。
神代も、止まった。
止まったはず、だった。
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「……お前、止まる、早かった」
空野が、訊く。
「私が、止まったの」
「俺より、半歩、早く」
「そう、ね」
神代は、認めた。
「お前」
「ええ」
「先に、止まりたかった、のか?」
「……いえ」
「いや、たぶん、そうだ」
神代は、答えなかった。
答えない、というのが、答えだった。
⸻
「もう一回」
空野は、言う。
「うん」
二歩半に、戻る。
戻る動作だけで、ふたりとも、また、肩が、入っていく。
神代の肩が、入る、のが、空野には、見えた。
入っていく、その瞬間に、神代が、自分でも、それに、気づいた。
気づいたあとの、神代の、目の動き。
それが、空野には、新しかった。
――こいつ、自分のこと、見えてないのか。
そう思った瞬間、空野の中で、何かが、ふっ、と、軽くなった。
軽くなった、その分だけ、肩が、抜けた。
抜けた、と、空野は、自分で、思った。
抜けた、と思った瞬間に、また、入った。
それでも、一瞬だけ、抜けた。
⸻
「もう一回、歩こう」
「ええ」
歩く。
今度は、神代の方が、空野より、半歩、遅れた。
遅れて、すぐに、合わせようとして、結局、また、半歩、ずれた。
ずれたまま、二人、止まる。
「……ずれた」
「ずれた」
「合わせよう、と、しなくて、いい」
空野が、言う。
言ってから、自分が、何を言ったのかを、考える。
合わせよう、としなくて、いい。
それは、神代が、いちばん、苦手なことだった。
⸻
神代は、しばらく、答えなかった。
答えないで、自分の、足元を、見ていた。
ストッキングの、つま先。
「……合わせるの、習慣で」
ようやく、出した、声だった。
「子供の頃から、相手より、半歩、先か、半歩、後ろに、いること」
「同じ位置に、並んだこと、ない」
「並ぶの、こわいんだよね」
「こわい?」
「……うん」
その、うん、が、神代の口から出るのを、空野は、初めて、聞いた。
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「並ぼう」
空野は、言う。
「は?」
「歩くの、やめて、並ぶ」
「並ぶ、だけ?」
「うん」
「向き、合わなくて、いい?」
「並ぶ、だから、同じ方、向く」
「……そう、ね」
「うん」
⸻
二人は、稽古場の、壁の方を、向いて、立った。
リノリウムに残った、誰かの、靴の跡を、二人で、見ていた。
肩は、入っていた。
入ったまま、隣に、いた。
二歩半の、距離が、消えていた。
距離が消えても、何も、起きなかった。
ただ、二人で、同じ方向を、向いていた。
それだけが、昨日と、違っていた。
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神代が、息を、吐いた。
長い、息だった。
息を吐ききった、その時に、神代の、肩が、ようやく、下がった。
下がったあと、神代は、自分の、肩を、確認するように、軽く、回した。
回したあとで、空野を、見た。
「……いま、抜けた」
「うん」
「これ、抜けた、ってこと?」
「俺に、訊くなよ」
「他に、誰に、訊けばいいの」
「……」
⸻
空野も、笑った。
今度は、声が、漏れた。
神代も、続けて、笑った。
笑った、というより、息が、抜けた。
抜けた息が、笑いに、似ていた、というだけの、ことだった。
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「……今日は、ここまで」
神代が、言う。
「うん」
「歩けた」
「半歩、ずれたけど」
「半歩、ずれたまま、歩けた」
「うん」
「明日も」
「うん」
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神代は、靴を、履きに行く。
ヒールではなく、フラットな靴を、履く。
ヒールじゃない神代の、立ち姿を、空野は、もう一度、観た。
教室で見る神代と、稽古場で見る神代の、ちょうど、間にいる神代だった。
「お疲れ」
そう言って、扉を、開けて、出ていった。
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空野は、しばらく、リノリウムの上に、立っていた。
立っている、というよりは、止まっている、という感じだった。
昨日は、座り込んだ。
今日は、立っている。
立ったまま、動かなかった。
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胸の奥に、また、温かさが、あった。
昨日の温かさより、形が、少し、はっきりしていた。
はっきりしていた、というだけで、それが、何の温かさなのかは、まだ、空野には、分からなかった。
ただ、その温かさを、あとで、誰かに、話したい、と思った。
宗近に、話そう、と思った。
水城には、まだ、話せない気がした。
――なんで、水城には、話せないんだろう。
その疑問の、答えを、自分の中に、探す前に、空野は、靴を、履いた。
⸻
階段を、上がる。
階段の手すりが、昨日より、少しだけ、温かい気がした。
廊下に出ると、夕方の、低い光が、まだ、窓から、入っていた。
その光の中を、空野は、歩いた。
歩いた、その歩き方が、昨日とは、ほんの少し、違っているような気が、した。
ほんの少し、だった。




