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舞台を奪え。――役者たちの群像劇――  作者: リュコ


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9/14

第九話 歩く

 D-3。

 十六時まで、あと、十分。


 空野は、すでに、靴を、脱いでいた。

 リノリウムの上に、靴下のまま、立っていた。

 立っている、というよりは、待っている、と言った方が、近い。





 扉が、開く。

 神代だった。


 今日は、ヒールでは、なかった。

 低い、フラットな、靴。

 靴を脱ぐ動作が、昨日より、少しだけ、早かった。



「早いね」



 と、神代が、言う。



「お前、それ、昨日も言った」


「そうだったかしら」


「そうだ」



 神代は、少しだけ、笑う。

 完全な笑いでは、ない。

 ただ、口の端が、動いた、というだけの、笑いだった。





 ストッキングのまま、リノリウムの上に、立つ。

 肩は、入っている。

 抜けていない。

 それは、昨日と、同じだった。


 ただ、昨日と違うのは、神代が、それに、慌てていない、ということだった。



「今日も、立つだけ?」



 空野が、訊く。



「……いや」



 神代は、首を、横に振る。



「立てるか、分からないから、歩く」


「歩く?」


「歩いたら、もしかしたら、立てるかもしれない」





 空野は、それを聞いて、少し、笑った。

 笑ってから、笑ってしまったことに、驚いた。

 神代と二人で、笑った、ということが、生まれて初めて、だったから。

 神代は、笑わなかった。


 ただ、空野の笑いを、観ていた。





「歩き方、決める?」



 空野が、訊く。



「いえ」


「どっちが、先?」


「あなた」


「俺か」


「ええ」



 空野は、頷く。

 二歩半、離れた距離から、神代に向かって、歩いてみる、ということに、決めた。



「歩いて、止まる」


「止まったら、お前は、どうする?」


「あなたが、止まるまで、私も、歩く」


「……同時に、歩く、のか?」


「ええ」


「で、お前は、いつ、止まるの?」


「あなたが、止まったら」



 簡単な、ルールだった。

 簡単なはずの、ルールだった。





 空野は、息を、吐く。

 吐いてから、足の、親指のことを、思い出す。


 噛む。

 噛もうとする。

 噛めない。

 それでも、思い出す。

 歩き出す。





 一歩、踏み出す。

 神代も、踏み出す。

 空野には、それが、見えなくても、分かった。

 床から、伝わる、振動が、ほんのわずか、変わった。


 二歩。

 三歩。

 空野が、止まる。

 神代も、止まった。

 止まったはず、だった。





「……お前、止まる、早かった」



 空野が、訊く。



「私が、止まったの」


「俺より、半歩、早く」


「そう、ね」



 神代は、認めた。



「お前」


「ええ」


「先に、止まりたかった、のか?」


「……いえ」


「いや、たぶん、そうだ」



 神代は、答えなかった。

 答えない、というのが、答えだった。





「もう一回」



 空野は、言う。



「うん」



 二歩半に、戻る。

 戻る動作だけで、ふたりとも、また、肩が、入っていく。

 神代の肩が、入る、のが、空野には、見えた。

 入っていく、その瞬間に、神代が、自分でも、それに、気づいた。

 気づいたあとの、神代の、目の動き。

 それが、空野には、新しかった。


 ――こいつ、自分のこと、見えてないのか。


 そう思った瞬間、空野の中で、何かが、ふっ、と、軽くなった。

 軽くなった、その分だけ、肩が、抜けた。

 抜けた、と、空野は、自分で、思った。

 抜けた、と思った瞬間に、また、入った。

 それでも、一瞬だけ、抜けた。





「もう一回、歩こう」


「ええ」



 歩く。

 今度は、神代の方が、空野より、半歩、遅れた。

 遅れて、すぐに、合わせようとして、結局、また、半歩、ずれた。

 ずれたまま、二人、止まる。



「……ずれた」


「ずれた」


「合わせよう、と、しなくて、いい」



 空野が、言う。

 言ってから、自分が、何を言ったのかを、考える。

 合わせよう、としなくて、いい。

 それは、神代が、いちばん、苦手なことだった。





 神代は、しばらく、答えなかった。

 答えないで、自分の、足元を、見ていた。

 ストッキングの、つま先。



「……合わせるの、習慣で」



 ようやく、出した、声だった。



「子供の頃から、相手より、半歩、先か、半歩、後ろに、いること」


「同じ位置に、並んだこと、ない」


「並ぶの、こわいんだよね」


「こわい?」


「……うん」



 その、うん、が、神代の口から出るのを、空野は、初めて、聞いた。





「並ぼう」



 空野は、言う。



「は?」


「歩くの、やめて、並ぶ」


「並ぶ、だけ?」


「うん」


「向き、合わなくて、いい?」


「並ぶ、だから、同じ方、向く」


「……そう、ね」


「うん」





 二人は、稽古場の、壁の方を、向いて、立った。


 リノリウムに残った、誰かの、靴の跡を、二人で、見ていた。

 肩は、入っていた。

 入ったまま、隣に、いた。

 二歩半の、距離が、消えていた。

 距離が消えても、何も、起きなかった。

 ただ、二人で、同じ方向を、向いていた。

 それだけが、昨日と、違っていた。





 神代が、息を、吐いた。


 長い、息だった。

 息を吐ききった、その時に、神代の、肩が、ようやく、下がった。

 下がったあと、神代は、自分の、肩を、確認するように、軽く、回した。

 回したあとで、空野を、見た。



「……いま、抜けた」


「うん」


「これ、抜けた、ってこと?」


「俺に、訊くなよ」


「他に、誰に、訊けばいいの」


「……」





 空野も、笑った。

 今度は、声が、漏れた。

 神代も、続けて、笑った。

 笑った、というより、息が、抜けた。

 抜けた息が、笑いに、似ていた、というだけの、ことだった。





「……今日は、ここまで」



 神代が、言う。



「うん」


「歩けた」


「半歩、ずれたけど」


「半歩、ずれたまま、歩けた」


「うん」


「明日も」


「うん」





 神代は、靴を、履きに行く。

 ヒールではなく、フラットな靴を、履く。

 ヒールじゃない神代の、立ち姿を、空野は、もう一度、観た。

 教室で見る神代と、稽古場で見る神代の、ちょうど、間にいる神代だった。



「お疲れ」



 そう言って、扉を、開けて、出ていった。





 空野は、しばらく、リノリウムの上に、立っていた。

 立っている、というよりは、止まっている、という感じだった。



 昨日は、座り込んだ。

 今日は、立っている。

 立ったまま、動かなかった。





 胸の奥に、また、温かさが、あった。

 昨日の温かさより、形が、少し、はっきりしていた。

 はっきりしていた、というだけで、それが、何の温かさなのかは、まだ、空野には、分からなかった。

 ただ、その温かさを、あとで、誰かに、話したい、と思った。


 宗近に、話そう、と思った。

 水城には、まだ、話せない気がした。


 ――なんで、水城には、話せないんだろう。


 その疑問の、答えを、自分の中に、探す前に、空野は、靴を、履いた。





 階段を、上がる。

 階段の手すりが、昨日より、少しだけ、温かい気がした。

 廊下に出ると、夕方の、低い光が、まだ、窓から、入っていた。


 その光の中を、空野は、歩いた。


 歩いた、その歩き方が、昨日とは、ほんの少し、違っているような気が、した。

 ほんの少し、だった。


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