第十話 並列
朝。
第二実習棟、二階。
廊下に、人が、流れている。
廊下の左で、一人の男子生徒が、壁の前で、立っていた。
たぶん、十分くらい、立っている。
立つ稽古をしている、と分かった。
身体技法科の、二年だった。
廊下の右では、二年か三年の女子が、二人、向かい合って、笑い声をあげていた。
笑い声が、不自然に、長かった。
長すぎる笑いを、どこまで持続できるかを試している、と分かった。
学院の、いつもの朝だった。
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「空野」
水城だった。
「今日、神代と、ある?」
「うん」
「了解」
「お前は」
「俺、今日、宗近とやる」
「お、いいじゃん」
「うん」
それだけだった。
すれ違いざまに、水城が、
「お前、肩、また入ってんぞ」
と、言った。
「……マジか」
「マジ」
水城は、それだけ言って、流れに、戻っていった。
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二限。
実習室C。
ペアで、シーン稽古。
教官が、組み合わせを、指定する。
空野は、宗近と、組まされた。
宗近が、軽く、頷く。
「よろしく、お願いします」
「うん」
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向かい合う。
二歩半の、距離。
宗近の足が、いつものように、床を、噛んでいる。
きれいに、噛んでいる。
空野は、自分の足の、親指を、噛もうとする。
噛めない。
靴を、脱ぎたい、と思った。
でも、教室では、脱げない、空気だった。
⸻
シーンを、始める。
簡単な、再会の場面。
宗近の声は、いつもの、宗近の声だった。
整っている。
整いすぎていて、空野は、最初、入りにくかった。
入りにくい、ということが、空野には、新しかった。
神代と、稽古しているとき、入りにくい、ということは、なかった。
立てない、ということは、あった。
でも、入りにくい、ではなかった。
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途中で、空野が、止まる。
「ごめん」
「はい」
「俺、いま、宗近の、リズムに、入れてない」
「ええ」
「お前のリズム、ちゃんと、整ってるから」
「整いすぎていますか」
「……分かんない」
「では、もう一度」
宗近は、戻る。
戻る動作も、整っていた。
整っているのに、空野は、それに、合わせられなかった。
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「終わり」
時間が、来た。
教官が、コメントを、回す。
「宗近、いい立ち方だ」
「空野、迷ってるな」
「迷ってるのは、悪くない」
「ただ、相手の整い方に、自分の迷いを、ぶつけている」
「気をつけろ」
短いコメントだった。
空野は、頷くしか、なかった。
⸻
休み時間。
中庭。
宗近が、いつものベンチに、座っていた。
文庫本は、今日は、開いていた。
『風姿花伝』ではなく、別の本だった。
「……なに、読んでんの」
「『俳優修業』」
「……スタニスラフスキー、か」
「ええ」
「お前、何でも読むな」
「読まないと、立てません」
「立つ前に、読むの?」
「私の場合は、そうです」
宗近は、本を、閉じた。
「さっきの、シーン」
「うん」
「私、空野くんに、合わせなかったんです」
「……は?」
「合わせると、空野くんが、入れなくなる気がして」
「……」
「あれは、私の、選択でした」
⸻
空野は、宗近を、見た。
「お前」
「はい」
「お前も、外したのか」
「はい」
「神代と、同じか」
「外した、という言葉は、神代さんの、言葉ですね」
「うん」
「私、神代さんとは、違います」
「違う?」
「神代さんは、相手を、崩すために、外す」
「私は、相手を、立たせるために、合わせない」
「違うんです」
宗近は、迷いなく、言った。
「整いすぎてる、って、お前」
「ええ」
「あれ、わざと、整えてた?」
「ええ」
「……何で」
「空野くんが、自分のリズム、見つける時間を、作りたかったので」
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空野は、しばらく、何も、言えなかった。
宗近の、合わせない、と、神代の、合わせない、は、違うものだった。
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宗近が、文庫本を、また、開く。
「神代さんとは、今日も?」
「うん」
「いつか、私も、入っていいですか」
その質問が、自然に、出た。
警戒も、遠慮も、なかった。
空野は、答えようとして、ほんの一瞬、止まった。
止まったことに、自分で、気づいた。
⸻
「……うん」
「……」
「ただ、神代に、訊いてからで、いい?」
「もちろんです」
「うん」
宗近は、頷いて、また、本を、読み始めた。
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空野は、ベンチを、離れる。
離れながら、自分が、ほんの一瞬、止まったことを、思い出していた。
止まった、というほどでもない、止まり、だった。
でも、止まった。
なぜ止まったのかは、空野には、まだ、分からなかった。
⸻
その日の、夕方。
D-3。
神代は、来た。
ストッキングのまま、リノリウムに、立つ。
「歩こう」
「うん」
歩く。
止まる。
今日は、半歩のずれが、少し、減った。
歩きながら、空野は、宗近のことを、考えていた。
考えながら、歩いている、ということが、神代に、伝わるのが、分かった。
「……何、考えてる」
神代が、訊く。
普段、訊かない、神代が。
「宗近のこと」
「宗近?」
「古典科の、一年の」
「ああ」
「お前、知ってる?」
「名前、だけ」
「あいつ、ここに、来たいって」
神代は、止まった。
止まって、しばらく、こちらを、見た。
⸻
「来たい?」
「うん。いつか」
「……」
神代は、すぐには、答えなかった。
しばらく、自分の足元を、見ていた。
ストッキングの、つま先。
「いつか、ね」
「うん」
「いつかは、いつ?」
「分かんない」
「分かんないなら、まだ、二人で」
そう言って、神代は、また、歩き出した。
空野は、その背中を、見ていた。
背中が、いつもより、少しだけ、固かった。
固かった、ということに、空野は、気づいた。
気づいて、自分も、肩が、入ったのが、分かった。
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二人とも、今日は、肩が、抜けなかった。
歩いて、ずれて、止まって、抜けないまま、終わった。
「明日も」
「うん」
それだけ、言って、神代は、靴を、履きに行った。
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空野は、ひとりで、稽古場に、残った。
肩は、入ったままだった。
自分が、いつ止まったのかを、思い出していた。
中庭で、宗近が、入っていいか、と、訊いたとき。
そのとき、止まった。
なぜ止まったのかは、まだ、分からない。
ただ、止まったことだけが、はっきりしていた。
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廊下に、出る。
夕方の、低い光が、窓から、入っていた。
空野は、廊下を、歩いた。
歩きながら、止まったときの、自分の感覚を、もう一度、思い出そうとしていた。
ほんの一瞬の、止まり、だった。
ほんの一瞬、だった。




