第十一話 「形」
D-3。
十六時まで、あと、十分。
空野は、靴を、脱いでいた。
宗近も、靴を、脱いでいた。
宗近は、稽古着の、上下だった。
「先に、来てたんだ」
空野が、言う。
「ええ」
「神代に、もう、訊いた?」
「いえ」
「俺が訊くから、お前は、ここで、待っててもいい」
「分かりました」
宗近は、それだけ言って、稽古場の、隅に、立った。
姿勢が、いつものように、まっすぐだった。
⸻
扉が、開く。
神代だった。
入ってきた瞬間、神代の足が、ほんの一瞬、止まった。
宗近を、見た。
宗近が、軽く、頭を、下げた。
「宗近です」
「……知ってる」
神代は、頷く。
頷きながら、靴を、脱ぐ。
ヒールではなく、フラットな靴。
ストッキングのまま、リノリウムに、足を、つけた。
「今日、入っていいの?」
宗近が、訊く。
訊き方が、整っていた。
整っているのに、押しつけがましくなかった。
「……一度、やってみる」
神代は、答えた。
「やってみて、合わなかったら、また、二人で」
「もちろんです」
宗近は、頷いた。
⸻
三人、リノリウムに、立つ。
二歩半の、距離が、なくなっていた。
代わりに、三角の、辺が、できていた。
空野には、その辺の、長さが、まだ、上手く、測れない。
「歩く?」
空野が、訊く。
「歩く」
神代が、答える。
宗近は、二人を、見た。
「ルール、教えていただけますか」
「……ルール、無いんだよ」
空野が、答える。
「いままで、決めずに、やってきた」
「ええ」
「歩いて、止まる。それだけ」
「同時に、ですか」
「同時に」
「分かりました」
宗近は、頷いた。
⸻
歩く。
三人。
最初の、三歩で、空野は、すでに、混乱した。
二人のときは、相手の足音が、自分の足音と、ずれているか、合っているかが、分かった。
三人になった瞬間、足音が、三つに、なる。
三つの音が、どう関係しているのかが、空野には、分からない。
止まる。
止まる、と、決めたのは、空野だった。
神代は、半歩、遅れた。
宗近は、合わせて、止まった。
⸻
「……ずれた」
空野が、言う。
「ずれた」
神代が、答える。
宗近は、首を、傾げた。
「私、止まる、合わせていいんですか」
「合わせなくて、いい」
神代が、即答した。
「合わせると、私が、また、外したくなる」
「……そうですか」
宗近は、頷いた。
頷いて、神代を、見た。
「神代さん」
「ええ」
「今日、私、合わせない、選びます」
「ええ」
「ただ、合わせない、というのは、私の場合、合わせる、より、難しいんです」
「……」
「だから、外れたら、許してください」
その言葉が、神代の、肩を、ほんの少し、抜いた。
空野は、それを、見た。
⸻
「もう一回」
空野が、言う。
歩く。
今度は、神代と宗近が、両側にいた。
空野が、真ん中。
歩きながら、空野は、自分の、両側の足音を、聞いていた。
神代の、半歩、引いた、リズム。
宗近の、深く、噛んだ、リズム。
ふたつの、別のリズムが、空野の、両側にあった。
合わせよう、とは、しなかった。
ただ、両方を、聞いていた。
⸻
止まる。
今度は、宗近が、先に、止まった。
理由は、分からない。
ただ、宗近の、足が、床を、深く、噛んでいた。
その、噛んだ、感じに、神代と空野が、引っ張られて、止まった。
「……いま、宗近、止めた」
神代が、言う。
「止めたつもりは、ないです」
「足が、止めた」
「……ええ、たぶん」
「それ、能の」
「カマエ、です」
「……カマエ、ね」
神代は、しばらく、宗近の、足を、見ていた。
⸻
宗近は、神代の、視線を、受けていた。
受けて、こう言った。
「神代さんも、似たもの、お持ちですよ」
「私が?」
「ええ」
「アドラーの、設計の中に」
「あなたは、自分で、止まる場所を、決めている」
「私は、足が、止める場所を、知っている」
「形は違いますが、置いてるものは、たぶん、近いです」
⸻
神代は、しばらく、答えなかった。
答えないまま、自分の、足を、見ていた。
ストッキングの、つま先。
その、つま先が、わずかに、動いた。
噛もうとして、噛めなかった。
それでも、噛もうとした。
神代の、肩が、ふっ、と、下がった。
空野は、それを、見た。
⸻
「もう一回」
神代が、言った。
普段、決めない、神代が、決めた。
歩く。
三人で、歩く。
今度は、ずれは、あった。
ずれは、あったが、三人とも、ずれている、ということを、知っていた。
知ったまま、歩いた。
止まる。
ほぼ、同時、だった。
完全には、揃わなかった。
ただ、揃わない、ことを、三人が、同じ重さで、受けていた。
⸻
しばらく、誰も、動かなかった。
リノリウムの上で、三角の、辺が、整った。
整った、というより、辺が、互いに、繋がった。
⸻
「……今日は、ここまで」
神代が、言った。
「うん」
「歩けた」
「歩けました」
宗近が、答える。
「ずれは、あったけど」
「ずれは、ありました」
「また、お願いします」
宗近は、頭を、下げた。
下げ方が、ぎこちなくなかった。
整いすぎても、いなかった。
ちょうど、いい角度、だった。
⸻
宗近が、靴を、履きに行く。
ヒモを、結ぶ動作も、整っていた。
整っているのが、いま、空野には、心地よかった。
「お先に、失礼します」
そう言って、宗近は、扉を、開けて、出ていった。
⸻
空野と、神代は、しばらく、リノリウムの上に、立っていた。
二人になった瞬間、稽古場の、空気が、また、変わった。
二歩半の、距離が、戻ってきた。
「……いた方が、よかった?」
神代が、訊いた。
ぽつり、と。
「分かんない」
「私も、分かんない」
「うん」
「ただ」
神代は、続ける。
「いない方が、二歩半が、はっきりしてた」
「うん」
「いる方が、辺が、増えた」
「うん」
「どっちが、良いかは、分かんない」
「うん」
⸻
空野は、神代の隣に、立っていた。
二歩半。
少しだけ、その距離が、いつもより、温度が、あった。
何かが、戻ってきていた。
何かが、増えていた。
二人とも、それを、上手く、言葉にできなかった。
「明日、宗近、また呼ぶ?」
空野が、訊く。
「……訊いとく」
「俺が、訊く?」
「いや、私が、訊く」
「お前が?」
「ええ」
神代は、それだけ言って、靴を、履きに行った。
⸻
ヒールではない神代の、立ち姿を、空野は、もう一度、観た。
教室の神代より、少しだけ、低かった。
「明日も」
「うん」
神代は、扉を、開けて、出ていった。
⸻
空野は、リノリウムの上に、ひとりで、残った。
立っていた。
肩は、入っていた。
入ったまま、抜けなかった。
ただ、入った肩の、その重さが、昨日より、少しだけ、別の形をしていた。
別の形だ、という以上のことは、空野には、分からなかった。
⸻
廊下に、出る。
夕方の光が、まだ、窓から、入っていた。
空野は、廊下を、歩いた。
歩きながら、リノリウムの上にあった、三角の辺のことを、考えていた。
辺は、消えていた。
でも、辺が、あった、という感覚だけが、足の裏に、残っていた。
ほんの少し、だった。
ほんの少し、残っていた。




