第十二話 気配
D-3。
十六時まで、あと、五分。
空野は、扉の前で、宗近を、待っていた。
宗近が、来る。
「お疲れさまです」
「うん」
二人で、扉を、開ける。
電気を、点ける。
リノリウムの上に、二人で、立つ。
宗近は、すでに、稽古着、だった。
⸻
神代が、来た。
ヒールではなく、フラットな靴。
入ってくる動作が、昨日より、少しだけ、軽かった。
軽かった、と空野が、思った。
「今日は、何、する?」
神代が、訊いた。
決めない、神代が、訊くようになっていた。
「歩く、もう、二日、やった」
宗近が、言う。
「ええ」
「今日、立つだけ、いいですか」
「立つ、だけ?」
「ええ」
「動かない」
「動かない、ですか」
「動かない、で、立っているだけ、です」
「……どれくらい?」
「五分」
「五分」
宗近が、繰り返す。
「五分、立つ。何も、しない」
⸻
空野は、宗近を、見た。
「それ、能の、稽古?」
「能、の前段階です」
「前段階」
「はい」
「立てなければ、何も、できません」
「立てなければ……」
「歩くも、止まるも、立てるから、できます」
宗近の言い方には、強さは、なかった。
ただ、当然のこととして、置かれていた。
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「……やる」
神代が、言った。
「俺も」
空野が、答える。
宗近は、頷いて、稽古場の、中央に、立った。
ストッキングの、つま先が、すぐに、床を、噛んだ。
噛んだまま、動かなくなった。
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空野と、神代が、両側に、立つ。
三角の、辺が、また、できる。
ただ、今日の三角は、辺が、動かない。
「始めます」
宗近が、言う。
時計の、秒針が、聞こえた気がした。
実際には、聞こえていなかった。
ただ、聞こえた気が、した。
⸻
立つ。
ただ、立つ。
最初の、一分は、空野には、思っていたより、簡単だった。
二分目、肩が、入った。
三分目、入った肩が、痛くなった。
痛くなった、ということに、気づいた瞬間、空野は、それが、自分の、姿勢の、嘘、だ、と、分かった。
宗近の方を、見た。
宗近の肩は、入っていなかった。
入っていないのに、抜けても、いなかった。
ちょうど、そこにある、肩、だった。
ちょうど、そこにある、ということが、空野には、出来なかった。
⸻
神代の方も、見た。
神代の、肩は、入っていた。
入っているのを、神代も、感じている、のが、分かった。
感じているのに、動かない。
抜こうと、しないのに、抜こうと、している、ような、不思議な、立ち方だった。
空野には、その立ち方が、神代の、いちばん、新しい、立ち方に、見えた。
⸻
四分目。
廊下の方から、足音が、した。
D-3 の前を、誰かが、通った。
通った、のだろう、と、空野は、思った。
通り過ぎる、足音、だった。
ただ、その足音が、扉の前で、ほんの一瞬、止まった気が、した。
ほんの、一瞬。
長くは、なかった。
⸻
足音は、また、歩き出した。
歩き出した、のに、扉の、向こうに、誰かが、いる、気が、した。
空野は、動かなかった。
動かないまま、扉の方を、見ていた。
見ていた、というよりは、扉の向こうの、気配を、聞いていた。
気配は、しばらく、そこに、あった。
それから、ゆっくり、遠ざかっていった。
⸻
空野は、宗近の方を、見た。
宗近は、動かなかった。
ただ、宗近の、瞼が、ほんの、一瞬、伏せられた。
伏せて、また、上がった。
宗近は、扉の向こうに、誰がいたかを、分かっている、ような、瞼の動きだった。
⸻
「……五分」
宗近の、声。
時計を、見ていない、はず、だった。
なのに、ぴたり、と、五分だった。
空野は、息を、吐いた。
吐いた瞬間、肩が、軽くなった。
ただし、軽くなり方が、いつもと、違っていた。
抜けた、のではなくて、何かが、外で、押さえていたものが、消えた、ような、軽さだった。
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「終わり、です」
宗近が、頭を、下げる。
「うん」
神代が、答える。
「立てたか、分からない」
「ええ」
「私も、分かりません」
「分からないけど、立った」
「立ちました」
それだけの、確認。
⸻
「……宗近」
空野が、訊く。
「はい」
「いま、扉の外、誰、いた?」
宗近は、少し、考える。
「分かりません」
「お前、瞼、動かしたろ」
「動かしました」
「気配、聞いてた?」
「聞きました」
「誰、か、分かった?」
「分かりません」
「……」
「ただ」
宗近は、続ける。
「観ていた人は、立っていた、と思います」
「立ってた?」
「ええ」
「動かないで、扉の前に、立っていた、気が、しました」
「……」
「短い時間でしたが、足音、立てずに、立っていた人だと、思います」
⸻
空野は、神代を、見た。
神代は、首を、軽く、傾げた。
「……気づかなかった」
神代が、答える。
宗近は、答えなかった。
答える代わりに、扉の方を、もう一度、見た。
「最後の方、扉の方の、空気だけ、ほんの少し、湿っていました」
「湿ってた?」
「ええ」
「人が、立っていると、その人の、呼吸の、温度が、空気に、混ざります」
「うちの稽古場でも、同じです」
⸻
空野は、しばらく、何も、言えなかった。
呼吸の、温度。
そんなものが、扉の隙間から、入ってくるのか。
実感は、なかった。
ただ、宗近が、そう言うなら、そうなのだろう、と、思った。
⸻
「……今日は、ここまで」
神代が、言った。
「はい」
「明日も、立つ?」
「立てたら、また、別のことを」
「そうしよう」
宗近は、靴を、履きに行く。
ヒモを、結ぶ動作も、いつも通り、整っていた。
「お先に、失礼します」
そう言って、宗近は、扉を、開けて、出ていった。
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扉が、閉まる。
空野と、神代が、リノリウムの上に、残った。
「……誰か、観てた?」
神代が、訊いた。
「らしい」
「気づかなかった」
「俺も」
「観られて、平気だった?」
空野は、少し、考える。
「……平気じゃ、なかった」
「ええ」
「神代は」
「私も、平気じゃ、なかった」
「うん」
「観られているのが、分かったら、たぶん、立てなかった」
「うん」
「分からなかったから、立てた」
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二人は、しばらく、何も、言わなかった。
二歩半。
その距離が、また、戻っていた。
ただ、戻った距離が、扉の向こうに、誰かが、立っていた、という事実によって、わずかに、温度を、変えていた。
「明日も」
「うん」
神代は、靴を、履いた。
ヒールではない、フラットな靴。
それを履いた神代の、立ち姿を、空野は、もう一度、観た。
教室で見る神代に、戻っては、いなかった。
戻りきらないまま、扉を、開けて、出ていった。
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空野は、しばらく、リノリウムの上に、立っていた。
肩は、抜けていた。
抜けていた、はず、だった。
なのに、抜けた肩の、その背中の側に、わずかに、何かが、残っている気が、した。
扉の向こうに、立っていた、人の、呼吸の、温度の、ようなものが。
⸻
廊下に、出る。
夕方の光が、まだ、低く、入っていた。
空野は、廊下を、歩いた。
歩きながら、扉の前に、立っていた人を、考えていた。
誰だったかは、分からなかった。
ただ、その人が、立っていた、ということだけが、空野の、背中に、残っていた。




