第八話 受ける
地下。
D-3。
十六時まで、あと、五分。
空野は、扉の前で、立っていた。
中には、まだ、誰も、いない。
開けるかどうかを、迷っている自分が、滑稽だった。
⸻
電気を、点ける。
昨日と、同じ、リノリウムの床。
天井が、低い。
壁の防音マットが、少し、剥がれかけている。
何も、変わっていなかった。
ただ、昨日まで、ここに、宗近と、水城が、いた。
今日は、一人だ、と思う。
「一人」と、自分の口の中で、つぶやいてみた。
つぶやいたら、思っていたより、声が、響いた。
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靴を、脱いでおこう、と思った。
今、脱いでおけば、神代が来てから、慌てなくていい。
そう思って、屈んだ瞬間、扉が、開いた。
「早いね」
神代の、声。
空野は、屈んだまま、固まった。
「……お前も」
「ええ」
神代は、空野の足元を、見ていた。
片方だけ、靴を脱いだ、その途中の、姿を。
「続けて」
「……」
空野は、もう片方を、脱ぐ。
脱ぎながら、頬が、少し、熱い気がした。
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神代も、靴を、脱いだ。
意外だった。
神代がヒールを脱ぐところを、空野は、見たことが、なかった。
ヒールを揃える動作にも、無駄がなかった。
ただ、靴下ではなく、ストッキングのまま、リノリウムに、足を、つけた。
その足で、立つ姿が、教室で見るときと、別物だった。
肩の、位置が、いつもより、わずかに、低い。
――あ。
空野は、思う。
――こいつも、調整、してる。
宗近が、稽古着で別人だった日と、同じ感覚、だった。
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「で」
空野が、訊く。
「何、するの」
神代は、答える前に、稽古場の中央に、歩いていく。
歩く速度が、教室と、違っていた。
少し、遅い。
「今日は、私、受ける」
「……は」
「あなたが、する」
「俺が、する」
「ええ」
「……何を」
「何でも」
神代は、こちらを、見る。
「あなたが、選んだもの」
「私は、それに、従う」
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空野は、すぐには、答えなかった。
答えられなかった、と、言った方が、近い。
神代が、従う、と言った。
それは、神代綾が、いちばん、しないことの、はずだった。
「……できるの、それ」
訊いてしまってから、訊かない方が、よかった、と思った。
神代は、答えない。
答えない代わりに、両手を、軽く、開いた。
「やってみないと、分からない」
声は、いつもと、同じだった。
ただ、わずかに、語尾が、固かった。
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空野は、息を、吐く。
吐いてから、自分の、足の、親指のことを、思い出す。
噛む。
噛もうとする。
噛めない。
それでも、思い出す。
肩を、抜こうとする。
入る。
抜こうとして、入る。
知ってる、これ。
その、知ってる、を、神代の前で、やる。
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立つ。
神代を、見る。
神代が、向かいに、立っている。
距離は、二歩、半。
教室の即興のときと、同じ距離。
なのに、まったく、違う、空気だった。
「……お前」
空野は、口を、開く。
「最近、どう」
それしか、出てこなかった。
ベタな台詞だった。
教室なら、笑われるレベルの、入りだった。
でも、神代は、笑わなかった。
「……普通」
そう、答えた。
「普通」
「ええ」
「普通って、お前、ある?」
「……」
神代は、止まる。
止まったまま、しばらく、何も、言わない。
⸻
空野は、見ている。
神代の、肩を。
少しだけ、上がった。
下がった。
また、上がった。
抜こうとして、入っている。
――こいつも、いま、抜けてない。
空野は、初めて、それを、見た。
教室では、ずっと、抜けて見えていた人間が、稽古場の中で、抜けない。
それは、「弱さ」ではなくて、もっと、別の、何かだった。
⸻
神代の、口が、開く。
「……あなたの、ペースが」
途中で、止まる。
「分からない」
止まったまま、続ける。
「私、いつも、相手の、テンポ、読んで、合わせて、外してる。
でも、いま、あなたのテンポ、読めない」
「読まないと、いけないんだけど、読んだら、たぶん、また、奪う」
「だから」
声が、わずかに、震えた。
「読まないように、してる。読まないように、しようと、してる」
「そうしたら」
一拍。
「立ち方が、分からなくなった」
⸻
空野は、何も、言えなかった。
これが、神代の、いまの、本当だ、と分かった。
知ってる、感じだった。
何もできていないのに、立っている、あの感じ。
昨日、空野が、初めて、味わった、あの感じ。
神代も、いま、それを、味わっている。
味わっていることが、たぶん、彼女を、怖がらせている。
⸻
「……それ、俺だよ」
空野は、言う。
「は?」
「俺、ずっと、そうだから」
神代が、まばたきを、する。
その、まばたきの、間隔が、空野には、長く、見えた。
「……知ってる」
神代が、ようやく、答える。
「だから、来た」
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それから、二人は、しばらく、何も、しなかった。
立ったまま。
二歩半の、距離で。
ただ、互いの、肩の、上下を、観ていた。
空野の肩は、入ったまま。
神代の肩も、入ったまま。
誰も、抜けていなかった。
ただ、一緒に、入ったまま、立っていた。
⸻
神代の肩が、ようやく、少し、下がった。
下がったあとで、神代は、少しだけ、笑った。
笑い方が、いつもと、違っていた。
完成された笑いでは、なかった。
崩れる前の、笑いだった。
「……今日は、ここまで」
神代は、言う。
「立つだけで、終わった」
「うん」
「また、明日」
「……明日」
「同じ時間」
そう言って、神代は、靴を、履きに行った。
⸻
ヒールの音が、稽古場の床に、戻ってくる。
戻ってきた瞬間、神代の姿勢が、また、いつもの神代に、戻った。
教室で、見るときの、神代に。
「お疲れ」
そう言って、扉を、開けて、出ていった。
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空野は、しばらく、動かなかった。
リノリウムの上に、靴下のまま、立っていた。
いつのまにか、足の、親指が、噛めていた。
噛めているのに、気づいた瞬間、力が、抜けた。
膝が、震えた。
座り込んだ。
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座ったまま、空野は、ぼんやり、扉を、見ていた。
神代が、出ていった、扉。
神代が、自分の前で、立てなかった。
いつも、立っている人間が、立てなかった。
その事実が、まだ、頭に、入りきらなかった。
頭に、入りきらないまま、胸の奥だけが、少し、温かかった。
その温かさが、何の温かさなのかは、空野には、まだ、分からなかった。




