第七話 借り物
実習室C。
三限。
蛍光灯。
壁にかかった、誰かの忘れ物の上着。
机の下で、空野は、足の親指を、軽く、曲げてみる。
普通の足だった。
昨日の、あの感覚は、もう、ほとんど、残っていない。
それでも、曲げてみる。
教官が、紙を、回す。
「ペアで、即興。テーマ、最後の連絡」
「五分」
それだけ。
⸻
空野の相手は、佐倉、という男だった。
別のクラスから、合同で来ている。
顔は知っているが、しゃべったことは、ない。
「よろしく」
「うん」
それだけだった。
それだけで、また、座る。
順番が、回ってくる。
⸻
空野は、椅子から、立ち上がる。
立ち上がる、その動作だけで、すでに、昨日と、違っていた。
膝の、抜き方を、覚えている。
完全には、できない。
ただ、覚えていた。
――親指。
足の親指が、靴の中で、床を、噛もうとする。
噛めない。
靴の底が、邪魔をする。
空野は、靴を、脱いだ。
教室が、ざわつく。
「お、なんで脱いだ」
水城の声。
教官は、腕を組んだまま、何も言わない。
許可、ということだろう、と空野は思う。
⸻
舞台、というほどの場所もない。
ただ、教室の前。
椅子と椅子の間の、空いた、床。
リノリウムが、思ったより、冷たかった。
その、冷たさが、まず、足の裏に、入ってくる。
空野は、そこに、立つ。
肩を、抜く。
抜けない。
入る。
抜こうとして、入る。
――知ってる、これ。
胸の奥が、ほんの少し、あたたかくなった気がした。
何もできていない。
何もできていないのに、立てている。
それだけが、昨日と、違う。
⸻
佐倉が、向かいに、立つ。
何か、待っている顔。
空野は、口を、開く。
「……電話、出なかったろ」
佐倉が、まばたきを、する。
そのまばたきの、ほんの一瞬の、間隔の、長さに、空野は、気づく。
佐倉、いま、台詞を、探している。
「え」
「昨日」
「あ……」
佐倉は、台本がない、ということを、思い出した顔をする。
それから、慌てて、
「気づかなかったんだよ」
と、返した。
弱い、と空野は、思う。
責めない。
責めるための台詞だったら、昨日までの、自分と、同じだった。
責めないで、続ける。
「……出なくて、よかった気もする」
佐倉の、眉が、止まる。
⸻
教室の空気が、ほんの、わずかに、動く。
誰かが、息を、吸い直したのかもしれない。
いつもは、観客側にある、その動きを、いま、立っている自分の、背中の側で、聞いている。
肩は、入ったまま。
足は、噛めていない。
なのに、動かないでいる。
その、動かない、を、佐倉が、受け取る。
佐倉が、何か、言おうとして、止める。
止めたまま、口を、開けたまま。
教室が、しん、と、する。
――いま、たぶん、間違ってない。
空野の中の、どこかが、そう言った。
完成じゃなくていい、と、その声が、続けて、言った。
⸻
「……何の話、してたんだっけ」
佐倉が、ようやく、出した。
ずるい逃げ方だった。
でも、逃げたことが、芝居になっていた。
空野は、答えない。
答えないで、佐倉を、見ている。
宗近の、親指の、感覚を、思い出している。
噛めていない。
噛めていないのに、留まっている。
「終わり」
教官の、声。
声が、少し、遠くから、聞こえた気がした。
⸻
椅子に、戻る。
戻るとき、リノリウムから、椅子の脚に、足が触れた瞬間、自分が、舞台から降りた、と気づいた。
たった、二歩、戻っただけだった。
膝が、震えていた。
座る。
椅子の、座面が、思ったより、冷たい。
「お前、靴」
水城が、横で、囁く。
「うん」
「やったな」
「……なんとか」
「立ってたぞ、お前」
「うん」
水城は、それ以上、言わない。
代わりに、ペットボトルの蓋を、開ける音が、した。
その音だけが、空野の、震えていた膝の方に、戻ってきてくれた。
⸻
教官が、コメントを、回していく。
空野の、番。
「……方向性が、変わったな」
それだけ。
「迷ってる」
一拍。
「迷ってるのが、見える」
短いコメントだった。
褒めても、貶しても、いない。
ただ、教官の声の、わずかな、緩みのようなものが、空野には、分かった。
⸻
授業が、終わる。
空野は、靴を、履き直す。
履き直しながら、足が、普通の足に、戻っていく。
戻っていくのを、少し、寂しく感じている自分が、いた。
水城が、立ち上がる。
「飯」
「うん」
「行くぞ」
その時。
「空野」
声。
教室の、後ろの方。
神代だった。
⸻
水城が、ぴたり、と、止まる。
空野も、止まる。
教室の中の、何人かの、視線が、こちらに、来る。
来ないふりをしている視線も、含めて。
教室の重心が、その瞬間、神代の側に、傾いた。
「……何」
空野が、答える。
神代は、近づいてくる。
机の間を、迷わず。
普段と、同じテンポ。
ただ、目だけ、少し、違っていた。
立ち止まる。
「あれ」
「うん」
「誰、借りた?」
⸻
空野の、息が、止まる。
借りた、という言葉。
水城が、昨日、稽古場で、空野に向かって、使った言葉。
それを、神代が、いま、使った。
――見えてる。
それだけだった。
「……」
空野は、答えない。
答えないで、神代を、見る。
神代は、答えを待っている顔では、なかった。
答えが、もう、ある、という顔だった。
ただ、そのことを、空野自身に、認めさせたい、という顔だった。
「言う必要、ないか」
神代が、半歩、引く。
「……お前」
空野が、ようやく、言う。
「分かる、の」
神代は、少し、笑った。
笑いの形は、いつもと、同じだった、かもしれない。
ただ、目の奥の温度が、違っていた。
冷たいのに、急いでいる。
なんで、こんなに、急いでいるんだろう。
空野は、思う。
「あなた、自分のじゃない足で、立ってた」
声は、低かった。
「肩、力んでた」
「うん」
「足、慣れてなかった」
「うん」
「でも、立ってた」
そこで、神代の声が、わずかに、止まる。
止まったあと、彼女は、続ける。
「……それ、たぶん、私、出来ない」
⸻
空野は、まばたきを、する。
いま、何を、聞いた。
神代が、出来ない、と言った。
神代綾が。
「……何だよ、それ」
空野は、ようやく、口にする。
声が、思ったより、小さかった。
神代は、答えない。
代わりに、もう一歩、引く。
「明日、付き合って」
「は?」
「自主練。十六時、D-3」
「いや、それ、俺たちの――」
「知ってる」
知ってる、と言った。
地下の、誰も使わない部屋まで、観ている、ということだった。
水城の、肩が、強張った。
「……何で」
空野は、訊くしか、なかった。
神代は、もう、背を向けていた。
「借りられる人と、私、組んだことがないから」
それだけ、言って、教室を、出ていった。
教室の重心が、彼女が出ていったあと、しばらく、戻ってこなかった。
⸻
水城が、椅子に、ぐったり、座り直す。
「……うわ」
それだけ。
空野は、しばらく、立ったまま、神代の出ていったドアを、見ていた。
神代が、出来ない、と言った。
何を、出来ないのかは、分からない。
ただ、神代の目の奥に、一瞬、空野が知らない色があった、ということだけは、覚えていた。
⸻
廊下。
午後の光が、いつもより、低かった。
水城が、隣に、並ぶ。
「お前、どうすんの」
「……行く」
「だよな」
水城は、それ以上、言わない。
ペットボトルを、ぐしゃ、と、軽く握って、また、戻した。
階段を、下りる。
階段の手すりが、思ったより、冷たい。
下りながら、空野は、靴の中の、自分の親指のことを、考えていた。
噛めていなかった、はずの、その指先が、まだ、わずかに、力んでいた。
その、力んでいる感じだけが、神代と話したあとも、一人で、残っていた。




