第六話 稽古
夕方。
第二実習棟、地下。
D-3。
学院の中で、いちばん使われない稽古場だった。
天井が、低い。
壁が、防音マット張り。
床は、白いリノリウム。
ただ、それだけの部屋。
予約は、二時間。
水城が、取った。
「人気ねえ部屋なんだよ」
「一年が三人で使うには、丁度いい」
空野が荷物を下ろすと、すでに宗近が来ていた。
姿勢、相変わらず。
ただ、今日は、稽古着だった。
黒い、シンプルな上下。
日常で見ているシルエットとは、別人みたいに、肩が、落ちていた。
肩が落ちている、というのは──
「……うわ」
空野が、思わず、声を漏らす。
「肩、ちっこ……」
「はい?」
「いや、ごめん」
「あ、それ、俺も思った」
水城が、ジャージのジッパーを下ろしながら、言う。
「普段、姿勢で盛ってるんだよな、お前」
「盛ってはいません」
宗近は、否定する。
「立っているだけです」
「……立ってるだけで盛れる時点で、おかしいんだよ」
宗近は、少し、笑う。
そして、靴を、脱ぐ。
⸻
リノリウムの床の上に、宗近が素足で、立つ。
その瞬間。
空野は、自分が今まで見ていた宗近が、宗近の半分だったことに、気づいた。
足の親指が、床を、噛んでいる。
土踏まずが、上がっている。
膝の裏が、わずかに、緩んでいる。
姿勢が同じはずなのに、足の入り方が、別物だった。
「……やっぱ、別」
水城が、低く、言う。
「別、と言うほどではありません」
「いや、別だよ。お前、地面に貼り付いてんじゃん」
宗近は、答えない。
代わりに、空野を、見る。
「空野くん」
「うん」
「立ってみて、いただけますか」
⸻
空野は、靴を、脱ぐ。
宗近の隣に、立つ。
「同じように」
宗近が、言う。
「と、言われても」
「真似で、構いません」
空野は、見た通りの姿勢を、作ろうとする。
膝を、わずかに、緩める。
腰を、落とす。
肩を、下げる。
その瞬間、宗近が、軽く、言う。
「肩、上がっています」
「……え」
「下げようとして、上げています」
空野は、自分の肩を、確認する。
確かに、下げようとしているのに、肩甲骨が前に出て、結果として、肩が上がっている。
「……マジか」
水城が、笑う。
「お前、力んでるよ」
「力んでねえって」
「いや、力みっぱなし」
宗近は、空野の隣で、自分の肩を、もう一度、軽く、落とす。
肩甲骨が、背中の中で、滑るように、下がっていく。
何もしていないのに、下がる。
「……どうやって、それ」
「抜くだけです」
「抜く、って」
「力を入れる、の反対です」
「反対……」
空野は、もう一度、試す。
入れない、ように、する。
すると、今度は、姿勢自体が、崩れる。
「……できない」
「できません」
宗近は、当然のように、言う。
「私も、十年、できませんでした」
「……」
「それは、稽古ですので」
⸻
水城が、横で、ぱちぱち、と拍手する。
「まあまあ、宗近先生」
「先生では、ないです」
「いや、先生だろ、これ」
水城は、ジャージの袖を、まくる。
「なら、俺も、先生、やらせろよ」
「マイズナー、ですか」
「そう」
水城は、空野の、正面に、立つ。
「お前、座ってろ」
宗近に、言う。
宗近は、頷いて、稽古場の隅に、座る。
正座、だった。
⸻
「空野」
水城が、向かい合う。
「レペティション、知ってるよな」
「もちろん」
「じゃあ、やろっか。」
「ん?」
「俺がお前のこと見て、何か、言う。お前は、それを、繰り返す」
「で、お前も、俺のこと見て、変えていい」
「……それだけ?」
「それだけ」
「それだけ、なのに、難しい?」
水城は、にやり、と笑う。
「やってみ~」
⸻
空野は、水城の、正面に、立つ。
水城が、見る。
数秒の、沈黙。
そして、口を、開く。
「お前、緊張してる」
空野は、繰り返す。
「俺、緊張してる」
「お前、緊張してる」
「俺、緊張してる」
繰り返し。
ただ、それだけ。
最初は、機械的な、音の往復だった。
でも、四回目くらいから、何かが、変わる。
水城が、空野を見る目の、温度が、少しだけ、変わる。
「お前、緊張してる」
「俺、……緊張してる」
「お前、緊張、ちょっと、緩んだ」
「……俺、ちょっと、緩んだ」
「お前、笑いそう」
「俺、笑いそう」
その瞬間、空野は、本当に、笑った。
笑った瞬間、水城も、笑った。
二人、声を出して、笑う。
宗近が、隅で、目を細めて、観ている。
⸻
「な?」
水城が、笑いの余韻のまま、言う。
「これ、簡単に見えて、すぐ、嘘になるんだよ」
「嘘」
「相手のこと、本気で見てないと、今、変わってくれない」
「……」
「お前、けっこう、すぐ、入れたな」
水城が、空野を、見る。
ずっと観察している水城の目だ、と空野は、思う。
「うん。入れた」
空野は、認める。
入れた。
むしろ、簡単に、入れすぎた。
水城の言葉に、自分の中の感情が、勝手に、呼応する。
待たないでも、来た。
――昨日まで、それで、神代に外された俺と、同じだ。
胸の奥が、少し、冷える。
「……入れすぎ、かも」
空野は、自分で、言う。
「は?」
「俺、お前の言葉、すぐ、引っ張られる」
「それ、いいことだろ」
「いいこと、なのか?」
水城は、少し考えて、首を、傾げる。
「……いや、わかんね。半分くらい、いいことかも」
⸻
宗近が、隅から、口を、開いた。
「水城くん、この練習、終わりにしても、いいですか」
「……お、はい、先生」
「先生では、ないです」
宗近は、立ち上がる。
正座から、立ち上がる動作も、水城と空野とは、別の生き物の動きだった。
「空野くん」
「うん」
「マイズナーは、反応する稽古です」
「うん」
「型は、反応しない稽古です」
空野は、まばたきを、する。
「……反応、しない」
「ええ」
宗近は、稽古場の、中央に、戻る。
「能のカマエは、止めるためのものです」
「動かないのではなく、動かないでいるための型です」
「外から、何が来ても、そこにいる」
宗近は、自分の足を、もう一度、床に、噛ませる。
「これが、あると」
一拍。
「感情が、流れて、いきません」
「留まるんです」
空野の中で、何かが、点く。
⸻
「……試して、いい?」
空野は、訊く。
「型。それで、白磁の、独白」
水城が、ぴたり、と、止まる。
「お前、それ、Aブロックの課題だぞ」
「うん」
「課題のやつ、一年がやるのか」
「やる」
「……マジか」
「マジ」
宗近は、頷く。
「型、貸します」
「貸す、って言い方、いいな」
「貸すんです」
「うん」
⸻
空野は、素足で、リノリウムの上に、立つ。
宗近が、見せた、足の入り方を、思い出す。
親指。
土踏まず。
膝の裏。
完全には、できない。
完全に、できないまま、立つ。
肩を、抜こうとする。
入る。
息を、整えようとする。
乱れる。
でも。
立っている。
水城が、向かい合うように、座る。
宗近も、隣に、座る。
二人が、観ている。
空野は、口を、開く。
「あなたが」
声が、低い。
自分の声では、ない気がした。
「いない」
声が、途中で、止まる。
止まったまま、しばらく、立つ。
止まったまま、なのに、観ている水城と宗近の方が、少し、息を、浅くする。
空野は、続ける。
「あなたが、いない」
二度目。
一度目より、ずっと、軽い。
軽いのに、消えない。
「……」
水城が、囁く。
「お前、それ」
「黙って」
宗近が、止める。
水城は、止まる。
⸻
二度繰り返しただけで、空野は、止めた。
それ以上、続けるには、まだ、技術が、足りなかった。
立つ。
膝が、震えている。
「……ちょっと、見えた」
空野は、自分に、言った。
何が見えたのかは、まだ、言葉に、ならない。
でも、確かに、何かが、見えた。
宗近が、頷く。
「型、お返しください」
「……うん」
空野は、姿勢を、解く。
肩が、戻る。
膝が、伸びる。
抜けたものが、戻ってくる。
普通の、自分に、戻る。
少しだけ、寂しかった。
⸻
稽古場の、片付けをしながら、水城が、ぽつりと、言う。
「……お前、向いてんのかもな、それ」
「型、か?」
「いや」
水城は、首を、振る。
「型を、借りる方」
「借りる?」
「自分の方法、まだ、ないわけじゃん」
「うん」
「でも、宗近の型、借りて、立てた」
「……」
「それ、お前にしか、できないかもしれない」
宗近が、隣で、頷く。
「私も、同じことを、思いました」
「ふたり揃って、何だよ、それ」
「褒めています」
「分かりにくいんだよ、お前らの、褒め方」
空野が、ぼやく。
宗近が、笑う。
その瞬間、また、十代の顔になる。
⸻
稽古場の、電気を、消す。
廊下に、出る。
夜の窓の向こうに、街灯が、ぽつぽつと、点いている。
空野は、廊下を歩きながら、自分の足の裏の感触を、確かめている。
普段の、ただの足の裏に、戻っている。
戻っている、はずなのに。
ほんの少しだけ、床に、残っている感じが、あった。
自分の素足の、その下に。
――型は、感情の容れ物だ。
宗近の言葉ではない。
水城の言葉でも、ない。
空野が、自分の中で、勝手に、つけた名前、だった。
まだ、自分の山は、見えていない。
でも。
借りられる。
それが、今日いちばんの、収穫だった。
胸の奥に、少しだけ、温度が、残っていた。
その温度を、空野は、もう、こぼさないでいられる気がした。




