第五話 型
朝。
寮、五階。
空野は、ベッドの上で、天井を見ていた。
寝た記憶は、ある。
でも、起きていた記憶の方が、長い。
昨日のAブロック査定の独白が、まだ頭の中で鳴っている。
四回分、別の声で。
体が重い、というより、頭が重い。
スマートフォンが、震える。
水城だった。
「飯。今すぐ来い」
それだけ。
空野は、しばらく動かない。
もう一度、震える。
「お前を観察対象にしたい人間がいる」
何だ、それ。
⸻
寮、一階、食堂。
朝食の時間は、ぎりぎり残っている。
味噌汁の匂いと、トーストの匂いが、同じ空間で混じっている。
学院の寮は、科で分けられていない。
だから食堂には、アドラー科も、マイズナー科も、身体技法科も、古典科も、同じ床に座っている。
それでも、座っている人間の輪郭は、なんとなく科ごとに違う。
身体技法科の連中は、椅子の使い方が違う。
アドラー科の女子は、姿勢の作り方が違う。
そして、古典科は──
「こっち」
水城の声。
奥のテーブル。
水城が、手を、上げている。
その向かいに、女子がひとり、座っていた。
⸻
空野が、テーブルに近づきながら、最初に気づいたのは、顔ではなかった。
姿勢、だった。
背中が、まっすぐ、立っている。
椅子に座っているのに、椅子に支えられていない。
体幹だけで、上半身が立っている。
その姿勢を、椅子の上で当たり前のようにやっている人間に、空野は、今まで会ったことがなかった。
「……朝から、何だその姿勢」
水城が、笑う。
「だろ?」
水城の声が、いつもより少しだけ、軽くない。
紙パックのいちご牛乳は、今日、机の上にない。
代わりに、湯のみで、お茶を飲んでいる。
「空野、紹介する」
「宗近 真白。古典科」
女子が、ゆっくり、立ち上がる。
立ち上がる動作にも、無駄が、なかった。
空野の胸の高さに、彼女の目が来る。
「宗近です」
声が、低くも、高くもない。
ただ、整っている。丁寧といってもいい。
「空野くん、ですね」
「……うん」
「昨日」
彼女は、続ける。
「観覧ギャラリーに、いらしたでしょう」
空野の心臓が、少しだけ、跳ねた。
「……見てたの?」
「いえ」
宗近は、座り直す。
ゆっくりと。
「私は、二階の脇から、観ておりました」
ちがう場所で観ていた、と言いながら、確実に空野を見たことを、当たり前のように言う。
「……何で、俺が分かったんだ」
宗近は、少し首を傾げて、考える。
「泣いている方の顔は、覚えやすいので」
その答えに、空野は、返す言葉を、失う。
水城が、横で、咳をしている。
笑いを、堪えている顔だった。
⸻
向かいに、座る。
宗近のトレイの上には、ご飯と、味噌汁と、焼き魚と、沢庵が、几帳面に並べられていた。
食べ方も、姿勢通り、整っている。
しかし、食べる速度は、決して遅くない。
「宗近、こいつが空野透」
水城が、言う。
「昨日のAブロック、俺と一緒に観てた」
「存じています」
「いや、お前と話した記憶、ねえぞ」
「観覧ギャラリーから降りてくる二人を、二階の角で見ましたので」
水城が、ぴたり、と止まる。
「……お前、本当に、見てるよな」
「見るのが、うちの家業ですので」
「家業」
空野が、繰り返す。
宗近は、頷く。
「能楽です」
味噌汁を、一口。
「父が、シテ方で。祖父も、そうでした」
「……」
空野は、しばらく、言葉が、出ない。
能楽、という単語の重さを、急にどう扱っていいか、分からなかった。
「じゃあ、なんで、ここに」
訊いてしまってから、訊いてはいけないことだったかもしれない、と思った。
でも、宗近は、嫌そうな顔を、しなかった。
「現代演劇を、やりたかったので」
それだけ、答える。
「家を、継がない、ってこと?」
「分かりません」
宗近は、味噌汁の椀を、置く。
「継ぐかもしれないし、継がないかもしれない」
「その判断を、家の中だけで、したくなかったんです」
水城が、横で、湯のみを傾けている。
口を、挟まない。
宗近が話すときは、いつもこうなんだな、と空野は気づく。
⸻
「空野くん」
宗近が、不意に、こちらを見る。
「昨日、雨宮さんの独白を観ているとき、泣いていらっしゃいましたよね」
空野は、一瞬、肩を、強張らせる。
「……」
「あの時の顔が、私、いちばん面白かったんです」
「面白い……?」
「ええ」
宗近は、頷く。
責めるでもなく、からかうでもない、頷きだった。
「四人とも、芝居の方法が、違いました。違うものを観ているのなら、観ている側の顔も、違う角度に動くはずなんです。でも、空野くんは」
一拍。
「四回、ほとんど同じ角度で、動いていらっしゃった」
「……同じ?」
「ええ」
宗近は、少し考えて、言葉を選ぶ。
「正面で、受けていらっしゃったんです。全部、正面で。それは、観方として、すごく、真面目なんですけれど、」
彼女は、ゆっくり、続ける。
「すごく、しんどい観方です」
空野は、何も、返せない。
正面で、四回受けた。
その表現が、肌に、妙にしっくり来た。
胸の奥が、まだ少し痛むのは、たぶん、そのせいだった。
「……お前、それ、何で分かるんだよ」
ようやく出た声は、思ったより、小さかった。
宗近は、ふっと、笑う。
その瞬間、彼女の年齢が、急に下がる。
普段の整った佇まいが、急に、十代の顔になる。
水城が、湯のみの中で、少しだけ、笑った。
「観ることばかり、習ってきましたので」
宗近は、答える。
「父の稽古を、子供のころから、ずっと正座して、観ていました」
⸻
少し、沈黙。
空野は、味噌汁を、一口、飲む。
冷めかけている。
でも、塩気が、頭の芯まで届いた気がした。
「宗近」
水城が、ようやく、口を開く。
「お前、こいつに、訊いてやれよ」
「何を、ですか」
「いや、訊きたいこと、あったんだろ」
宗近は、少し考えてから、空野を見る。
「では、ひとつ」
姿勢が、また、整う。
「空野くんは、何の型がベースで、立っていらっしゃいますか?」
空野の、息が、止まる。
ストレートだった。
避けようがない、ストレートだった。
「……型、」
「はい。演技の型、方法論です」
「……方法論」
「ええ」
「アドラー、メソッド、マイズナー、身体技法、古典、他にも、、、」
宗近は、指を、ひとつずつ折るように、並べる。
「空野くんは、どれですか?」
空野は、答えられない。
少し前の自分なら、「マイズナー科だ」と、所属の話で、逃げられた。
でも、彼女が訊いているのは、所属ではない。
何で立っているか、だ。
昨日、観覧ギャラリーで、自分が呟いた言葉が、急に喉に戻ってくる。
――山が、何個もある。
――俺は、自分の山を、まだ持ってない。
「……分からない」
空野は、答える。
逃げた、のではなかった。
それが、いま、いちばん正直な答えだった。
宗近は、頷く。
「私もです」
驚くほど、あっさりと、彼女は、言った。
「私は、生まれたときから、山が、ありました。能、という山が」
味噌汁の蓋を、丁寧に、椀に戻す。
「でも、それが、私の山かは、まだ分からないんです」
空野は、宗近を、見直す。
姿勢のまっすぐな、整った顔の、女子。
その背中の中に、空野と同じまだ分からないが、入っているのが、見えた。
水城が、湯のみを、置く。
「……いいなあ」
ぽつり、と、言う。
「俺、そういう話、する相手、ずっと探してた、気がするんだよな」
空野は、水城を、見る。
水城は、こちらを、見ない。
ただ、二人を、観ている顔だった。
⸻
食堂を出る頃には、朝食の時間が、終わりに、近づいていた。
廊下の窓から、朝の光が、低く、差し込んでいる。
宗近は、空野より、先に歩いている。
姿勢が、廊下の中でも、やはり、少し、違う。
水城が、隣で、小声で、言う。
「な?」
「面白いだろ」
空野は、答えなかった。
でも、否定も、しなかった。
胸の奥に、昨日の雨宮の言葉が、また、戻ってきていた。
――観てる側の方が、舞台の上より、ずっと正直な顔してる。
宗近 真白は、ずっと、観てきた人間だった。
そして、空野が観られていることに気づいていなかった時間の中で、すでに彼を観ていた人間だった。
「……水城」
「ん?」
「お前、宗近のこと、好きなの?」
水城が、一秒、止まる。
「は?」
「なんとなく」
「ば、馬鹿、そういうんじゃ、ねえよ」
「ふうん」
「ふうん、じゃねえだろ」
宗近が、廊下の先で、振り返る。
「お二人とも、声、よく通りますね」
水城が、頭を、抱える。
空野は、久しぶりに、声を出して、笑った。
昨日のAブロックから、初めて、軽く出た息だった。
胸の重さが、消えたわけではない。
ただ、重さの中に、誰かといる感じが、増えていた。
それが、今日いちばんの収穫だ、と空野は思う。
廊下の先で、姿勢よく立っている宗近真白に、もう一度、目を向ける。
彼女の山が、彼女のものになるとき。
空野の山も、形が、見えているといい。
そう、思った。




