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舞台を奪え。――役者たちの群像劇――  作者: リュコ


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4/14

第四話 方法論

 第二実習棟、三階。

 普段は鍵の掛かっている扉が、今日だけ開いている。


 観覧ギャラリー。


 ガラス越しに、真下の大稽古場を見下ろせる小部屋だった。

 空野は、息を殺して階段を上がった。


 Aブロック査定。


 一年は、入場どころか観ることすら許されていない――と聞いていた。

 でも、それは半分だけ正しい。

 立ち見の観覧ギャラリーは、希望者のみ。

 ただし、ここに来る一年は、ほとんどいない。


 来ない、のではない。

 来たがらない、のだ。


 扉を、押す。

 冷気。

 稽古場の空調が、ここまで上がってきている。


 ガラス窓の下に、すでに人影が一つ。



「……お前、来てたのか」



 水城だった。

 いつものいちご牛乳ではなく、紙コップのブラックを持っている。



「マイズナー科の俺がここにいて、何が悪い」


「いや、悪くはないけど」


「お前こそ、来たな」



 水城は、こちらを見ずに言う。



「来るだろうな、とは思ってた」



 空野は、答えない。

 代わりに、ガラスの下に視線を落とす。



⸻

 大稽古場。

 白い床。


 昨日までの自分たちが立っていた床と、同じ素材のはずなのに、別物のように見える。


 照明は、絞られている。

 舞台用ではない、観察用の光。

 影が、嘘をつけない光だ。


 奥に、長机。

 そこに、五人が座っている。

 学院の教官二名。

 そして、外部審査員が、三名。



「あれ、誰?」



 空野が、小声で訊く。



「左から、テレビドラマの演出家」


「真ん中、舞台の制作プロデューサー」


「右、映画のキャスティングディレクター」



 水城は、淡々と答える。



「全員、知ってる人は知ってる」


「逆に言うと、知らない人間は呼ばれない」



 空野の喉が、自然と動く。

 唾を、飲んだ。


 この場の重さは、教室とは違う。

 昨日の即興ステージとも、違う。

 “職業”の重さだった。


 ガラスの下で、一人の女性教官が立ち上がる。



「シーンは、『白磁』第三幕より独白パート。」



 声が、よく通る。



「五分以内。前後の段取り、暗転、舞台装置はなし」



 一拍。



「観客に向けての前情報としては、このシーンは亡き相手に語るシーンです」



 空野は、その瞬間、少しだけ理解した。

 舞台装置がない、ということは、逃げ場がない、ということだ。

 言葉と、体と、間。

 それしか、武器がない。



「最初、三津井いずみ。スタニスラフスキー科」

 名前が呼ばれる。



⸻



 稽古場の、奥の扉が開く。

 女性が、入ってくる。

 三年。

 長身ではない。

 むしろ小柄で、肩幅も狭い。

 でも、入ってきた瞬間、ガラスのこちら側まで空気が動いた。



「……来た」



 水城が、小さく呟く。

 三津井いずみは、舞台中央まで歩く。

 ゆっくり。


 でも、迷っていない。

 立ち止まる。

 息を、吐く。

 そのまま、三十秒、何もしない。


 空野は、最初、不安になる。


 固まったのか?

 時間を、無駄にしているんじゃないか?

 でも違う。


 彼女の目の奥で、何かが起こっている。

 稽古場の照明の中で、彼女が呼び戻しているのが、観ているこちらにまで伝わる。

 誰かの記憶。

 たぶん、自分の中にある、本物の喪失。

 水城が、隣で、囁く。



「感情記憶。フル稼働してる」


「……感情、記憶?」


「自分の体験から、本物の感情を呼んで、役に流し込む技法」


「教科書には載ってるけど、教科書通りに出来る人間は、ほぼいない」



 三津井の唇が、動く。



「……あなたが、いない」



 たった、一行。

 なのに、ガラスの下の床が、湿った気がした。

 審査員のうち、一番厳しいと言われていたキャスティングディレクターが、ペンを置いた。


 彼女の目から、涙が落ちる。

 演じた涙ではない。

 台詞より、先に、落ちた涙だった。


 空野は、息を、止めた。

 胸のどこかが、勝手に呼応している。


 彼女が呼び戻している記憶は、空野のものではないはずなのに、自分の喉まで詰まる。

 彼女は、五分のうち、ほとんど同じ言葉を、何度か繰り返しただけだった。

 でも、その繰り返しの全部に、別の重さがあった。


 暗転。


 審査員のひとりが、深く息を吐く。

 拍手は、起きない。

 起こす空気では、なかった。



「……うわ」



 空野は、それ以上、言葉が出ない。



「な?」



 水城が、小さく笑う。



「ベタな手なんだよ、メソッドって」


「でも、ベタを本当にやれる人間が、化け物なんだ」



⸻



「次、黒木隼。身体技法科」



 扉が、開く。


 今度は、空気が沈む。

 大柄な男。

 肩幅が、三津井の倍以上ある。

 歩く、というより、移動する音が違う。

 一歩ごとに、稽古場の床が、低い音を返す。



「うわ、来た」



 水城が、姿勢を直す。



「これも、別物」



 黒木は、舞台中央に立つ。

 立つ、という動作だけで、違いが分かる。

 膝が、深い。

 重心が、腰より下に落ちている。

 空野には、その意味が一瞬で分かった。

 昨日、神代の前で自分が立てなかった理由が、彼を見ていると逆に分かる。


 黒木は、呼吸を、二回。

 息を吐くたびに、肩が落ちる。

 いや、肩だけじゃない。

 全身の余分が、床に落ちていく。

 そして、口を開いた。



「あなたが」



 声が、低い。

 胸からではなく、腹の奥から押し出されている。



「いない」



 同じ台詞。

 なのに、三津井の時とは、別の台詞に聞こえた。


 言葉が、音として届く前に、圧として届く。

 ガラス越しの空野の胃の底が、勝手に揺れた。

 彼の独白は、長くない。

 台詞の半分くらいは、ほとんど呻きに近い。

 言葉になっていない部分の方が、多い。


 でも、伝わる。

 悲しみが、ではない。

 ここに、誰かがいなくなったという事実そのものが、空気の重さとして稽古場に居座っている。

 水城が、囁く。



「あれ、“言葉で伝える”って発想を、最初から捨ててる」


「全身がメッセージ」


「……怖いな」


「怖いよ。あれ相手にして共演する側、相当きつい」



 暗転。


 今度は、誰かが拍手をしようとして、止めた。

 拍手より先に、空気の整理が必要だった。



⸻



「神代綾。アドラー科」



 名前が、呼ばれる。

 空野の、心臓が、一拍だけ強く打つ。

 扉が、開く。


 神代は、一人で歩いてくる。

 ヒールの音が、教室と同じテンポで、稽古場の床に落ちる。

 ただし、テンポは同じでも、音の重さが違った。

 ここに合わせて、彼女は重心を変えている。



「……あれ、調整してる」



 水城が、小さく言う。



「教室の時より、足が重い」


「場所に合わせて、自分のサイズを変えてる」



 空野は、ガラスにほとんど額をつけて、観ている。

 神代は、舞台中央に立つ。


 立った瞬間、空気が、整った。


 三津井の時は、空気が湿った。

 黒木の時は、空気が沈んだ。

 神代の時は、空気が揃った。


 全員が、彼女のリズムに、強制的に合わされる。

 審査員が、姿勢を直したのが、ガラスのこちらからでも分かる。

 神代は、息を、一つだけ吐く。

 そして、最初の一行を、置いた。



「……あなたが、いない」



 冷たい、わけじゃない。

 むしろ、温度はある。

 ただ、その温度を彼女が決めているのが、観ていて分かる。

 三津井のように、自分の中から呼び戻したのではない。

 黒木のように、身体から押し出したのでもない。


 “こういう温度の悲しみ”を、彼女が選んで、置いている。


 それなのに、嘘に聞こえない。

 空野は、初めて、神代の芝居を観客として観ていた。

 昨日までは、相手として立っていたから、見えなかった。

 遠くから観ると、よく分かる。


 彼女は、台詞のひとつひとつで、相手の反応の予算を組んでいる。


 ここで、観客は息を吸う。

 ここで、審査員のペンが止まる。

 ここで、稽古場の照明の影が、自分の頬にどう落ちるか。


 全部、計算済み。

 なのに、計算に見えない。

 計算が、感情の形をしている。



「……これが、本気の神代か」



 水城が、声を落とす。



「教室の時、まだ六割くらいだったんだな」



 空野は、答えない。

 胸の奥に、昨日とは別の感情が、滲んでいる。

 悔しさ、ではない。

 遠さだった。

 昨日、廊下で「次は奪われない」と決めた、その“次”の地平が、神代には、まだ三段くらい上にある。


 暗転。


 審査員の一人が、笑った。

 悪い意味の笑いではない。

 いいものを観てしまった人間の、半ば呆れた笑いだった。



⸻



「最後。雨宮律」



 名前が、呼ばれた瞬間。

 ガラスのこちら側まで、空気が変わるのが分かった。

 水城が、紙コップを、置く。

 空野は、無意識に、ガラスから一歩、引いた。



⸻



 扉が、開く。


 雨宮律は、歩いてこない。

 いや、歩いてはいる。

 ただ、歩いている、という感じが、しない。

 そこに、ただ移動してきた。


 舞台中央に、立つ。

 手の置き方も、足の幅も、特別ではない。

 準備の所作が、ない。

 息も、整えない。

 ただ、立っている。


 時間が、過ぎていく。

 十秒。

 二十秒。


 空野は、ふと気づく。

 彼は、観客を観ている。

 稽古場の中央から、審査員の五人を、ひとりずつ。


 いや、それだけじゃない。

 ガラスのこちら側――観覧ギャラリーまで、視線が一度、上がってきた。

 空野の心臓が、止まる。


 目が、合った気がした。


 でも、雨宮の視線は、すぐに戻っていく。

 水城が、呟く。



「……あの人、全員、観た」



 三十秒。

 まだ、雨宮は、何も言わない。

 なのに、誰も、退屈していない。

 観られているという事実だけで、稽古場の全員が、彼から目を離せない。

 そして、雨宮は、口を開いた。



「あなたが」



 普通の、声だった。

 大きくも、小さくもない。

 音楽的でも、なかった。

 ただ、そこにいる人が、そこにいる人に向かって話している音だった。



「いない」



 空野は、息を呑む。

 三津井のような、湿りはない。

 黒木のような、圧もない。

 神代のような、設計の美しさもない。

 なのに。

 三人分、全部、入っていた。

 全部、入っていて、しかも何ひとつ強調されていない。


 雨宮は、独白を、進めていく。

 彼は、感情を、呼ばない。

 身体を、押し出さない。

 設計を、組まない。


 ただ、そこに在って、相手のことを話している。


 そのことだけで、稽古場の空気が、彼の側を中心にして、回り始める。

 空野は、自分の頬が濡れていることに、途中で気づいた。

 泣いた覚えが、ない。

 体が勝手に反応していた。



「……なんで、泣いてんだ、俺」



 水城は、答えない。

 水城も、ガラスに、額を、つけていた。

 雨宮は、独白の最後の一行を、ほとんど囁くように置いた。

 暗転、ではなく、ただ、彼が動かなくなる。

 その動かなさが、台本に書かれていない、もう一行だった。


 拍手は、起きなかった。

 審査員も、誰も、最初の音を出せなかった。

 先に音を出すと、何かが壊れる。

 全員が、それを、知っていた。



⸻



 観覧ギャラリーの空気が、ようやく緩む。

 空野は、ガラスから、ゆっくり離れる。

 膝の力が、抜けていた。

 水城が、長い息を吐く。



「……これがAブロックか」


「……」


「お前、何か言えよ」



 空野は、すぐには答えられない。

 頭の中で、四人の独白が、まだ重なって鳴っている。


 同じ台詞。

 同じ稽古場。

 同じ五分。

 なのに、四回、別の出来事が起きた。


 あれ全部、芝居だった。

 全部、芝居だったのに、全部、別の世界だった。



「……一個の山じゃないんだな」



 空野が、ぽつりと言う。



「あ?」


「上に、一個の頂点があるんだと思ってた」


「だから、神代に勝てれば、上に行けるんだと思ってた」



 水城が、こちらを見る。



「でも、違う」



 空野は、ガラスの下を、もう一度見る。

 もう、誰もいない、白い床。



「山が、何個もある」


「三津井さんの山。黒木さんの山。神代の山。雨宮先輩の山」


「全部、別の山だ」


「……」


「俺は、自分の山を、まだ持ってない」



 水城は、しばらく黙ったあと、紙コップの底を覗き込んだ。



「……お前、それに今日気づいたの、めちゃくちゃデカいぞ」



 軽い口調だった。

 でも、その奥が、軽くないのは、空野にも分かった。



⸻



 ギャラリーを出る。

 階段を降りる。

 二階の踊り場。

 空野は、足を、止める。


 階段の下に、人影。

 雨宮律だった。

 着替えてもいない。

 稽古着のまま、自販機の缶コーヒーを、開けようとして、開けあぐねている。

 手の動きが、少しだけ、鈍い。

 さっき、ガラスの下で、あれだけのものを見せた人間と、同じ人間とは思えない。


 空野が降りてきた音に、雨宮が、顔を上げる。



「……ああ」



 眠そうな顔で、言う。



「観てたの、お前だろ」



 空野の心臓が、跳ねた。



「目が、合った気がしたから」



 雨宮は、缶を、ようやく開ける。

 軽く、こちらに掲げる。



「……何で、分かったんですか」



 空野は、そう訊くしか、なかった。

 雨宮は、缶を、口に運ぶ前に、少しだけ笑う。



「観てる側の方が、舞台の上より、ずっと正直な顔してるからだよ」



 その言葉だけ置いて、彼は、廊下の奥に消えていく。

 空野は、その背中が見えなくなるまで、動けなかった。


 胸の奥で、昨日、神代の揺れを見た時の熱が、もう一度、灯っている。

 ただし、形が、少し変わっている。


 勝つでも、奪うでもない。

 自分の山を、見つける。

 それだけが、はっきりとあった。

 まだ、登り口さえ分からない。


 でも。


 今日、山が複数あると知ったことが、たぶん、最初の一歩だった。



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