第四話 方法論
第二実習棟、三階。
普段は鍵の掛かっている扉が、今日だけ開いている。
観覧ギャラリー。
ガラス越しに、真下の大稽古場を見下ろせる小部屋だった。
空野は、息を殺して階段を上がった。
Aブロック査定。
一年は、入場どころか観ることすら許されていない――と聞いていた。
でも、それは半分だけ正しい。
立ち見の観覧ギャラリーは、希望者のみ。
ただし、ここに来る一年は、ほとんどいない。
来ない、のではない。
来たがらない、のだ。
扉を、押す。
冷気。
稽古場の空調が、ここまで上がってきている。
ガラス窓の下に、すでに人影が一つ。
「……お前、来てたのか」
水城だった。
いつものいちご牛乳ではなく、紙コップのブラックを持っている。
「マイズナー科の俺がここにいて、何が悪い」
「いや、悪くはないけど」
「お前こそ、来たな」
水城は、こちらを見ずに言う。
「来るだろうな、とは思ってた」
空野は、答えない。
代わりに、ガラスの下に視線を落とす。
⸻
大稽古場。
白い床。
昨日までの自分たちが立っていた床と、同じ素材のはずなのに、別物のように見える。
照明は、絞られている。
舞台用ではない、観察用の光。
影が、嘘をつけない光だ。
奥に、長机。
そこに、五人が座っている。
学院の教官二名。
そして、外部審査員が、三名。
「あれ、誰?」
空野が、小声で訊く。
「左から、テレビドラマの演出家」
「真ん中、舞台の制作プロデューサー」
「右、映画のキャスティングディレクター」
水城は、淡々と答える。
「全員、知ってる人は知ってる」
「逆に言うと、知らない人間は呼ばれない」
空野の喉が、自然と動く。
唾を、飲んだ。
この場の重さは、教室とは違う。
昨日の即興ステージとも、違う。
“職業”の重さだった。
ガラスの下で、一人の女性教官が立ち上がる。
「シーンは、『白磁』第三幕より独白パート。」
声が、よく通る。
「五分以内。前後の段取り、暗転、舞台装置はなし」
一拍。
「観客に向けての前情報としては、このシーンは亡き相手に語るシーンです」
空野は、その瞬間、少しだけ理解した。
舞台装置がない、ということは、逃げ場がない、ということだ。
言葉と、体と、間。
それしか、武器がない。
「最初、三津井いずみ。スタニスラフスキー科」
名前が呼ばれる。
⸻
稽古場の、奥の扉が開く。
女性が、入ってくる。
三年。
長身ではない。
むしろ小柄で、肩幅も狭い。
でも、入ってきた瞬間、ガラスのこちら側まで空気が動いた。
「……来た」
水城が、小さく呟く。
三津井いずみは、舞台中央まで歩く。
ゆっくり。
でも、迷っていない。
立ち止まる。
息を、吐く。
そのまま、三十秒、何もしない。
空野は、最初、不安になる。
固まったのか?
時間を、無駄にしているんじゃないか?
でも違う。
彼女の目の奥で、何かが起こっている。
稽古場の照明の中で、彼女が呼び戻しているのが、観ているこちらにまで伝わる。
誰かの記憶。
たぶん、自分の中にある、本物の喪失。
水城が、隣で、囁く。
「感情記憶。フル稼働してる」
「……感情、記憶?」
「自分の体験から、本物の感情を呼んで、役に流し込む技法」
「教科書には載ってるけど、教科書通りに出来る人間は、ほぼいない」
三津井の唇が、動く。
「……あなたが、いない」
たった、一行。
なのに、ガラスの下の床が、湿った気がした。
審査員のうち、一番厳しいと言われていたキャスティングディレクターが、ペンを置いた。
彼女の目から、涙が落ちる。
演じた涙ではない。
台詞より、先に、落ちた涙だった。
空野は、息を、止めた。
胸のどこかが、勝手に呼応している。
彼女が呼び戻している記憶は、空野のものではないはずなのに、自分の喉まで詰まる。
彼女は、五分のうち、ほとんど同じ言葉を、何度か繰り返しただけだった。
でも、その繰り返しの全部に、別の重さがあった。
暗転。
審査員のひとりが、深く息を吐く。
拍手は、起きない。
起こす空気では、なかった。
「……うわ」
空野は、それ以上、言葉が出ない。
「な?」
水城が、小さく笑う。
「ベタな手なんだよ、メソッドって」
「でも、ベタを本当にやれる人間が、化け物なんだ」
⸻
「次、黒木隼。身体技法科」
扉が、開く。
今度は、空気が沈む。
大柄な男。
肩幅が、三津井の倍以上ある。
歩く、というより、移動する音が違う。
一歩ごとに、稽古場の床が、低い音を返す。
「うわ、来た」
水城が、姿勢を直す。
「これも、別物」
黒木は、舞台中央に立つ。
立つ、という動作だけで、違いが分かる。
膝が、深い。
重心が、腰より下に落ちている。
空野には、その意味が一瞬で分かった。
昨日、神代の前で自分が立てなかった理由が、彼を見ていると逆に分かる。
黒木は、呼吸を、二回。
息を吐くたびに、肩が落ちる。
いや、肩だけじゃない。
全身の余分が、床に落ちていく。
そして、口を開いた。
「あなたが」
声が、低い。
胸からではなく、腹の奥から押し出されている。
「いない」
同じ台詞。
なのに、三津井の時とは、別の台詞に聞こえた。
言葉が、音として届く前に、圧として届く。
ガラス越しの空野の胃の底が、勝手に揺れた。
彼の独白は、長くない。
台詞の半分くらいは、ほとんど呻きに近い。
言葉になっていない部分の方が、多い。
でも、伝わる。
悲しみが、ではない。
ここに、誰かがいなくなったという事実そのものが、空気の重さとして稽古場に居座っている。
水城が、囁く。
「あれ、“言葉で伝える”って発想を、最初から捨ててる」
「全身がメッセージ」
「……怖いな」
「怖いよ。あれ相手にして共演する側、相当きつい」
暗転。
今度は、誰かが拍手をしようとして、止めた。
拍手より先に、空気の整理が必要だった。
⸻
「神代綾。アドラー科」
名前が、呼ばれる。
空野の、心臓が、一拍だけ強く打つ。
扉が、開く。
神代は、一人で歩いてくる。
ヒールの音が、教室と同じテンポで、稽古場の床に落ちる。
ただし、テンポは同じでも、音の重さが違った。
ここに合わせて、彼女は重心を変えている。
「……あれ、調整してる」
水城が、小さく言う。
「教室の時より、足が重い」
「場所に合わせて、自分のサイズを変えてる」
空野は、ガラスにほとんど額をつけて、観ている。
神代は、舞台中央に立つ。
立った瞬間、空気が、整った。
三津井の時は、空気が湿った。
黒木の時は、空気が沈んだ。
神代の時は、空気が揃った。
全員が、彼女のリズムに、強制的に合わされる。
審査員が、姿勢を直したのが、ガラスのこちらからでも分かる。
神代は、息を、一つだけ吐く。
そして、最初の一行を、置いた。
「……あなたが、いない」
冷たい、わけじゃない。
むしろ、温度はある。
ただ、その温度を彼女が決めているのが、観ていて分かる。
三津井のように、自分の中から呼び戻したのではない。
黒木のように、身体から押し出したのでもない。
“こういう温度の悲しみ”を、彼女が選んで、置いている。
それなのに、嘘に聞こえない。
空野は、初めて、神代の芝居を観客として観ていた。
昨日までは、相手として立っていたから、見えなかった。
遠くから観ると、よく分かる。
彼女は、台詞のひとつひとつで、相手の反応の予算を組んでいる。
ここで、観客は息を吸う。
ここで、審査員のペンが止まる。
ここで、稽古場の照明の影が、自分の頬にどう落ちるか。
全部、計算済み。
なのに、計算に見えない。
計算が、感情の形をしている。
「……これが、本気の神代か」
水城が、声を落とす。
「教室の時、まだ六割くらいだったんだな」
空野は、答えない。
胸の奥に、昨日とは別の感情が、滲んでいる。
悔しさ、ではない。
遠さだった。
昨日、廊下で「次は奪われない」と決めた、その“次”の地平が、神代には、まだ三段くらい上にある。
暗転。
審査員の一人が、笑った。
悪い意味の笑いではない。
いいものを観てしまった人間の、半ば呆れた笑いだった。
⸻
「最後。雨宮律」
名前が、呼ばれた瞬間。
ガラスのこちら側まで、空気が変わるのが分かった。
水城が、紙コップを、置く。
空野は、無意識に、ガラスから一歩、引いた。
⸻
扉が、開く。
雨宮律は、歩いてこない。
いや、歩いてはいる。
ただ、歩いている、という感じが、しない。
そこに、ただ移動してきた。
舞台中央に、立つ。
手の置き方も、足の幅も、特別ではない。
準備の所作が、ない。
息も、整えない。
ただ、立っている。
時間が、過ぎていく。
十秒。
二十秒。
空野は、ふと気づく。
彼は、観客を観ている。
稽古場の中央から、審査員の五人を、ひとりずつ。
いや、それだけじゃない。
ガラスのこちら側――観覧ギャラリーまで、視線が一度、上がってきた。
空野の心臓が、止まる。
目が、合った気がした。
でも、雨宮の視線は、すぐに戻っていく。
水城が、呟く。
「……あの人、全員、観た」
三十秒。
まだ、雨宮は、何も言わない。
なのに、誰も、退屈していない。
観られているという事実だけで、稽古場の全員が、彼から目を離せない。
そして、雨宮は、口を開いた。
「あなたが」
普通の、声だった。
大きくも、小さくもない。
音楽的でも、なかった。
ただ、そこにいる人が、そこにいる人に向かって話している音だった。
「いない」
空野は、息を呑む。
三津井のような、湿りはない。
黒木のような、圧もない。
神代のような、設計の美しさもない。
なのに。
三人分、全部、入っていた。
全部、入っていて、しかも何ひとつ強調されていない。
雨宮は、独白を、進めていく。
彼は、感情を、呼ばない。
身体を、押し出さない。
設計を、組まない。
ただ、そこに在って、相手のことを話している。
そのことだけで、稽古場の空気が、彼の側を中心にして、回り始める。
空野は、自分の頬が濡れていることに、途中で気づいた。
泣いた覚えが、ない。
体が勝手に反応していた。
「……なんで、泣いてんだ、俺」
水城は、答えない。
水城も、ガラスに、額を、つけていた。
雨宮は、独白の最後の一行を、ほとんど囁くように置いた。
暗転、ではなく、ただ、彼が動かなくなる。
その動かなさが、台本に書かれていない、もう一行だった。
拍手は、起きなかった。
審査員も、誰も、最初の音を出せなかった。
先に音を出すと、何かが壊れる。
全員が、それを、知っていた。
⸻
観覧ギャラリーの空気が、ようやく緩む。
空野は、ガラスから、ゆっくり離れる。
膝の力が、抜けていた。
水城が、長い息を吐く。
「……これがAブロックか」
「……」
「お前、何か言えよ」
空野は、すぐには答えられない。
頭の中で、四人の独白が、まだ重なって鳴っている。
同じ台詞。
同じ稽古場。
同じ五分。
なのに、四回、別の出来事が起きた。
あれ全部、芝居だった。
全部、芝居だったのに、全部、別の世界だった。
「……一個の山じゃないんだな」
空野が、ぽつりと言う。
「あ?」
「上に、一個の頂点があるんだと思ってた」
「だから、神代に勝てれば、上に行けるんだと思ってた」
水城が、こちらを見る。
「でも、違う」
空野は、ガラスの下を、もう一度見る。
もう、誰もいない、白い床。
「山が、何個もある」
「三津井さんの山。黒木さんの山。神代の山。雨宮先輩の山」
「全部、別の山だ」
「……」
「俺は、自分の山を、まだ持ってない」
水城は、しばらく黙ったあと、紙コップの底を覗き込んだ。
「……お前、それに今日気づいたの、めちゃくちゃデカいぞ」
軽い口調だった。
でも、その奥が、軽くないのは、空野にも分かった。
⸻
ギャラリーを出る。
階段を降りる。
二階の踊り場。
空野は、足を、止める。
階段の下に、人影。
雨宮律だった。
着替えてもいない。
稽古着のまま、自販機の缶コーヒーを、開けようとして、開けあぐねている。
手の動きが、少しだけ、鈍い。
さっき、ガラスの下で、あれだけのものを見せた人間と、同じ人間とは思えない。
空野が降りてきた音に、雨宮が、顔を上げる。
「……ああ」
眠そうな顔で、言う。
「観てたの、お前だろ」
空野の心臓が、跳ねた。
「目が、合った気がしたから」
雨宮は、缶を、ようやく開ける。
軽く、こちらに掲げる。
「……何で、分かったんですか」
空野は、そう訊くしか、なかった。
雨宮は、缶を、口に運ぶ前に、少しだけ笑う。
「観てる側の方が、舞台の上より、ずっと正直な顔してるからだよ」
その言葉だけ置いて、彼は、廊下の奥に消えていく。
空野は、その背中が見えなくなるまで、動けなかった。
胸の奥で、昨日、神代の揺れを見た時の熱が、もう一度、灯っている。
ただし、形が、少し変わっている。
勝つでも、奪うでもない。
自分の山を、見つける。
それだけが、はっきりとあった。
まだ、登り口さえ分からない。
でも。
今日、山が複数あると知ったことが、たぶん、最初の一歩だった。




