第三話 視線
昼休み。
第二実習棟・ラウンジ。
ガラス越しの中庭で、何人かの生徒が即興をしている。
笑い声。
怒鳴り声。
泣き真似。
この学院では、昼休みですら芝居が始まる。
誰も、それを止めない。
誰かが感情を爆発させていても、横を通る生徒は、せいぜいちらりと値踏みするだけだ。
空野は、自販機の前で立ち止まっていた。
缶コーヒーを取る。
冷たい。
その冷たさが、掌から手首まで、ゆっくり伝わってくる。
昨日から、ずっと頭の中に残っている言葉がある。
――相手から、目を逸らさない技術だ。
雨宮律。
あの男の視線。
思い出すだけで、喉の奥が、少し詰まる。
怖い、とは違う。
“測られた”という記憶だった。
「お、いたいた」
水城が、やって来る。
紙パックの、いちご牛乳。
全然、この学院っぽくない。
誰もがどこかで“役”を背負っている空間で、こいつのストローだけ、いつも素のままだ。
「お前、今日めっちゃ静かじゃん」
「別に」
「いや絶対、雨宮先輩のこと考えてるだろ」
「……分かりやすいか?」
「分かりやすい」
即答だった。
「でもまあ、分かる。あれ見た後だと、ちょっとへこむよなー」
水城は、ストローを咥えながら、中庭を見る。
その目は、芝居をしている生徒たちを、ちゃんと観察している。
軽い口調と、観ている深さが、たまに釣り合っていない男だ。
「神代は“強い”って感じだけど、雨宮先輩って“見えてる”んだよな」
「……違いあんのか?」
「あるある」
水城は、軽く笑う。
「神代は、空気を変えるじゃん」
「雨宮先輩は、変える前の空気ごと、見てる感じ」
空野は、黙る。
上手く、言語化できない。
でも、その感覚は少し分かった。
神代の前に立つと、自分が演じている自覚が消えていく。
雨宮の前に立つと、自分が演じている自覚を、外側から見られているような気がする。
種類が、違う。
その時だった。
ラウンジ奥のモニターが、切り替わる。
電子音。
ざわつき。
周囲の生徒たちが、一斉に顔を上げた。
『Aブロック実技査定 参加者一覧』
空気が、変わる。
今まで笑っていた連中まで、急に黙る。
いちご牛乳のストローを噛む音すら、耳障りに聞こえるくらい、ラウンジが静まった。
「……来た」
誰かが、呟いた。
画面には、名前が並んでいる。
二年。
三年。
学院上位者。
そして。
《神代綾》
その名前が表示された瞬間、空気が一段、沈む。
一年で、唯一の参加者。
Aブロック査定。
学院内でも、上位層しか挑めない実技試験だった。
「え、一年でまた出んの?」
「神代、今年何回目だよ」
「落ちる気しねぇ……」
ざわめきの中に、嫉妬よりも、諦めに近い色が混ざっている。
神代が出る、と決まった時点で、もう何かが終わっているような、その空気。
水城が、口笛を吹く。
「やば。マジで化け物だな」
「Aブロックって、そんな凄いのか?」
「は?」
水城が、逆に驚く。
「いや、お前マジで知らないの?」
「詳しくは」
「学院の序列、そのものだぞ」
水城は、モニターを顎で示す。
「Aブロックは、校内公演の中心」
「主演候補も、外部スカウトも、基本そこから選ばれる」
「逆に言うと、そこ入れなきゃ、どれだけ上手くても“その他大勢”」
“その他大勢”。
その四文字が、空野の胃の底に、すとんと落ちる。
空野は、モニターを見る。
神代綾。
その文字だけが、他の名前と同じフォント、同じサイズなのに、妙に強い。
“強い”と感じる、ということ自体が、もう負けている気がした。
「……空野」
不意に。
後ろから、声。
振り向く。
神代綾だった。
周囲の空気が、少し、止まる。
ラウンジの誰もが、見ていないふりをしながら、聞き耳を立てているのが分かる。
「な、なんでこっち来るんだよ……」
水城が、小声で引く。
いちご牛乳が、二歩ぶん遠ざかる。
神代は、気にしない。
「昨日の続き」
空野を、見る。
「少し、気になったから」
昨日。
最後。
空野は、止まらなかった。
あの瞬間のことだと、すぐ分かった。
でも、神代の口から「気になった」と言われると、何かが妙に重い。
彼女が誰かを「気にする」ということ自体、たぶん滅多にないことだ。
「……何だよ」
「あなた、少し変わったでしょう」
「は?」
神代は、空野を真っ直ぐ見る。
「昨日まで、“感じたもの”に流されていた」
「でも今日は、自分から見にいってた」
空野の喉が、少し動く。
見られていた。
あの実習を。
水城との、たった数分の二人芝居を。
いつから観ていたのか。
最初から、だろう、と思う。
「まだ浅いけど」
「……余計なお世話だ」
神代は、少しだけ目を細める。
「でも、その方がいい」
「感情だけの人間より、壊し甲斐があるから」
空気が、冷える。
水城が、露骨に後ずさる。
「うわ出たよこの人」
「お前黙ってろ」
空野は、神代から目を逸らさない。
昨日なら、出来なかったことだった。
目を合わせ続ける、というだけのことが、こんなに筋肉を使うとは思わなかった。
「……お前さ」
一歩、近づく。
「なんで、そんなに勝とうとするんだよ」
神代が、止まる。
周囲も、静まる。
“勝つ”という言葉は、たぶん、間違っていた。
空野自身、口にした瞬間に、それを感じた。
でも、訂正は、しない。
訂正したら、また流されることになる。
神代は、少し考えたあと、首を横に振った。
「違う」
静かな、声。
「私は、勝ちたいわけじゃない」
一拍。
「成立させたいだけ」
空野は、眉を寄せる。
また、その言葉だ。
「成立って、何だよ」
「舞台の真実性」
「観客が、“今そこにある”と信じる強度」
神代は、迷いなく言う。
暗記した定義ではない。
彼女の中で、たぶん、何度もそれを試した上での結論だ。
「そのためなら、相手も、自分も壊す」
「ただ、それだけ」
怖い、と、空野は思った。
でも同時に。
少しだけ、綺麗だ、とも思った。
“信仰”に近いものだった。
神代は、芝居を信じている。
信じる対象が芝居であって、自分でも、相手でもないから、誰のことも壊せる。
「……神代」
別の声。
ラウンジ入口。
雨宮律だった。
一瞬で、空気が、静まる。
神代が、初めて、僅かに表情を変えた。
ほんの少し、肩が、上がった。
いつも一定だったその姿勢が、僅かに、防御の形になる。
空野は、それを見逃さなかった。
「査定、出るんだって?」
雨宮は、眠そうな顔のまま、言う。
眠そう、というより、半分しかこの場にいないような顔だ。
残りの半分は、たぶん、ずっと別のものを観ている。
「ええ」
「落ちるよ」
周囲の空気が、凍った。
神代の目が、細くなる。
「理由を聞いても?」
「見えてないから」
雨宮は、神代を見る。
その目は、責めていない。
ただ、観察の結果を、そのまま渡している。
昨日、空野が舞台の上で神代に言われたことと、構造が同じだ。
“報告”の目。
立場が、入れ替わっていた。
「お前、自分の成立しか見てない」
「相手が、どこで壊れるかばっかり探してる」
神代は、黙る。
周囲も、誰も喋れない。
「それだと、いつか独りになる」
静かだった。
怒っていない。
見下してもいない。
ただ、“見えていること”を、言っているだけだった。
雨宮の言葉には、神代のような“設計”が、ない。
設計しなくても届く、という凄み。
空野は、肌でそれを理解した。
神代は、数秒黙ったあと、ふっと、笑う。
「……あなたらしいですね」
声は、いつも通り、整っていた。
だが。
その笑みは、昨日までと、少し違った。
唇の端の角度が、ほんの一ミリだけ、揃っていない。
初めて神代が、“揺れた”ように見えた。
空野は、その瞬間を、見逃さなかった。
ラウンジの他の誰も、たぶん気づいていない。
水城ですら、まだ自分の動揺の方を処理している。
でも、空野は、見た。
神代綾にも。
届かない相手が、いる。
その事実は、彼女を弱くするのではなく、むしろ──ようやく、人間にした。
胸の奥で。
何かが、静かに燃え始める。
昨日の悔しさとは、違う種類の熱だった。
もっと低くて、長持ちする熱。
遠い。
まだ全然、遠い。
神代の背中も。
雨宮の眼差しも。
でも。
――見えた。
初めて。
自分が、登るべき場所が。
見えた、というその一点だけで、空野の足の裏に、はっきりと床の感触が戻ってきた。




