第二話 小さな変化
翌朝。
鳴宮演技研究院・第二実習棟。
ガラス張りの廊下を、朝の光が斜めに切っていた。
光の帯を、生徒たちが横切っていく。
台本を読む者もいれば、
廊下の端で発声をしている者もいる。
壁際では、
向き合ったまま無言で立ち尽くす二人の姿もあった。
ここでは、立ち振る舞い一つで、どの科か分かると言われている。
「神代、またAブロック残ったらしい」
「今年の主演候補、ほぼ確だろ」
「一年でA固定は異常だって」
空野は、足を止めない。
聞こえないふりをして通り過ぎる。
だが、“主演候補”という言葉だけが、耳の奥に残った。
壁面モニター。
次回校内公演・仮配役一覧。
主演候補。
最上段。
神代綾。
横には《Aブロック維持》の表示。
その下に、数名。
空野透の名前は、ない。
分かっていた。
でも、文字で見ると、胃の底が冷える。
「うわ、神代また一番上じゃん。化け物かよ」
横から、声。
振り向くと、短髪の男子生徒が立っていた。
水城蓮。
同クラス、マイズナー科。
肩の力が、いつ見ても抜けている。
「……」
「いやでも昨日すごかったって。途中、お前の空気だったし」
軽い。
まるで世間話みたいな口調。
「神代相手にあそこまで押せる一年、他いねーって」
「押せてない。最後、止まった」
「まあ止まったけど」
あっさり言う。
悪気がなさすぎて、逆に腹が立つ。
「でもさ、あの神代が途中でちゃんと受けてたじゃん」
「……は?」
「いや、あいつ基本、“見てる側”なのに、昨日ちょっと乗ってたろ」
水城は笑う。
「俺、そこ普通にテンション上がった」
空野は、言い返せなかった。
水城は、そういう人間だった。
重くならない。
空気を無理に変えようともしない。
でも、気づく時はちゃんと気づいている。
「……お前、気楽だな」
「そりゃ気楽だろ。苦しそうに芝居しても、おもしろくないし」
水城は、けろっと言う。
「ていうか俺、お前みたいに熱くなれるの、ちょっと羨ましいけどな」
その時。
廊下の奥から、拍手が聞こえた。
パン。
パン。
一定の間隔。
視線が流れる。
神代綾だった。
同期だけじゃない。
二年や三年まで、彼女を囲んでいる。
「神代さん、昨日どうやって空気変えたんですか?」
「途中から完全に支配されてましたよね」
「やっぱアドラー科って、“設計”重視なんですか?」
神代は、少し考える。
沈黙。
誰も急かさない。
「別に」
静かに言う。
「崩れる方を選んだだけ」
一瞬で、その場が静かになる。
説明じゃない。
理論でもない。
でも、全員が聞いている。
神代が喋る時、空気の方が勝手に整列する。
「うわー、今の言い方かっけぇ……」
水城が、小さく呟く。
「お前ちょっと黙れ」
「え、なんで?」
本気で分かっていない顔だった。
空野は、思わず息を吐く。
少しだけ。
本当に少しだけ、肩の力が抜けた。
「……行くぞ」
「はいはい」
水城が、軽く肩を叩く。
強すぎず、弱すぎない。
ちょうど、足が動く強さだった。
⸻
実習室B。
今日の課題は、二人芝居。
テーマは、自由。
ただし、条件が一つある。
「今日は、“選択”を見せろ」
教官が、黒板に白いチョークを走らせる。
選択。
太く、短く。
「感情じゃない。反応でもない」
一拍。
「お前らが、何を選んだかだ」
空野の喉が、わずかに動く。
――あなたは選んでいない。
昨日の神代の声が、勝手に蘇る。
「ただし」
教官が続ける。
「勘違いするな」
教室が静まる。
「“選ぶ”ってのは、頭で組み立てることじゃない」
一拍。
「生きた瞬間を捨ててまで、設計に逃げるな」
空気が、少し変わる。
今度はアドラー科の何人かが、視線を上げた。
教官は、どちらの流派にも肩入れしない。
その時だった。
実習室後方の扉が、開く。
数人が、反射的に振り向いた。
入ってきたのは、一人の男子生徒。
二年。
黒髪。
眠そうな目。
なのに、入ってきた瞬間だけ、教室の空気が変わった。
「……雨宮か」
教官の声。
教室が、わずかに静まる。
「空きコマです」
気の抜けた声。
「なら静かに見てろ」
雨宮律。
二年。
マイズナー科主席。
学院ランキング現二位。
なのに。
見た目は、驚くほど普通だった。
神代みたいな圧がない。
立っているだけ。
それだけなのに、視線が吸われる。
空野は、妙な感覚を覚えた。
見られている。
神代とは違う。
もっと静かで、逃げ場のない視線だった。
「うわ、終わった」
水城が、小さく呟く。
「知ってんのか?」
「知ってるも何も、有名人だし」
水城は、ひそひそ声になる。
「マイズナー科のトップ。しかも、めちゃくちゃ怖い」
「怖そうには見えないけど」
「いや、怒鳴ったりはしないんだけどさ」
水城は、少し笑う。
「“見えてる感”がヤバいんだよ」
その時。
教室前方。
神代が、ほんの僅かに視線を上げた。
雨宮を見る。
数秒。
それだけ。
だが、空野は気づく。
神代が、“相手を測る目”をしている。
雨宮は、その視線に気づいているはずなのに、何も返さない。
壁にもたれたまま。
眠そうな顔のまま。
ただ、教室を見ていた。
⸻
開始の合図。
教官が、一度、手を叩く。
テーマは、“再会”。
空野は椅子へ座る。
水城は立ったまま、こちらを見ている。
沈黙。
最初の沈黙は、いつも怖い。
空野は、水城の靴を見る。
古いスニーカー。
右だけ、泥が薄く残っている。
昨日まで、雨だった。
その情報が、引っかかる。
胸の奥に、小さな熱が灯る。
待たない。
選ぶ。
息を一つ、整える。
「……走ってきた?」
水城の眉が、わずかに動く。
「え?」
「靴」
一拍。
「泥ついてる」
空気が止まる。
教室の何人かが、顔を上げた。
水城が、少し笑う。
「見てたんだ」
返ってきた。
空野は、続ける。
「遅れると思った」
「遅れたら、帰るつもりだった?」
水城は、少し楽しそうだった。
「分からない」
選んだ。
昨日までなら、“待ってた”と言っていた。
今日は違う。
“分からない”を置く。
言葉を。
間を。
目線を。
選ぶ。
水城の空気が、少し変わる。
「……お前、今日なんか違うな」
笑う。
でも、その目だけが少し真剣だった。
「昨日より、ちゃんと見てる」
その瞬間。
空野は、初めて分かった。
場が、自分へ傾いた。
観客席の空気が、前に来る。
見られている。
昨日と同じ感覚。
でも、今回は、自分で動かした。
胸の奥が、静かに燃える。
いける。
そう思った時だった。
「違う」
声。
小さい。
なのに、全員が聞いた。
後方。
雨宮律だった。
壁にもたれたまま、水城を見ている。
「水城」
静かな声。
「お前、“返した”な」
水城の肩が、止まる。
「空野に」
雨宮は、ゆっくり言う。
「見られたから、返した」
一拍。
「でも、それ、お前が動いただけだろ」
教室が静まり返る。
空野は、意味を理解できない。
だが、水城の顔色だけが変わった。
「……あー」
水城が、頭をかく。
「はい。やっちゃいました」
妙に素直だった。
「空野がちゃんと見てきたから、つい返したくなりました」
教室の何人かが、目を丸くする。
怒られている空気なのに、水城だけ妙に軽い。
「でも、ダメなんすよね」
雨宮は、否定しない。
ただ見ている。
水城は、困ったように笑った。
「いやー、毎回これ言われるんですよ。楽しくなると、すぐ自分が前に出るって」
空野の背筋に、冷たいものが走る。
神代とは違う。
この人間は、支配していない。
なのに。
全部、見えている。
「マイズナーは、“反応する技術”じゃない」
雨宮が、初めて空野を見る。
「相手から、目を逸らさない技術だ」
教室が静まる。
神代が、僅かに視線を上げる。
初めてだった。
彼女が、“誰かの言葉を聞いた”ように見えたのは。
雨宮は、それ以上何も言わない。
壁から身体を離す。
「……失礼しました」
気の抜けた声のまま、扉へ向かう。
誰も引き止めない。
扉が閉まる。
教室の空気が張り詰めたまま。
数秒後、パン、パン。手を叩く音が聞こえた。
「次の組は、早くステージに立て。」
⸻
空野は、自分の手を見る。
少しだけ、震えている。
悔しさじゃない。
恐怖でもない。
もっと別の感覚。
昨日、自分は“選べなかった”。
今日、自分で“選んだ”と思った。
でも。
今の雨宮は、それすら見抜いた。
遠い。
神代も。
雨宮も。
でも。
昨日とは違った。
少なくとも、自分で動こうとはした。




