第一話 主導権
簡易ステージ。
白い床に、リノリウムの傷が走っている。
椅子が二つ。
間隔は、二歩半。
次の校内公演。
主演枠は、まだ空いている。
空野透は、そこに一度も立てていない。
「即興。テーマは『裏切り』。どちらからでもいい。自由に始めて」
教官の手が、一度だけ鳴る。
開始の合図。
全員の背筋が揃う。
観客席の三十人が、同時に呼吸を浅くした。
空野は、紙を一瞥しただけで前に出た。
向かいには、神代綾。
その名が意識に上っただけで、客席の空気がわずかに変わる。
目が合う。
――来る。
空野の中で、何かが息を潜める。
胸の奥が、じわりと熱い。
今日は、近い。
「……どうして、黙ってたの」
先に踏み込む。
声が震える。
作った震えじゃない。
胸が勝手に締め付けられる。
入った。
観ている側の空気が、わずかに前に傾く。
――乗った。
「言えなかった」
神代の声は、低くて、静かだった。
何を考えているのか、分からない。
でも、
引きずり込まれる。
冷たい温度が、流れ込んでくる。
「……なんでだよ」
怒りが湧く。
足が前に出る。
止まらない。
「信じてたのに!」
声が割れる。
呼吸が荒くなる。
観客席の誰かが、息を呑んだ。
――乗った。
ここからだ。
そう思った瞬間。
神代が、何もしない。
動かない。
受けない。
返さない。
差し出した熱が、行き場を失う。
足元に落ちる。
リズムが、一拍で狂う。
自分の呼吸の音だけが、やけに大きい。
「……信じてた?」
神代が、ゆっくり繰り返す。
声が変わっている。
柔らかい。
怒っていない。
方向が、変わる。
空野の中の感情が、宙に浮く。
どれを選べばいい。
分からない。
「あなたは、何を信じてたの?」
逃げ場がない。
空野の口が、開く。
「……俺は……」
続かない。
言葉が、出てこない。
観客席が静まる。
――違う。
視線が、外れていく。
ひとつ。
またひとつ。
神代へ、集まる。
舞台の重心が、ゆっくりと彼女へ移る。
神代は一歩、近づく。
ヒールの音が、一度だけ響く。
「私は、あなたを信じていない」
一拍。
「最初から」
断言。
空気が切り替わる。
完全に。
「だから裏切られても、何も思わない」
嘘だと、空野には分かる。
でも。
神代は、そう在ると決めている。
その強さに、誰も逆らえない。
場が、神代のものになる。
空野は、立っているだけだった。
手の置き場が分からない。
足の置き場が分からない。
立っているだけなのに。
舞台の上から、落ちていく。
⸻
教官の手が、二度鳴る。
終了の合図だった。
「……終わり」
数秒、誰も動かない。
遅れて、拍手。
そのほとんどが、神代に向いていた。
「空野」
評価は短い。
「いい入りだった」
一拍。
「だが、主導権を一度も取れていない」
喉が詰まる。
「相手に乗せられているだけだ。外された瞬間、止まった」
何も言えない。
「神代」
彼女は前を見る。
「選択が早い。意図も明確。」
頷き。
「場を取ったな」
空野には、それが何を意味するのか分かっていた。
⸻
廊下。
蛍光灯が一本、かすかに点滅している。
空野は壁に背をつけた。
息が荒い。
悔しい。
途中までは、確かにあった。
観客の視線も。
空気も。
なのに、
「――止まったでしょう」
声。
振り向くと、神代がいる。
「……お前が、変えた」
「ええ」
迷いなく頷く。
「あなたが怒る流れに入ったから、外した」
「その方が、崩れるから」
言葉が刺さる。
「あなたは選んでいない」
神代の目は、まっすぐだ。
「だから、選択を奪えば終わる」
図星だった。
「……じゃあ、お前は正しいのかよ」
絞り出す。
「全部、作って」
神代は、わずかに間を置く。
「正しいかは、関係ない」
一歩、近づく。
「成立するかどうかよ」
言い切る。
「あなたは感じてるだけ。 私は選んでいる。」
その差は、さっき見せられた通りだった。
「どっちが残るか、分かるでしょう?」
神代は去る。
空野は拳を握る。
爪が、掌に食い込む。
震えている。
悔しい。
惨めだ。
でも、
その奥に、わずかな芯がある。
「……次は」
小さく、呟く。
――次は、俺が選ぶ。
それは初めて、自分で掴んだ言葉だった。




