第十三話 呼ぶ
翌日。
第一実習棟、二階。
休み時間。
自販機の前。
空野は缶コーヒーを買おうとして、財布を開けていた。
百円玉が足りない。
ポケットを探る。
「あ、それ、百円足りないやつ?」
声が横から来た。
「あ、はい」
「貸す貸す」
百円玉が、自分のすぐ前に差し出されていた。
空野が顔を上げる。
三津井いずみだった。
Aブロックのオーディションで、最初に床を湿らせた人。
近くで見ると、思っていたよりずいぶん小さい。
ガラス越しでは、もっと大きく見えていた。
「いやでも」
「いいから、遠慮しないで」
「俺、後で買いますよ、どうぞ」
「いい、いい。私、別に自販機で何か買いたいわけじゃないし」
「は」
「お話をしに来たの」
⸻
空野は、しばらく、その手を見ていた。
それから、ようやく百円玉を受け取った。
自販機に入れる。
落ちてきた缶コーヒーを、取り出す。
「……いただきます」
「うん」
「……どうも」
「ねえ、空野くんね?」
「あ、はい」
「空野くんって、呼んでもいい?」
「あ、もちろん」
「ありがと」
⸻
そこで、三津井は、空野の右腕を、ぽん、と叩いた。
挨拶の延長くらいの叩き方だった。
ただ、空野には、その触り方が、新しかった。
宗近も神代も、こういう触り方はしない。
「先輩」
「うん」
「俺に、何か」
「あー、堅いね」
「いや」
「いいよ、肩抜いて」
「……」
「襲いに来たわけじゃないから」
三津井は、笑った。
声を出して、笑った。
笑い方が、廊下に、普通に響いた。
⸻
ひとしきり笑い終わった後、三津井は真っ直ぐ向いて、
「昨日さ」
「はい」
「D-3」
「……」
「立ってたよね、三人で」
三津井の言葉に、空野は、少し戸惑った。
「……はい」
「私、扉の前、いた」
「……」
「ごめんね。のぞくつもり、なかったんだよ」
「……あ、はい」
「たまたま通ってさ、中の音、しないから」
「はい」
「空いてるかな、って」
「あー」
空野はなるほどと思い、少しはにかんだ。
「扉に手、かけそうになった」
「……」
「でも、人がいる気配だけ、あったのよ」
「はい」
「だからやめたの。やめて、行こうとしたら」
「はい」
「足、止まったの」
「……止まった」
「うん。五分くらい」
「……そうだったんですね」
「あ、やっぱり気づいてた?」
三津井は、また笑った。
「気持ち悪い覗き方しちゃったね、ごめん」
「いえ」
「いえ、じゃないって。怒っていいのよ、ほんとに」
「怒ってないです」
「優しいね」
⸻
しばらく、二人とも、何も買わずに、自販機の前に立っていた。
廊下の向こうから、誰かが走っていく音がする。
「ねえ」
「はい」
「あなたたち、感情、呼んでなかったでしょ」
「……」
「分かる?」
「……半分くらい」
「半分?」
「言葉、半分、わかります」
「ああ、そっか、まだ習ってないか」
「感情記憶、ですよね」
「うん」
「習ってないです」
「教わらなくても、出る子は、出るのよ」
「……」
「あなた、出ない子?」
「……出ないと、思います」
「うん」
「出ないのに、立ってたよね」
「……」
「で、私、立てなくなった」
空野は、三津井の顔を見た。
立てなくなった、と言ったときの、三津井の目は、笑っていなかった。
笑いの形だけが、口に残っていた。
「先輩、立てない、んですか」
「立てなくなる、ことがある」
「……」
「私さ、ずっと、自分の中から呼んで、立ってきたの」
「呼ぶ」
「うん、呼ぶ」
「……何を」
「悲しいのとか。楽しいのとか」
「呼ぶ、ですか」
「うん。源、自分の中に、用意してて」
「……源」
「そ。常にあるっていうか」
「……」
「で、呼んだら、出る」
「……」
「あなたたち、何にも、呼んでなかったでしょう」
「……俺、呼び方、知らないので」
「うん」
「知らないのに、立ってた」
「立てて、ましたか」
「立ってたよ。三人とも」
「……」
「だから、私、立てなくなったの」
「……え、あ、すいません」
「いやいや謝らないで。違うのよ」
「違う?」
「あれ、私が見たことない立ち方だった」
「……」
「私の源と、関係ないところで立ってた」
⸻
ここで、三津井は、ふっと息を吐いた。
ため息に似ていた。
ただ、よく聞くと、ため息より、ほんの少しだけ、長かった。
「……あのね、空野くん」
「はい」
「私ね、東北出身なの」
「……東北」
「うん」
「出身、ですか」
「うん。消してるのよ」
「消してる?」
「なまり」
「……あ」
「分かる?」
「分かんないです、いまの先輩から」
「だよね、消してるから」
「……」
「子役のとき、毎回、現場で、言われてた」
「何を、ですか」
「『今日いっこ多いよ』」
「いっこ」
「うん。なまりの、数」
「数、ですか」
「うん。台詞のなかに、なまりが何個出てるか」
「……」
「三個までは、現場で、直してもらえる」
「うん」
「四個、五個、出ると」
「四個」
「うん。その日、きつくなるんだ」
「きつく?」
「次、呼ばれなくなっちゃうの」
「……」
「うちさ、お金、なかったのよね」
⸻
三津井は、また笑った。
笑った、というよりは、笑顔の形を、口に置いた。
「だから、仕事出来なくなるの、こわかったんだ」
「……」
「七歳のときから」
「うん」
「自分のなまり、消す訓練、勝手にしてた」
「勝手に」
「うん。誰も、教えてくれないから」
「……」
「鏡見て、舌の位置直して、息の出し方変えて」
「はい」
「そしたらね」
「……」
「なまりが、消えたあと」
「はい」
「私、自分の本当の声、どっかに、いっちゃって」
「……」
「で、しょうがないから、感情で立つようにしたの」
「感情で」
「うん」
「『泣ける子』『繊細な子』」
「……」
「って、言われたら、現場、続けられるじゃん」
「うん」
「だから、感情、呼ぶ訓練、勝手にしてた」
「……」
「スタニスラフスキー、ここで習って」
「うん」
「これだったんだって、思った」
「……」
「私の、やってきたこと、これ、名前、ついてたんだ、って」
⸻
空野は、何も言えなかった。
三津井の話は、説明だった。
説明なのに、空野の中に、深く入ってきた。
声の温度が、途中から、少しだけ、下がっていたから、だと思う。
そこだけ、消し忘れたものが、残っているような声だった。
「……んだから、私、空野くんに、訊きたいわけ」
その「んだから」が、ほんの一瞬、東北の方の何かに、寄っていた。
三津井は、自分でも気づいて、すぐに、
「あ、出た」
と、笑った。
「いま、出ましたね」
「うん、たまにね、疲れると」
「……」
「ま、いっか」
三津井は、首を、軽く回した。
⸻
「で、ね」
「はい」
「あの稽古、教えてくれない?」
「……俺、教える側じゃ、ないですよ」
「うんうん、わかってる」
「あれ、宗近のです」
「宗近さん?」
「古典科の、一年の」
「あ、能の」
「はい」
「私、入れる?」
「……入れると、思います」
「ほんと?」
「宗近に、訊いてからで、いいですか」
「うんうん、もちろん」
「あと、神代にも」
「あ、神代さんも、いるんだ」
「……はい」
「神代さんも、なんか来そうな感じしないけど、来てるんだ」
「はい」
「ふうん」
三津井は、少し考えた。
「面白い、組み合わせね」
「……はい」
「お願いね、空野くん」
そう言って、三津井は、また、空野の腕を、ぽん、と叩いた。
二度目の、ぽんは、一度目より、少しだけ、強かった。
⸻
「あ、私もコーヒー、買おっかな、結局」
「あ、はい」
「百円、貸して」
「……俺さっき、なかったからもらったわけで、、、」
「あ、そうだった」
三津井は、ぱっと笑った。
「ま、いいか。次、奢ってくれたら」
「いつですか」
「能、見せてもらった日」
「……」
「冗談、半分ね」
三津井は、自分の財布から、別の百円玉を出して、自販機に入れた。
ボタンを押す。
缶が落ちてくる。
その音を聞きながら、三津井は、空野の方を、もう一度、見た。
「あなた、面白い人だね」
「……いえ、別に」
「ねえ、面白い人、すぐ、別にって言うのよ」
笑いながら、廊下を、歩いていった。
歩き方が、自然な人の自然な歩き方だった。
ただ、姿勢は、空野や水城の歩き方とは、明らかに、別格だった。
訓練、と分かる歩き方では、ない。
訓練が、長年使われすぎて、もう、本人の歩き方になっている、歩き方だった。
⸻
その日の夕方。
D-3。
空野は、宗近と神代に、三津井のことを話した。
「いいですよ」
宗近が即答した。
「お前、いいの?」
「お稽古ですので」
「……うん」
神代は、しばらく答えなかった。
それから、
「明日は、二人で」
と、言った。
「明後日から、四人で」
「うん」
⸻
その夜。
空野は、寮のベッドの上で、三津井の話を、思い出していた。
なまりを消した、と三津井は言った。
消すために、感情で立つようにした、と。
そのやり方が、長年続いて、今では、それ以外の立ち方ができなくなっている。
ぜんぜん、違う。
空野は思った。
何が、ぜんぜん違うのかは、まだ、上手く言えなかった。
ただ、三津井の「呼ぶ」は、神代の「合わせる」とも、宗近の「型」とも、形が、ぜんぜん違う。
人がそれぞれ、ぜんぜん違うものを抱えて、ここに来ているのだ、ということが、空野には、初めて、はっきりとした。
胸の奥が、温かい、というよりは、少しだけ、ざらついていた。
ざらつき方が、悪い感じでは、なかった。
ただ、自分の知っている肌触りでは、なかった。
「面白い人」と、三津井は、言った。
それが、まだ、よくわからない。
わからないまま、空野は、目を、閉じた。




