第十四話 間
D-3。
十六時まで、あと、二分。
空野は、靴を脱いで、リノリウムの上に立っていた。
扉が開く。
神代だった。
入ってきた神代は、いつもと同じ服だった。
フラットな靴を脱いで、ストッキングのまま立つ。
立つ動作も、いつも通りだった。
「……」
「……」
二人とも、まずは何も言わなかった。
⸻
「今日は二人ね」
神代が、ようやく言った。
「うん」
「明日からは、四人」
「うん」
少しの沈黙。
何かを始める前の、ふつうの沈黙だった。
ただ、今日のその沈黙は、少しだけ長かった。
⸻
「歩く?」
空野が訊いた。
「歩く……いや、」
神代が答えた。
「どうした?」
「うん」
「立つだけ?」
「……立つだけでもない」
「じゃあ、何」
神代は、少し考えた。
それから、
「座るわ」
と、言った。
「座る、って」
「リノリウムの上に」
「座って、何するの」
「分からない」
「……分からない、けど、座る」
「うん」
空野は、しばらく、神代の方を見ていた。
それから、ゆっくり、リノリウムの上に座った。
ストッキングのままの神代も、座った。
二歩半の距離は、変わらなかった。
ただ、座ると、その距離が、立っているときとは、別物に見えた。
⸻
しばらく、二人とも、何も言わなかった。
リノリウムの冷たさが、座った瞬間は強かった。
そのうち、慣れた。
「神代」
空野が、口を開いた。
「うん」
「今日、何で、座るの」
「分からない」
「分からないって」
「分からない、けど、座りたかったの」
「……」
「歩いて、立って、それはもう結構やったから」
「うん」
「今日くらい、何にもしないでいる時間、あってもいいかな、って」
「……」
「変?」
「変じゃない、、、ね」
神代は、自分の膝を、軽く、抱えた。
抱えた、というほど、しっかりではなかった。
軽く、手を、回しただけ。
抱える、の、手前くらいの動作だった。
空野は、自分の足を、前に投げ出していた。
その足の親指が、リノリウムの上で、ぴくっと動いた。
噛もうとして、すぐ、忘れた。
⸻
「ねえ」
神代が、訊いた。
「うん」
「あなた、何で、ここ来たの」
「ここ?」
「うん。鳴宮」
「……」
「べつに、答えなくていい」
「いや」
空野は、少し、考えた。
考えながら、自分が、すぐに答えられないことに、気づいた。
「分かんない」
「分かんない?」
「ちゃんと、答えられないかな」
「ふうん」
「お前は理由あるの?」
「私?」
「うん」
「……あるけど、普通よ」
「聞きたい」
⸻
神代は、少し、足の角度を、変えた。
「父が、芝居の人なの」
「……あ」
「で、最初は芝居が嫌だったわ」
「うん」
「やりたくなかった」
「……」
「やりたくないから、やってみたっていう感じ」
「ん?」
「逆なのよ」
「逆だと、来ちゃうの?」
「来ちゃったわね」
⸻
しばらく、また、沈黙。
リノリウムの上で、二人とも、座っているだけだった。
空野は、足の親指を、もう一度、ぴくっと動かした。
今度は、噛もうとして、ちゃんと、止めた。
止めるのを、覚えていた。
「俺、たぶん」
空野が、ぽつり、と、言った。
「うん」
「来る理由はなかった」
「ない、って」
「やりたいって気持ちも、特になかった」
「……」
「ただ、何も、なかったから」
「何もなかったから、来たの?」
「うん」
「家、出たかったとかもない?」
「ない、と思う」
「ふうん」
神代は、しばらく、考えた。
「それ、たぶん難しいよ」
「難しい?」
「うん。なんで来たか分からないって、後々来るわよ」
「……来るって?」
「重みになってくるのよ。私の父は、それをずっと言ってたわ」
「お父さん?」
「やりたくて来てる人と、やる理由なくて来てる人、違うの。って」
「……」
「私、やりたくて来てない」
「お前も?」
「うん」
「逆だから?」
「そ、逆だから」
空野は、少し笑った。
笑ってから、笑ったことに、自分でも、驚いた。
神代も、少し笑った。
声を出さない笑いだった。
ただ、口の端が、ほんの少し、上がっただけ。
⸻
「明日からは四人」
神代が、また、言った。
「うん」
「四人になったら、たぶん、ちょっと、忘れるわね」
「忘れる?」
「ええ。二人だったときの、こういうの」
「……」
「だから、今日は座っただけ」
「うん」
「変じゃない?」
「変じゃない」
⸻
二人とも、しばらく、何も言わなかった。
リノリウムの冷たさは、もう、ほとんど、感じなかった。
「……そろそろ、立つ?」
「立つ」
二人、立ち上がる。
立ち上がる動作が、普段の稽古の、立ち上がる動作とは、少しだけ、違った。
立ってから、何かを、するための、立ち方ではなかった。
ただ、座っていたから、立った、というだけの、立ち方だった。
「明日も」
神代が、靴を履きながら、言った。
「うん」
「四人で」
「うん」
「変なことしても、許してね」
「変なこと?」
「うん」
「お前が?」
「うん。たぶん、するわ」
「……分かった」
神代は、扉を開けて出ていった。
ヒールではないフラットな靴で。
その靴の音がいつもの神代の音とは、明らかに別の音だった。
空野はひとりでリノリウムの上に、立っていた。
立っているだけ、だった。
座って、しばらく立たないというのが、今日の二人の唯一の稽古だった。
それだけだったのに、空野の中には、何か、残っていた。
何が残ったのかは、はっきり言えなかった。
ただ、今日神代が座ると言った瞬間のことを、思い出していた。
座る、というのは稽古の言葉ではない。
普通の言葉、だった。
普通の言葉を、稽古場で聞いたということが、空野の中に残ったのかもしれなかった。
廊下に出る。
夕方の光が、まだ低く入っていた。
空野は、廊下を歩いた。
歩きながら、明日から四人になるということを考えていた。
考えながら、今日座っていた、二人のことも思い出していた。
座って何もしなかったその時間が、今日のいちばん長い時間だった、と思った。
長いのに、足りなかった。
足りなかった、というのが自分でも意外だった。




