トトリ村
背後では、まだ天使の絶叫とオルドヴァクシスの嘲笑が続いていた。
「主よ……! 主よ! お助けを! アアアッ!」
天使の壊れた声が聞こえた気がした。だが、私は一度も振り返らなかった。振り返れば捕らえられてしまう。
私は割れた空間の裂け目に向かって、全身の力を振り絞って飛び込んだ。
◈
ドスン、と激しい衝撃とともに、全身に痛みが走った。
「あ……が……ッ」
激しい咳込みとともに泥と埃を吸い込み、私は床の上に転がった。
視界を覆っていた眩い白と不快な黄色が消え去り、そこにあったのは──聞き覚えのある、木ネジの軋む音と、古びた紙と革の匂いだった。
薄暗い部屋。傾いた棚。使い古された製本工具。
私が奪われ、二度と戻れないと思っていた、街にある私の小さな自室だった。
「も、戻った……?」
私は震える手で床を撫でた。冷たい大理石ではなく、使い込まれた温かなオーク材の板間だった。
しかし、安らぎに浸る猶予などなかった。
部屋の隅、空間の隙間から、今なお微かに届いてくるのだ。あのオルドヴァクシスの狂気に満ちた笑い声と、翼をもぎ取られた天使の、世にも恐ろしい絶叫の残響が。それは空間を超え、私の耳の奥、脳の深層に直接刺ささって響いていた。
(逃げなきゃ……遠くへ……! あいつらが追ってくる前に!)
天使が死んだのか、それとも生き残ったのかは分からない。オルドヴァクシスが私を追ってくるかも分からない。だが、一つだけ確かなのは、この街に留まれば、私は再びあの怪物たちの渦の中に巻き込まれるということだ。
私は這うようにして寝台へ向かい、その下へと手を突っ込んだ。
指先に触れたのは、小さな革の袋だった。私が万が一のために隠しておいた財産のすべてだ。
私はそれを強く握りしめると、履物すらまともに履かず、着の身着のままで扉を押し開けた。
アレリアの街は、朝日が昇り始めたところだった。
爽やかな朝の空気が頬を撫でる。市場の準備をする商人たちや、清掃をする街の人々の姿が見えた。
私が青ざめた顔で、乱れた服のまま路地を脱兎のごとく駆け抜けていくと、人々は一斉に足を止め、不気味なものを見るような、奇異な目を私に向けた。
「なんだ、あの娘は……」「どこかで見たような……いや、知らん顔だな」「正気じゃないぞ、追剥にでも遭ったのか?」
口々に囁かれる声。彼らの記憶から、私の存在は消されている。彼らにとって、私はただの「見知らぬ狂った娘」に過ぎないのだ。
だが、今の私にとってそれは幸いだった。誰も私を引き留めない。誰も私の名を呼ばない。
私は後ろを振り向くこともなく、ただひたすら走り続けた。
心覚える限り、最も遠くへ。怪物たちの声が、黄色い羽音が聞こえなくなるところまで。
息が切れ、肺が焼け付くような痛みを覚えても、脚を止めなかった。
街の外縁にある、他国へ向かう乗合馬車の発着場へと滑り込む。
丁度、一台の大型馬車が御者台の鈴を鳴らし、出発しようとしているところだった。
「待って! 待ってください!」
私は悲鳴のような声を上げ、馬車の側木に取りすがった。
驚いた御者が手綱を引く。
「な、なんだお嬢さん! 危ないじゃないか!」
「乗せて……乗せてください! お金ならあります!」
私は震える手で革袋から数枚の銀貨を掴み取り、御者の膝の上に叩きつけるように押し付けた。
「国境まで!」
私の狂迫的な態勢に御者は気圧されたようだったが、差し出された銀貨の重みを確認すると、深く帽子をかぶり直して頷いた。
「……いいだろう、乗りな」
私は逃げるように馬車の客席へ飛び込み、暗い車内の隅に丸くなった。
パシィン! と鞭の音が響き、馬車がガタゴトと音を立てて動き出す。
車窓の外を、慣れ親しんだアウレリアの街並みがゆっくりと後ろへ去っていく。私が生まれ育ち、そしてすべてを失った街。
馬車が加速し、街の門をくぐり抜けた時、私はようやく小さく息を吐き出した。
(助かった……逃げ出せたんだ……)
胸に手を当て、安堵の涙を零そうとした──その時だった。
──クハハハハハ……!
──ドミティラ……私の……私の愛しいドミティラ……!
「ヒッ……!?」
私は両耳を固く塞ぎ、頭を抱え込んだ。
聞こえるはずがないのだ。馬車はすでにアレリアから離れ、街道を猛スピードで駆け抜けている。
しかし、私の脳裏の暗闇から、あのオルドヴァクシスの狂気的な嘲笑と、天使の壊れた鐘のような悲痛な絶叫が、今なおはっきりと、鮮明に響いてくるようだった。
それは外部からの音ではない。
あの凄惨な光景を目撃した私の魂に、深く刻み込まれてしまった呪いの残響だった。耳を塞いでも、叫んでも、その声は私の内側から消え去ってはくれなかった。
◈
それからの毎日は、目まぐるしく、そして狂おしい流転の日々だった。
私は自分の本当の名前「ドミティラ」を封印した。自分の素性を隠し、髪を短く切り揃え、泥で顔を汚し、街から街へ、村から村へとあてもなく流れていった。
一つの場所に一日以上留まることはしなかった。
宿をとる時も偽名を使い、常に人の気配に怯え、夜は小さなナイフを抱きしめて眠った。黄色い服を着た人間を見かけるだけで動悸が激しくなり、羽ばたく鳩の音を聞くだけで物陰に隠れた。
なぜ、これほどまでに遠くへ逃げ続けなければならなかったのか。
それは、私がかつて製本工房で修復した、一冊の古い異端書──『神聖階位と領域権能論』に書かれていた記述を覚えていたからだった。
『……天使といえど、その権能は絶対にあらず。天使にはそれぞれ、神より与えられた『管轄領域』が存在する。その領域内において天使の力は神と同等を意味するが、管轄の外へ脱し、さらに数十の境を隔てた地においては、その権能の干渉は極めて希薄となる……』
天使にも、手が出せる限界の距離がある。
あいつがもし生きているのなら、私の匂いを追って必ずやってくる。オルドヴァクシスという悪魔も、私をどのような目的で利用したのか分からない以上、安全とは言えない。
だから、逃げるのだ。彼らの追跡が届かない、果てまで。
一国を越え、二国を越えた。
山を越え、海を渡り、言語や文化が変わる国境を、私はがむしゃらに跨ぎ続けた。
着ている服はボロボロになり、肌は荒れ、体は痩せ細った。
昼は通りがかりの農家で雑用を手伝ってパン屑をもらい、夜は馬小屋や洞窟で暖をとった。頭の中の「残響」は、日を追うごとに少しずつ小さくなっていったが、完全に消えることはなかった。
そうして、途方のない逃亡劇を続けて──。
アレリアを出てから、実に二十もの国境を越えた先。
私は、世界の果てに位置する、ある場所に辿り着いていた。
「トトリ村」
それが、その小さな村の名だった。
周囲を険しい山々に囲まれ、年に数回しか行商が訪れないような、辺境の極みにある、地図にも載らぬような貧しい村。
近くには「ロア」という、巨大な大聖堂を擁する比較的大きな街が存在していたが、このトトリ村自体は、時代の流れから完全に取り残された、泥と藁の匂いがするだけのド田舎だった。
私は村の入口にある枯れた井戸の縁に座り込み、乾いた息を吐いた。
ポケットの中に差し入れた手。
革袋の底を探っても、指に触れるのは硬貨の感触ではなく、ただの布切れの感触だけだった。
アレリアから持ち出したお金は、二十の国を越える旅の中で、すべて尽きていた。最後の一枚の銅貨も、今朝、トトリ村へ向かう途中のパン屋で使い切ってしまった。
もう、どこへも行けない。
これ以上、逃げるための足も、食べ物を買うお金もない。
私は疲れ切った足を見つめた。靴底は擦り切れ、爪は割れ、血と泥で黒く汚れていた。
だが、不思議と絶望はなかった。
見上げれば、夕暮れの空が広がっていた。
アレリアで見たあの禍々しい黄色い光でも、聖域の白亜の天井でもない。どこまでも深く、澄んだ、本来の紫と茜色が混ざり合う、美しい世界の空。
二十の国境を隔てたこの最果ての地なら。
この、名前すらまともに知られていない貧しいトトリ村なら。
あの黄色い翼の天使も、影から現れた悪魔も、私を見つけることはできないかもしれない。
私は乾いた唇を舐め、ゆっくりと立ち上がった。
お金はない。身寄りもない。残されたのは、傷ついた肉体と、消えないトラウマだけ。
それでも──私は生きていた。自分の足で立ち、自分の呼吸で、この冷たい空気を吸い込んでいる。
「ここが……私の新しい居場所ね」
小さく呟き、私は村の唯一の細い泥道へと、一歩を踏み出した。
命をかけた逃亡劇の終わりと、泥に塗れた新しい生存の物語が、この最果ての地で静かに始まろうとしていた。




