血塗られた翼
胸の奥で、心臓が狂った太鼓のように打ち鳴らされていた。
手足の先から温もりが引き去られ、冷たい汗が背筋を伝い落ちる。私は膝を抱えた姿勢のまま、かろうじて息をひそめた。スカートの裾を大きく広げ、大理石の床に刺さった黒いナイフと、そこから滲み出しつつある禍々しい紋様を必死で隠す。
(落ち着け……悟られてはいけない……顔に出してはダメ……)
自分に何度も言い聞かせながら、私はゆっくりと顔を上げた。
そこには、頭上の黄色い光を背負い、あまりにも完璧な容姿をした天使が浮遊していた。二つの巨大な黄色い翼が緩やかに揺れ、そこから落ちる金色の粉塵が空気を不快に揺らしている。彼の万物を映す硝子玉のような瞳が、じっと私を見つめていた。
「ドミティラ? 何か様子が違いますね……心が、酷く乱れているようだ」
その声はどこまでも平坦で、慈愛に満ちていた。彼にとっては、私がどれほど怯え、苦しんでいても、それはすべて「可哀想な小鳥の震え」に過ぎないのだ。
彼が静かに地上へと降り立つ。足音が打たない。その爪先が床に触れる前に、私は息を呑み、あえて弱々しく彼を見上げ、胸元に手を添えた。
「……違わないわ」
掠れた声を絞り出す。私は彼の目をまっすぐに見つめた。視線を逸らせば、彼の鋭い直感が私の足元へ向かってしまう。彼の注意を、私という存在そのものに縛り付けなければならなかった。
「私……ただ、恐ろしかったの。あなたが急にいなくなってしまうから……」
嘘だった。喉が焼き切れるほどの嫌悪感が込み上げたが、私は必死で表情を押し殺し、瞳に涙を浮かべてみせた。オルドヴァクシスの言葉が頭の中で反芻される。──あいつは、君が求めるほど、自分が広大な善であると信じ込んで歓喜する。
案の定、天使の完璧な顔に、恍惚とした微睡みが広がった。彼の硝子玉の瞳の奥に、怪しい熱が灯る。
「おお……ドミティラ。ついに、私を求めてくれるようになったのですね。そうです、私はいつでも君のそばにいます。君を脅かすあらゆる毒から、守り続けてあげますとも」
天使は一歩、踏み出してきた。
その優雅で重力のない足取り。彼は私との距離を詰めることに全神経を注いでおり、自分が足元に何を踏みつけようとしているのかなど、微塵も疑っていなかった。自分が「絶対の善」であり、この白亜の領域の「絶対の主」であると信じて疑わない狂気ゆえの、決定的な隙。
「さあ、もっと近くへ……」
私は囁きながら、両手をすっと壁の方へと伸ばす振りをしつつ、ゆっくりと、滑らかに体を後方へと引き去った。ナイフの柄を隠していたスカートの裾が払われ、大理石の床に刻まれた黒い亀裂が露わになる。
しかし、天使の瞳は私の顔から離れなかった。彼は私が差し伸ばした手を取ろうと、無防備にその脚を一歩、前へと踏み出した──。
その爪先が、黒いナイフが突き刺さったまさにその地点を踏み抜いた。
直後。
ズシン、と世界が底抜けたような重低音が響き渡った。
「──え?」
天使の口から、初めて「疑問」を含んだ小さな声が漏れた。
次の瞬間、床に突き刺さっていた黒いナイフから、粘濁した黒紫色の光が爆発的に噴き出した。大理石の清廉な白い床が一瞬で侵食され、巨大なクモの巣のような、禍々しい魔法陣が円環を描いて急速に広がっていく。
「な……これは……!?」
天使が翼を広げ、上空へ退避しようと羽ばたいた。だが、遅かった。
魔法陣の亀裂から、ドロリとした影の触手が何十本も飛び出し、天使の細い足首、手首、そして美しい胴体に巻き付いた。触手は光を吸収する黒い炎のように狂い咲き、天使の神聖な身体を床へと激しく引きずり落とした。
『愚かな天使め』
白い空間の「影」のすべてがぐにゃりと歪み、立ち上がった。
私の足元から伸びていた影が急速に巨大化し、その中から先ほどの男──オルドヴァクシスが姿を現す。だが、その姿はもはや人間の姿ではなかった。
彼の背中からは、漆黒の光沢を放つ巨大な四本の角が突き出し、全身は深海のような暗紫色の鱗と影の衣に包まれていた。彼の琥珀色の瞳は縦長の瞳孔へと裂け、その口元には、人間の骨を容易に噛み砕く獣のような鋭い牙が並んでいた。
オルドヴァクシス──その真の姿は、光を喰らい、神聖を嘲笑う地獄の怪物だった。
「聖なる裁断者を気取り、このような滑稽な箱庭で人形遊びとはな。まあ、嫌いではないが。甘ったるく反吐が出る」
オルドヴァクシスが踏み出すたびに、白亜の大理石が黒く腐敗し、煤けた音を立てて崩れていく。彼はのたうち回る天使の前に立つと、獰猛な笑みを深め、巨大な爪を持った手をすっと伸ばした。
「離せ! 不潔な悪魔め、私に触れるな!」
天使の平坦だった声が、初めて歪んだ。怒りと、そして信じられないという拒絶が混ざり合った金切声。彼は必死に黄色い翼を羽ばたかせ、光の刃を撒き散らそうとした。
しかし、オルドヴァクシスの影の触手はその光すらも黒い泥で塗り潰していく。
「クハハハハ! 己の欲望を『善行』と偽るお前の顔皮ほど、不潔なものがこの世にあるか! 素晴らしいじゃないか!」
オルドヴァクシスの手が、天使の背中に生えた左側の巨大な黄色い翼の根元を、ガチリと掴み取った。
「見せてみろ。その誇り高き奇蹟の皮の下にある、ただの肉と骨をな!」
オルドヴァクシスが腕に脈打つ強大な力を込め、力任せに翼を後ろへと引き絞った。
メリメリメリ、と肉が引き裂かれ、関節が破壊される恐ろしい音が響いた。
「あああ……っ!? あああああ────ッ!!!!」
天地を揺るがす悲鳴が轟いた。
それは人間の声ではなかった。巨大な青銅の古鐘が、上空から叩き落とされて破砕したかのような、耳膜を直接叩き割る狂気の鳴動。神聖な響きが破壊され、耳から脳漿へと激痛が伝波するような絶叫だった。
「ハハハハハ! 叫べ! もっと鳴け、神の走狗!」
メリ、と最後の筋が千切れ、天使の背中から片方の黄色い翼が根元から強引に毟り取られた。
激痛と衝撃に、大量の黄色い「血」──いや、輝く光の胞子が花火のように爆発し、周囲一面に撒き散らされた。舞い散る粉塵は私の皮膚に触れると、焼けた鉄のように熱く、激しい不快感をもたらした。
天使は白亜の床に突伏し、背中の傷口から光を垂れ流しながら、壊れた鐘のような悲鳴を上げ続けていた。彼の完璧だった大理石のような顔は苦悶に歪み、硝子玉の瞳からは血のような透明な液体が溢れ出していた。
「そして、もう片方だ」
「やめろぉぉぉぉ……!!」
天使が激痛のなか、惨めにも床を這い、私に向かって手を伸ばした。あの絶対的な支配者であり、私を「保護する」と宣わっていた怪物が、今や血と光に塗れている。
だが、オルドヴァクシスはその細い手首を踏みにじり、躊躇なく右側の翼にもその爪を突き立てた。
バリ、と肉と羽が同時に引きちぎられる音が響く。
「あああああああああッ!!!!」
二度目の鐘の破砕音が響き渡り、聖域の空間全体が大きく歪んだ。右側の翼も力任せにもぎ取られ、オルドヴァクシスの手によって無造作に床へと投げ捨てられた。
鮮やかで美しかったはずの二つの黄色い翼は、大理石の床に転がった瞬間から、黒い毒の渦に侵され始めた。羽の一本一本が枯れ葉のようにしおれ、ドロドロとした黒いヘドロのような物質へと変色し、腐敗した臭気を放ちながら溶けていく。
絶対の美しさの象徴だったものが、ただの汚物に変わっていく光景。
「クハハハハ! 地上を這い回る虫ケラと同等になった気分はどうだ?」
オルドヴァクシスは翼の根元から黒い煙を噴き上げてのたうち回る天使を見下ろし、狂気的な高笑いを上げた。彼の歓喜に満ちた声が、破砕された聖域の中に反響する。
私は──。
壁に背中を強く預けたまま、目を見開いてガタガタと震えることしかできなかった。
息ができない。胸が押し潰されそうだった。
私を苦しめていたあの恐ろしい天使が、目の前で玩具のように解体されている。その光景は間違いなく私にとっての「救い」であるはずなのに、そこに展開されているのは悪魔の惨虐そのものだった。
天使の叫び声、オルドヴァクシスの笑い声、飛び散る光の胞子、腐敗する羽の臭い。
過剰な刺激に頭が割れそうになり、視界が明滅する。意識が遠のき、世界が黒く塗り潰されそうになった。
(逃げなきゃ……)
私の内部で、失われていた本能が警鐘を鳴らした。
(ここにいたら……死ぬ。あの悪魔に、次は私が殺される……!)
崩壊が始まっていた。天使の力の源であった翼が破壊されたことで、この白亜の『聖域』という存在自体が保てなくなっているのだ。美しい大理石の円柱に巨大な亀裂が走り、天井の黄色い光の渦がガラガラと音を立てて崩れ落ちてくる。
私はガタガタと震える膝に鞭を打ち、四つん這いになった。
大理石の床に爪を立て、這う。意識が途絶えそうになるのを、自分の唇を強く噛み切る痛みで繋ぎ止めた。口の中に広がる生温かい血の味。
空間のあちこちに、現実の世界へ続く「歪み」の裂け目が生じていた。
私は目眩と吐き気に苛まれながら、必死で部屋の隅、空間が最も激しくひび割れている場所へと這い進んだ。




