救世主
「まあ落ち着いて。それより、知っているかい? あいつは、君が泣けば泣くほど『自分が必要とされている』って喜んでるんだ。末端のくせに、神の代行者にでもなったつもりなのさ。実に不快だろう? 殴り殺してやりたいよね?」
オルドヴァクシスの声は、甘く毒を含んでいた。
彼の言葉は、私が心の底に押し込めていた絶望と怒りの残り火を、正確に突き動かした。
(あいつは、私が泣くほどに、喜んでいる……?)
私が苦しみ、絶望し、涙を流すたびに、あの天使はそれを「自分を頼っている」「自分を求めている」と変換して、ひとりよがりの快感に浸っていたというのか。私が心を殺しかけていたのも、すべてあいつの思い通りだったというのか。
沸き立つような吐き気と、猛烈な怒りが胸の奥から突き上げてきた。
「それより逃げたいの……」
私は拳を強く握りしめ、爪が皮膚に食い込む痛みを感じながら呟いた。
「あいつがいない……どこか遠くへ……。でも、あの光の鎖、私には壊せない……」
私は天井の黄色い光の渦を見上げた。あの光が、この空間全体を縛りつけ、私の肉体と精神を捕獲しているのだ。私のようなただの人間には、あの絶対的な力に対抗する術などない。
オルドヴァクシスはくすくすと笑った。その笑い声は、闇の中で揺れる鈴の音のように妖しく響いた。
「壊さなくていいさ。縛られているのは君じゃない、あいつのプライドなんだから。あの顔を絶望で歪ませて、君の足元に這いつくばらせたくはないかい?」
「……え?」
「我が力を貸してやる」
オルドヴァクシスがそう言った瞬間、彼の広げた掌の上の影が収縮し、一振りのナイフへと姿を変えた。
それは見たこともないような凶器だった。刃は光を一切反射しない漆黒の金属でできており、柄には複雑なルーン文字のような刻印が彫られている。刃先からは、冷ややかな黒い煙のようなものがかすかに立ち上っていた。
「このナイフを地面に刺し、立ちふさがって体で隠せ。重要なのは、あいつを誘惑しながら、目を離させずに、君は壁際まで下がっていくことだ。どうだい? できるかい?」
オルドヴァクシスは身を乗り出し、私にナイフの柄を差し出した。彼の琥珀色の瞳が、妖しく私を覗き込む。
私は差し出されたナイフと、オルドヴァクシスの顔を交互に見つめた。
(あいつを、誘惑する……? 目を離させずに、壁際へ下がる……?)
意味が分からなかった。なぜナイフを床に刺すのか。なぜあいつを誘惑しなければならないのか。これを実行すれば何が起きるのか、オルドヴァクシスの意図は何も見えなかった。
これは救いなのか?
それとも、天使の地獄から、さらに深い地獄へと落ちるための罠なのか?
「それだけで……いいの?」
私の声は震えていた。
「ああ、実に簡単だろ? 可哀想な君の為に、全力で力を貸しているんだ。だから簡単に思えるのさ」
オルドヴァクシスは完璧な笑みを浮かべ、私の手にナイフの柄を押し付けた。
刃を通じて、氷のように冷たい感触が手首を駆け昇る。それは恐ろしい感触だったが、同時に、ずっと麻痺していた私の意識を覚醒させるには十分すぎるほどの刺激だった。
「……選択の余地なんて、最初から私にはないのね」
私は小さく呟いた。
天使に従い、心を殺して人形になるか。
それとも、目の前の怪しい男の手を取り、破滅かもしれない賭けに出るか。
答えは決まっていた。たとえこの先に待っているのが死であったとしても、私はあいつの「可愛い小鳥」として死ぬことだけは嫌だった。私の意志で、私の足で、地獄の底へ踏み出す方が、ずっとマシだ。
「……分かったわ。やるわ」
「ああ! 素晴らしい! 素晴らしいよ、ドミティラ」
オルドヴァクシスは嬉しそうに、すっと息を呑むような速さで私の影へと溶けて消えた。
「健闘を祈るよ。あいつの顔が歪む時を、見せてもらうからね」
声だけが耳元で囁かれ、そして完全に気配が消えた。
◈
広大な白亜の部屋に、再び私一人だけが残された。
手に握られた漆黒のナイフの重みが、現実であることを物語っている。
私の心臓は、壊れた鐘のように激しく鳴り響いていた。恐怖、不安、そして何より──長い間忘れていた「希望」と「不純な殺意」が混ぜ合わさった熱い血が、全身を駆け巡っていた。
(落ち着いて……ドミティラ、落ち着くのよ)
私は息を整え、オルドヴァクシスに言われた通りの手順を頭の中で反芻した。
ナイフを地面に刺す。
自分の体でそれを覆い隠す。
天使が来たら、彼を私に惹きつけ、目を逸らさせないようにしながら、ゆっくりと壁際へ下がる。
私は膝をつき、両手で黒いナイフの柄を握りしめた。
そして、大理石の床に向かって、全体重をかけて刃を突き立てた。
甲高い音が響き、冷たく硬いはずの大理石の床に、まるで熟した果実に針を刺すかのように、黒い刃がすんなりと根元まで刺さった。
刺さった瞬間、床の亀裂から細い黒い煙が上がり、大理石の表面にクモの巣のような黒い紋様が広がっていくのが見えた。
(な、なんなの、このナイフ……!?)
恐ろしさに背筋が凍りついたが、立ち止まっている猶予はなかった。
私は慌ててナイフの上に覆いかぶさるように深く腰を下ろし、長い衣の裾を広げて、床に刺さったナイフとその周りの黒い変色を完全に隠した。
胸の鼓動がうるさすぎて、自分の耳が痛いほどだった。
手足がガタガタと震える。私はそれを悟られないよう、膝を強く抱え込んだ。
どれほどの時間が流れただろうか。
数秒にも、数時間にも感じられる緊迫した静寂の中、ついに「その時」が訪れた。
頭上の黄色い光の渦が、激しく波打ち始めたのだ。
空間が歪み、あの膿むような白百合の甘い匂いが、津波のように押し寄せてくる。
光の収束とともに、彼が現れた。
背中に巨大な黄色い翼を広げ、完璧な容貌に慈愛の笑みをたたえた天使。
「ドミティラ? 何か様子が違いますね……心が、酷く乱れているようだ」
天使は空中で翼を休め、硝子玉のような瞳でまっすぐに私を見つめながら、静かに床へと降り立った。




