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時間の感覚は、とうの昔に崩壊していた。
この白亜の回廊には、太陽の昇降も、星の巡りもない。天井を覆うどろりとした黄色い光の渦が、休むことなく不快な明かりを放射し続けている。それが一日前のことなのか、あるいは数ヶ月が過ぎ去ったのか、今の私には判別する術がなかった。
最初は、頭の中で日数を数えようとしていた。大理石の床に指の爪で傷をつけ、朝(と思われる時間)が来るたびに一本ずつ刻んでいこうとしたのだ。しかし、爪は冷たく硬質な石に滑るだけで傷一つ残せず、やがてその行為自体が無意味に思えてやめた。
次に奪われたのは、生きるための欲求だった。
天使は定期的に、白磁のような器に盛られた食料を運んでくる。無色透明な果実のような何か、甘い香りのする液体。それは確かに私の肉体を維持し、餓死することすら許さなかったが、舌の上に載せた瞬間、砂を噛んでいるような無機質な感触しか与えてくれなかった。
「食べなさい、ドミティラ。君の健康を守るのも私の務めです」
そう言われても、私の喉は固く閉ざされ、胃が食べ物を拒絶した。器の中身は手付かずのまま放置され、時間が経つといつの間にか消えている。そんなことの繰り返しだった。
そして──最も恐ろしい変化は、私自身の内側で静かに、だが確実に起きていた。
閉じ込められた当初、私は全身の血を沸き立たせて彼に逆らおうとしていた。隙を突いて逃げ出そうとし、悲鳴を上げ、彼を罵倒し、心の中で刃を研ぎ澄ませていた。あの激しい憎悪こそが、私が人間であり、ドミティラという一個人であることの証明だったのだ。
だが、この何も変化しない白い地獄に晒され続けるうちに、その炎は少しずつ、沈黙の中に鎮火していった。
怒るのにも、激怒するのにも、力が必要だ。だが、どれほど叫んでも声は虚無に吸い込まれ、どれほど拒絶しても天使は完璧な微笑みを浮かべて私を抱きしめ返す。何をしても無駄なのだという無力感が、私の胸の奥に冷たい泥のように溜まっていった。
いつしか、私は天使の手が髪に触れても、背筋を凍らせることすらなくなっていた。
彼が私を抱きしめる時、私はただの肉の塊となって、彼の腕の中で揺られるだけになった。逆らう気力が失われたのではない。逆らおうという「思い」そのものが、霧散してしまったのだ。
かつてあれほど恐れていた彼の存在に、自然と従ってしまう自分。
流されるままに身体を預け、意思を放棄していく自分。
……最も恐ろしかったのは、その恐ろしい破滅に向かって狂っていく自分に対してすら、何も感じなくなっていることだった。
(私は、死にかけているんだ……)
心が磨り減り、灰になっていく。絶望すらもを感じない、平坦で浅い海のような静寂。涙も出ない。苦しみもない。ただ、私という存在が、この白と黄色の空間に溶けて消えていくような感覚だけがあった。
◈
その日も、いつもと同じ「儀式」が行われていた。
天使が滑らかな足取りで私に近づき、床に座り込む私の前に膝をつく。彼の背中に生えた二つの黄色い翼がさらさらと音を立て、私の肩を優しく覆った。
彼は白磁の器を私の脇に置くと、細く冷たい指先で私の乱れた髪を撫で上げた。
「今日も、あまり顔色が良くありませんね。……ですが、心配はいりません。この聖域の光が、いずれ君の不純な傷をすべて癒やしてくれますから」
私の返事を期待する風でもなく、彼は満足げに微笑んだ。彼の硝子玉のような瞳には、相変わらず私が映っている。だが、それは生きた人間としての私ではなく、彼が所有する美しい人形としての影に過ぎない。
彼は私の額に優しく指を滑らせ、そのまま頬へと降りて、唇の端に冷たい口付けを落とした。
氷を押し当てられたような感触。かつてなら激痛のような不快感に身を捩っていたはずの私は、ただ目を見開いたまま、動かずにそれを受け入れた。瞳の焦点を合わせることすら、面倒だった。
「では、また来ます。愛していますよ、私の可愛いドミティラ」
満足した天使は立ち上がり、静かに背を向けた。黄色い翼が大きく一羽ばたきすると、彼の身体は光の粒子となって空間に溶け、姿を消した。
残されたのは、冷たい大理石と、手付かずの食事と、空虚な私だけだった。
私は床に伏せ、大理石の冷たさに額を押し当てた。
このまま、この石の一部になってしまえばいい。考えるのをやめれば、痛みもなくなる。すべてを天使に委ねてしまえば、どれほど楽だろう。
そう思って目を閉じかけた、その時だった。
──すうっ、と。
部屋の空気が変わった。
天使が放つ膿むような白百合の匂いとは違う、湿った土と、焦げた煙、そして夜の熟した果実を思わせる、異質な香りが鼻腔をくすぐった。
「やあ、可哀想な小鳥さん。…それにしても、ここは酷い匂いだ。あいつの『愛』ってやつは、どうしてこうも腐った香りがするんだろうね」
軽やかで、どこか嘲笑を含んだ男の声が、静寂を破った。
私は跳ね起き、周囲を見回した。
どこにも誰もいないはずだった。しかし、私の影──天井の黄色い光によって大理石の床に濃く落ちていた私の足元の影が、まるで生き物のように歪み、立ち上がっていた。
影の中から現れたのは、一人の男だった。
背が高く、全身に闇を織り上げたような深い紫の衣を纏っている。彼の顔立ちは極めて端正だったが、天使のような無機質な完璧さとは異なり、人間の生々しさと、底知れぬ危険な色気を孕んでいた。鋭い瞳は琥珀色に輝き、口元には親しみやすくも、どこか人間を食ったような笑みを浮かべている。
私は息を呑み、後ずさりしながら叫んだ。
「誰……? あなたも、あの人の仲間……?」
男は大袈裟に胸に手を当て、心底嫌そうに顔を歪めた。
「まさか! 一緒にしないでくれ、吐き気がする。我はオルドヴァクシス……そう、君をあんな『清く正しい狂人』の玩具にしておくのが耐えられなくて、心配になって、様子を見に来ただけの通りすがりさ」
オルドヴァクシス──その名を口にした男は、私の警戒を解くように両手を広げて見せた。彼の仕草は優雅で、それでいて道化師のように軽妙だった。だが、彼の瞳の奥に宿る光は、天使の光とは全く異なる種類の何かを感じさせた。
「通りすがり……? こんなところに、一体どうやって……!?」
「影がある場所なら、我はどこにでも行けるのさ。たとえそれが、あいつの作った気取った鳥籠の中であってもね」
オルドヴァクシスは私の手元に置かれた手付かずの食事を見下ろし、つまらなそうに鼻を鳴らした。
「不味そうなものを食わせているな。魂を去勢するための食事だ。ああ、食べなくて正解だよ。君は実に賢い」
「お、お願い!」
私は失われかけていた叫びを、喉の奥から絞り出した。
麻痺しかけていた心に、激しい電流が走ったようだった。目の前にいるこの男が誰であろうと関係ない。この白い地獄の外側から来た存在なのだから。
「助けて! 私をここから出して!」
私は膝立ちになり、オルドヴァクシスの衣の端を掴もうと手を伸ばした。しかし、彼はひらりと身をかわし、困ったように肩をすくめた。




