偽りの天国
「ここには不潔な病も、老いも、死もありません。君はここで、永遠に私の愛を受けることができるのです」
私は目を閉じ、彼の言葉を遮断しようとした。
だが、耳元で囁かれる言葉は、皮膚を通じて直接脳髄に染み込んでくるようだった。
昔、アレリアの旧市街に住んでいた老異端学者、ウォルシウスの言葉を思い出す。
私が工房で古い羊皮紙の修復をしていた頃、彼がふらりと立ち寄って話してくれたことがあった。
『ドミティラや、もしお前が神の使者と呼ばれる存在に会うことがあっても、絶対にその美しさに惑わされてはならんぞ』
ウォルシウスは眉間に深い皺を刻み、掠れた声で語っていた。
『奴ら……天使と呼ばれる絶対者は、我々人間とは根本的に構造が異なるのだ。奴らには「羨望」も「悔恨」も「恐怖」もない。ゆえに、奴らには「情け」や「加減」という概念が存在しない。奴らにとっての「愛」とは、お気に入りの小鳥を剥製にして美しい箱に飾るようなものだ。殺すことも、閉じ込めることも、奴らにとっては等しく「永遠の保存」という善行に過ぎんのだからな』
あの時のウォルシウスの言葉は、恐ろしいほどの正確さで今の私の状況を言い当てていた。
目の前にいるこの怪物は、私を憎んでいるのではない。むしろ、世界で誰よりも愛しているのだ。だからこそ、逃げ場がない。悪意ならば説得や取引の余地がある。だが、完璧な善意と純粋な愛によって行われる加害は、それを振るう者自身が「自分は絶対に正しい」と信じ切っているため、絶対に止めることができない。
「ドミティラ、君にプレゼントがあります」
彼が静かに立ち上がり、背後の影から何かを取り出した。
彼の手に握られていたのは、見覚えのある革装丁の重厚な本だった。私がアレリアの工房で、手作業で糸を綴じ、革を鞣し、丁寧に作り上げた私の「日誌」であり、読書ノートだった。
「私の本……! どうしてそれを……」
私は思わず身を起こした。それは、私が地上に生きていた証、私という人間が思考し、感じてきた軌跡そのものだった。
「君が大切にしていたものだと知っていましたから、持ってきてあげました」
彼は優しい笑みを浮かべ、その本を私に差し出した。
私はすがるような思いでそれを受け取り、開いた。
──しかし、次の瞬間、私の血の気が引いた。
ページをめくっても、めくっても、そこには何も書かれていなかった。
私が何年もかけて書き溜めていた詩や、街の人々との思い出、読んだ本の抜粋、すべてが消え去り、ただの真っ白な紙へと変貌していたのだ。
「な……なにこれ……? 私の文字は? 私の書いたものはどこに行ったの!?」
私が取り乱して問い詰めると、彼は自慢げに胸を張った。
「消しましたよ。人間の汚い言語や、卑俗な思考が刻まれた文字など、今の君には不要でしょう? くだらない他人の言葉や、過ぎ去った過去の記憶が君の心を乱すのなら、そんなものは白紙に戻すべきです。……ですが、悲しまないでください。その本は、これから私が君に与える『正しき教え』で満たしてあげますから」
「やめて……やめてよ……!」
私は白紙となった本を抱きしめ、床に伏して泣き叫んだ。
彼は私の外側から人間関係を奪うだけでは満足せず、私の内側にある「記憶」や「思想」までも白紙に塗り潰そうとしているのだ。私の個性を殺し、私の意思を磨り潰し、ただ自分を愛するためだけの「器」に私を仕立て上げようとしている。
「どうして泣くのですか? 私は君の心を整理してあげたのですよ」
天使は私の背中に覆いかぶさり、黄色い翼で私を優しく包み込んだ。
羽から放たれる熱と甘い香りが、私の意識を朦朧とさせる。
「悲しまないで、ドミティラ。君の頭の中にある余計なものは、すべて私が消してあげます。君は何も考えなくていい。何も望まなくていい。ただ私を見つめ、私の愛を受け入れるだけでいいのです。それが君の真の幸せなのですから」
翼の重みが、私の全身を押し潰す。
息が苦しい。胸が張り裂けそうだ。
だが、何よりも恐ろしいのは、彼の冷たい抱擁を受けているうちに、私の心の中で「もう、どうでもいいかもしれない」という恐ろしい諦念が芽生え始めていたことだった。
戦うのに疲れた。
誰も助けに来てくれない。世界は私を忘れた。私の書いてきた歴史も消された。
このまま彼の言いなりになって、思考を捨ててしまえば、どれほど楽になれるだろう。この美しい怪物に身を委ね、ただ愛されるだけの肉体となれば、この恐怖も、激しい絶望も、すべて消えてなくなるのではないか。
──いや、ダメだ。
私は激しく舌を噛んだ。
口の中に血の味が広がり、鋭い痛みが麻痺しかけていた私の意識を泥沼から引き揚げた。
(諦めてたまるか……!)
私は内側で歯を食いしばった。
彼に逆らえば、さらに自由を奪われる。私の心まで破壊される。ならば、今は刃を隠さなければならない。
彼に悟られてはならないのだ。私がまだ「自分」を捨てていないことを。私がこの温かく甘い地獄を、死ぬほど憎んでいるということを。
「……そうね」
私は震える声を絞り出し、抱きしめてくる彼の白い衣の胸元に、ゆっくりと手を回した。
私の従順な素振りを感じ取ったのか、天使の肉体が歓喜に打ち震えるのが分かった。
「……あなたの言う通りかもしれないわ。私……疲れてしまったの」
「おお、ドミティラ……! ついに理解してくれたのですね!」
天使は狂喜し、私をさらに強く抱きしめた。その完璧な顔には、聖画に描かれる救世主のような、純粋無垢な喜びが溢れ出ていた。背中の黄色い翼が大きく旋回し、聖域全体に眩い光を撒き散らす。
彼の胸に顔を埋めながら、私は薄目を開け、白亜の床に滴る自分の血を見つめていた。
(見ていなさい、名前もなき怪物。お前が私をどれほど純白の檻に閉じ込めようと、お前が私の世界をどれほど塗り潰そうと……私は絶対に、私を放棄しない)
彼の背中で舞う黄色い羽。それはどこまでも美しく、どこまでも醜い、私の監獄の象徴だった。
私は偽りの笑みを浮かべながら、天使の首に手を回した。
この深遠な暗闇のなかで、いつか彼の絶対的な「善」を切り裂くための、小さな毒針を研ぎ澄ませながら。




