白亜の籠
浮遊感ののちに訪れたのは、恐ろしいほどの静寂だった。
風の鳴る音も、虫の羽音も、街の雑踏も、何も聞こえない。私が知る「世界」のあらゆる音が削ぎ落とされた暗闇の中で、私のおぼろげな意識は、冷ややかな感触によって覚醒へと引き戻された。
頬に触れているのは、削り出されたばかりの滑らかな大理石の感触だった。
「……あ……」
割れるような頭痛に耐えながら、ゆっくりと体を起こす。
視界に広がった光景に、私は息を飲んだ。そこは、私の知るアレリアの街でも、私の狭い部屋でもなかった。
視界のすべてが、眩いばかりの純白で埋め尽くされている。
どこまでも続く白い大理石の床。天を突くほどに巨大な無数の円柱が立ち並び、壁も窓も見当たらない。頭上を見上げれば、そこには屋根も空もなく、ただ、ねっとりと濃密な黄色の光の渦が、まるで生き物のように蠢いていた。その光からハラハラと舞い落ちてくるのは、あの禍々しい黄色い羽の破片だ。
「目が覚めましたか、ドミティラ」
背後から響いた声に、全身の血が凍りつく。
振り向くと、巨大な柱の影から彼が歩み寄ってくるところだった。
背中に生えた二つの黄色い翼は、ここでは一層鮮やかに、そして巨大に見えた。翼が揺れるたびに、周囲の白い空間に黄色い残像が刻まれる。彼はどこまでも優美な足取りで私に近づき、私の前にゆっくりと膝をついた。
「ここは……どこなの……?」
声が掠れ、上手く出ない。私は後ずさろうとしたが、背中はすぐに冷たい大理石の円柱にぶつかった。逃げ場など、最初から存在しないのだ。
「ここは『聖域』です」
天使は恍惚とした瞳で周囲を見回した。
「人間の不潔な欲望も、時の経過による腐敗も、くだらない社会のルールも届かない、完全に孤立した高天の回廊。私と君のためだけに紡ぎ出された、真の楽園ですよ」
「楽園……? 冗談じゃないわ! こんなの、ただの白い箱……檻じゃないの!」
私が叫ぶと、彼は悲しそうに眉をひそめ、首を横に振った。
「檻とは、罪人を閉じ込める場所のことです。私は君を閉じ込めているのではない。世界という名の毒から、保護しているのですよ。ドミティラ、君はまだ理解していないのです。地上での君の暮らしがいかに危うく、惨めなものであったかを」
彼はそう言うと、細く美しい指先を空中になぞらせた。
すると、彼の指が描いた軌跡に沿って、空間が水面のように揺らぎ、映写機のように景色が浮かび上がった。
そこに映し出されていたのは、私が愛したアレリアの街だった。
しかし、その景色は私の記憶にあるものとは微妙に異なっていた。街の人々は相変わらず市場を行き交い、プロクラは笑顔で織物を売り、老セルウィウスは工房の前で客と話している。……だが、彼らの会話の中に、私の名前は存在しなかった。
プロクラが私の住んでいた家の前を通り過ぎる。しかし、彼女は一瞬たりともその扉を見ようとせず、まるでそこが最初から空き地であったかのように通り過ぎていく。工房の棚からも、私が製本した本が消えていた。
「な……にを、したの……?」
私は震える手で自分の胸を抱きしめた。血の引いていく感覚が全身を駆け巡る。
「消したのです」
天使はさも当然のように、甘やかな声で囁いた。
「彼らの記憶から、君という存在の痕跡をすべて取り除きました。彼らはもう、ドミティラという人間を知りません。君がかつてそこにいたことも、君が彼らに捧げた親愛も、すべて幻となったのです。これで君は、誰からの関心という名の暴力も受けずに済む。誰にも汚されず、私だけのものとして生きていける」
「そんな……嘘よ……! プロクラ! セルウィウスさん! 私を忘れるはずがないわ!」
私は映し出された映像に向かって手を伸ばした。しかし、手はむなしく空を切るだけだった。
彼らの笑顔が恐ろしかった。私という存在が綺麗さっぱり消去された世界で、彼らは何事もなかったかのように平和に暮らしている。それは、私が生きてきた歳月そのものを殺されたに等しい暴力だった。
「どうして……どうしてそんな酷いことをするの!? 私から全部奪って、私をひとりぼっちにして……これが『善』だと言うの!?」
私の叫びは、どこまでも続く白亜の回廊に虚しくこだました。涙が溢れ、大理石の床にぽたぽたと落ちて染みを作る。
天使は滑らかな動作で私に寄り添い、私の頬を伝う涙を、その冷たい指先で丁寧にすくい取った。そして、愛おしそうにその涙を舐めとる。
「酷いこと? いいえ、ドミティラ。酷いのは、君を忘れて平気で生きている彼らのほうです。見なさい、彼らは君がいなくなっても泣きもしない。痛がることもない。それほどの薄情な人間たちに、君は自分の心を削っていたのですよ? 私は彼らの冷酷さから、君を救い出したのです」
彼の語り口には、一筋の偽りもなかった。
彼は心底、自分が私を「救った」と確信しているのだ。私の記憶を奪い、人間関係を破壊し、存在そのものを世界から消し去ることが、私に対する「最高の慈悲」なのだと信じて疑わない。
この圧倒的な精神の歪み。言葉が通じないという絶望。
私は身震いし、彼の手を振り払おうとしたが、彼の腕はまるで鍛造された鋼のように微動だにしなかった。
◈
この閉ざされた『聖域』には、夜も昼もなかった。
頭上の黄色い光の渦が、常に不気味な明るさを保ち続けている。時間感覚が薄れ、自分がどれほどの時間ここにいるのかすら分からなくなる。
彼は私に何不自由ない世話を焼いた。
どこからか運ばれてくる、無色透明でかすかに甘い液体と、果実のような形をした無味の食物。それらは確かに私の飢えと渇きを癒やしたが、食べるたびに自分の肉体が「人間」から引き剥がされていくような錯覚を覚えた。
彼は私の髪を梳かし、白い絹のような布を私に着せ、膝の上に私の頭を乗せて何時間も私の顔を見つめ続けた。
「君は美しい、ドミティラ。地上にいた頃よりも、ずっと輝いている」
彼の手が私の髪を弄ぶ。黄色い羽根から落ちる粉塵が、私の髪に金色の微粒子となって付着する。




