立ちはだかる騎士
トトリ村の夕暮れはとても静かだった。
夕日に照らされた泥道には、干し草と家畜の匂いが漂っている。二十の国境を越え、幾千の恐怖を潜り抜けてたどり着いた最果ての地。手持ちの金は底をつき、足の爪は割れ、身に纏う服は泥と汗で硬く汚れていた。
(とにかく……生きていくための仕事と、寝床を探さなくっちゃ……)
私は擦り切れた踵を引きずり、村の奥へと歩を進めようとした。どんな酷い雑用でもいい。雨風を凌げる屋根と、硬いパン切れ一枚さえ貰えるなら、何だってやるつもりだった。
だが──その淡い希望は、頭上から降り注いだ不吉な羽音によって、一瞬で粉砕された。
どろり、と。
重く粘り気のある物体が空から叩きつけられる音がして、目の前の泥道に何かが落ちてきた。
「……あ……」
声にならなかった。全身の血が、一瞬で凍りついた。
そこにいたのは、追い求め、逃げ続け、夢にまで見て私の正気を削り取り続けてきた──あの天使だった。
しかし、その姿はあまりにも無惨だった。
かつて神々しいまでに美しかった二つの黄色い翼は、片方が根元から酷く毟り取られ、残されたもう片方の翼も、黒く腐敗してボロボロに引きちぎられていた。傷口からは、熱を帯びた光る胞子がドロドロと血のように溢れ出し、地面の泥をじうじうと焦がしている。
さらに恐ろしいことに、彼の肉体はすでに人間としての原型を失いかけていた。大理石のように完璧だった顔立ちの左半面はドロドロに溶け落ち、その内部から、黄色く光る禍々しいエネルギーがむき出しになって不気味に明滅していた。
「あ……ああ……ヒッ……!」
私は恐怖のあまり腰を抜かし、泥の中にへたり込んだ。
なぜ。どうして。ここは二十もの国境を越えた先だ。あいつの管轄など、とうに外れているはずなのに。オルドヴァクシスという悪魔に翼をもぎ取られ、瀕死の重傷を負っていたはずなのに。
(追いかけてきた……私を……ここまで……!)
「逃がさ……ない……愛しい……ドミティラ……」
溶け落ちた顔の隙間から、濁った声が漏れ出す。かつての美鈴のような可憐さはどこにもなく、ただの亡者のような怨嗟の響き。
天使は半身を黄色いエネルギーで波打たせながら、壊れた人形のようにギチギチと首をねじ曲げ、ゆっくりと私の方を向いた。その残された右目──硝子玉の瞳には、狂気と執着の炎だけが燃え盛っていた。
「い、いや……来ないで……! 来ないでえええっ!」
私は悲鳴を上げながら、必死で四つん刺いになり、泥を這った。爪に泥が食い込み、膝が擦りむけて血が滲む。それでも必死で足を動かし、後ずさる。
逃げられない。逃げられるはずがない。この身体にはもう、走る力など一欠片も残っていないのだ。
「私だけの……ものだ……世界から……隠してあげ……る……」
天使が、引きちぎられた片翼を引きずりながら、ズリ、ズリと泥を這って近づいてくる。彼から放たれる腐敗した白百合と焦げた硝石の匂いが、私の鼻腔を激しく刺した。死が、いや、死よりも恐ろしい永遠の監禁が、すぐそこまで迫っていた。
終わった。私の逃亡劇は、ここで終わるのだ。
絶望に目を閉じ、頭を抱えて縮こまった──その時だった。
カツン。
重厚な金属が、乾いた石を叩く音が響いた。
私のすぐ目の前に、突如として巨大な「影」が落ちた。
恐る恐る目を開けると、そこには一人の騎士が立っていた。
全身を、一切の隙間なく重厚な鎧で包んだ聖騎士。光を反射する鋼の鈍い光沢。その背中は、泥の中に伏せる私を見下ろし、聳え立つ城壁のように厳めしく厳かとしていた。
「あ……あぁ……」
私は擦り切れた声で、すがるようにその鎧の脚を指先で掴んだ。
「助け……て……お願い……助けて……!」
声がかすれ、涙が泥と混ざって顔を汚す。
聖騎士は何も言わなかった。ただ無言のまま、私を庇うように、天使に向かって立ち塞がってくれた。
「愚かな騎士よ……!」
泥を這う天使が、溶けた顔を歪めて叫んだ。
「立ち去れ……! これは神の使者である私の責務……! 人間の分際で……神の意志を……邪魔するな……!」
天使の恫喝。かつてなら人間を一言でひれ伏させ、正気を奪うほどの圧倒的な神聖圧。
しかし、立ち塞がる聖騎士の背中は、微動だにしなかった。
彼は冷徹で、氷のように静かな声を放った。
「……貴様、それでも天使か」
その低く通った声には、一切の動揺も、恐れも存在しなかった。
「黙れ! 人間如きに何が分かる! 私は善だ! この者を愛し、守ることこそが私の絶対の正義だ! 人間の卑俗な理屈で私を測るな!」」
天使が叫び、残された半身から黄色い光の触手を激しく打ち振るった。
狂気に狂い咲く天使の主張に対し、聖騎士はただ深く、冷ややかな息を吐き出した。
「ここの者たちに……貴様のような醜悪な怪物を、天使と呼ばせてたまるか」
それは、騎士としての静かな、だが決して揺らぐことのない矜持だった。
「邪魔をするな……! ドミティラは私だけのものだ……私の……私のドミティラぁぁッ!」
「……この者は誰のものでもない。退くんだ。諦めろ」
聖騎士の言葉は短く、そして重かった。
「私のドミティラ! 私のドミティラァァッ!」
「……これ以上、先には行かせない」
「ああああああぁぁぁぁぁッ!!!!」
理性を完全に失った天使は、もはや言葉を理解する存在ではなかった。彼は半身の溶けたエネルギーを爆発させ、縋りつくように強い光を放ちながら、聖騎士に向かって突進した。
その瞬間──。
「──退かぬのなら、討つ」
聖騎士の姿から、突如として黒く禍々しい靄が爆発的に噴き出した。
鎧の隙間から溢れ出た影が、一瞬で聖騎士の輪郭を飲み込み、急速に膨れ上がっていく。鋼の触れ合う音は消え去り、代わりに聞こえたのは、無数の羽が空気を切り裂くような重厚な羽音だった。
影が晴れた時、そこにいたのは人間ではなかった。
深い群青色と、眩い金色の羽毛に包まれた、巨大で優美な孔雀の異形。
その姿は恐ろしいほどに美しく、そして底知れぬ邪悪さを秘めていた。孔雀がその巨大な翼を、夕闇を覆い尽くすように大きく開いた瞬間──周囲の世界から一切の光が消え去り、地獄のような闇が訪れた。
孔雀の羽に散りばめられた無数の「目玉模様」が、一斉に妖しく開眼した。
ギロリ、と。
何百、何千、何万という怪しい瞳が、泥を這う天使を射抜く。
次の瞬間、孔雀の翼から濃厚な紫黒色の瘴気が、津波となって天使へと浴びせられた。
天使は藻掻き苦しみ、壊れた鐘のような悲鳴を上げたが、瘴気に触れたそばから、彼の溶けかけた肉体が、残された黄色い翼が、光の胞子ごとメリメリと削り落とされ、消失していく。
「あ……あ……私のドミテ……」
最後の抵抗すら許されず、天使の半身を占めていた黄色いエネルギーが、弾けるように泡立って消滅した。
光も、音も、匂いも。
私を囚い続けてきたあの怪物は、一瞬のうちに、跡形もなく消れ去っていた。
ふっと、闇が引き去った。
周囲の景色は、何事もなかったかのように、元の穏やかなトトリ村の夕暮れへと戻っていた。干し草の匂いと、茜色の空。
巨木のような孔雀の姿もまた、黒い煙とともに収縮し、元の鎧を纏った聖騎士の姿へと戻っていた。
カツン、カツン。
静かな足音が響く。
聖騎士はゆっくりと振り返り、泥の中にへたり込んだままの私の目の前まで歩いてきた。
私は腰が抜けていて、立つことも、逃げることもできなかった。
ただただ、目の前の存在に対する圧倒的な恐怖で、全身をガタガタと震わせるしかなかった。
天使を、あの一瞬で消し去った存在。
人間ではない。神の使者でもない。
「あなた……は……」
私は掠れる声を絞り出し、震える瞳で兜の奥の暗闇を見つめた。
「悪魔……なの……?」
聖騎士は静かにズレた剣を鞘へと納めた。カチャン、と硬質で静かな音が響く。
彼は兜に手をかけ、ゆっくりとそれを持ち上げた。
現れたのは冷徹な面立ちをした孔雀の顔だった。その瞳はどこか遠い時代から生き続けているような静謐さをたたえていた。
「私はレギストール。正真正銘の悪魔だ」
彼は迷いなく、己の正体を認めた。
そして、泥に汚れた私の前に、金属の手甲で覆われた手を、優しく差し伸べた。
「だからこそ──善行には価値がある」
その言葉の真意は、今の私には分からなかった。悪魔が善行を語る異質さ。だが、彼の差し出した手には、天使のような押し付けがましい狂気も、オルドヴァクシスのような嘲笑もなかった。ただ、泥の中に沈む人間を救い上げるための、確かな「拒絶のない意志」が存在していた。
私は震える手を伸ばし、彼の冷たい金属の手甲を握った。
彼は力を込め、引き締められるように私を立ち上がらせてくれた。
自分の足で立った瞬間、激しい眩暈が襲い、私は彼の鎧に寄りかかる形になった。
「あの天使は……?」
私は息を荒げながら、彼を見上げた。
「死んだの……? もう……いなくなったの……?」
レギストールは遠くの空を見つめ、静かに首を振った。
「魂ある限り、天使も悪魔も滅びはしない。肉体を失えば、天界と地獄で、それぞれ再び蘇ることになる」
「っ……!」
私の胸が凍りついた。蘇る。またあの怪物が、黄色い翼を再生させて私の前に現れるのかもしれない。二十の国を越えても、地の果てまで追ってくるのかもしれなかった。
怯え、再び身を縮こまらせようとした私に、レギストールは静かな声で言った。
「だが心配する必要はない」
「え……?」
「あの天使は、他の天使の管轄を大きく犯し、行動の過ちにおいても一線を踏み越えた。天界の裁定者は厳しい。奴がやすやすと復活を許されることはないだろう。……仮にいつか許されたとしても、その管轄は変更され、二度とこの地へ足を踏み入れることはできないだろう」
「……本当……ですか……?」
「悪魔は嘘を吐くが、無意味な気休めは口にしない」
レギストールの言葉に、私は深く首を垂れ、溢れ出る涙を抑えきれなくなった。
本当に、終わったのだ。あの恐ろしい黄色い翼の追跡から、私はようやく解放されたのだ。
ボロボロと泥の上に落ちる涙。私は安堵と、これまでの疲労が一気に押し寄せ、その場に崩れ落ちそうになった。
行くあても、お金もない。
心も身体もボロボロの私。
悪魔は私の状態を見定めると、淡々とした口調で告げた。
「行く当てがないのなら、この村に君の面倒を見てくれそうな者がいる」
「……え? 誰ですか……?」
「マリアという、元聖女の女性だ。今ここで暮らしている。君の身に起きたことを話せば、きっと手を差し伸べてくれるはずだ」
私は涙で濡れた顔を上げ、レギストールの顔を見つめた。
助けてくれた理由も、なぜ彼が騎士の姿をしているのかも分からない。彼が悪魔である以上、いつか私を喰らうのかもしれないという恐怖がなかったと言えば嘘になる。
でも──今の私には、この手差し伸べてくれた悪魔を信じる以外に、生きる道は残されていなかった。
もう、抗う力も、どこかへ逃げる気力すらも、私には一欠片も残っていなかったのだから。
「……ありがとうございます……」
私は嗚咽を漏らしながら、彼の泥に汚れた甲冑の足元に、深く、深く頭を下げた。
夕暮れのトトリ村に、静かな風が吹き抜けていく。
長い長い逃亡劇の終着点で、私は一人の悪魔の手によって、かろうじて人間としての息を繋ぎ止めたのだった。




