第15話 それぞれの戦場2
「さて、気を取り直して始めるかのぉ!」
切り立った崖の縁──。
神獣ビャクの背にある、雲のように柔らかで白い毛並みに深く指を埋め、エリスは満足げに喉を鳴らした。
先ほどまでの苛立ちは、この至高の「モフモフ」によってすっかり霧散している。
彼女の機嫌は、そのままこの世界の天候を左右する。
今、サリウス領を包む空気は、嵐の前の静けさのような、ひりつくような神聖な緊張感に満ちていた。
「おっ!そうじゃ、面白そうなことを思いついたのじゃ!」
エリスがいたずらっぽく微笑み、小さな指先をパチンと鳴らす。
その刹那、因果の理が悲鳴を上げた。
崖の上の空間が、目に見えるほどの歪みを生じ、透明な鏡が割れるような音と共に「穴」が開く。
そこから転がり出たのは、魔の森の深層の主、人間が足を踏み入れることさえ叶わぬ禁域に君臨していた五体の『王』たちであった。
彼らは文字通り、住処からこの場所へと、不可視の神の手によって「強制転移」させられたのだ。
「ずーっと気になっておったんじゃ!こ奴らが、妾の権能の残渣を魂に宿す魔獣か。ずっと前から気配は察しておったが、丁度いい。……使ってやるのじゃ!」
エリスの瞳が、銀河を宿す漆黒の燐光を帯びて細まる。
眼前に並んだのは、禍々しいまでの魔力を放つ異形。
本来ならば、一つの国を一夜にして滅ぼしうる災厄の具現。だが、彼らは土を噛むように転移した先で、即座に理解した。
目の前に立つ、透き通るような肌をした幼子。そして、その横で退屈そうに欠伸を噛み殺す、黒翼の神獣。
その二柱から漏れ出す「存在の格」の違い。それは、生存本能が「死」よりも深い「絶対的服従」を命じるほどのものであった。
「ほぉ♪ 狐に猫、白蛇、鹿に鳥か。お主ら、妾に仕える気はあるかのぉ?」
エリスの問いは甘く、しかし拒絶は存在そのものの消滅を意味する。
三尾を揺らす金色の妖狐、影そのものを身に纏う大黒猫、岩山を締め上げるほどの白蛇、霊的な輝きを放つ角を持つ巨鹿、そして翼を広げれば空を焦がす怪鳥。
誇り高き深層の王たちは、一斉に、抗う術もなく大地に頭を擦り付けた。
彼らの放っていた威圧感は霧散し、ただの幼子に平伏する従順な従者へと変貌を遂げた。
「よし、ビャクよ!こ奴らを眷属にするのじゃ」
ビャクが重厚な唸り声を上げる。それは祝福であり、魂の再定義であった。
ビャクから放たれた白銀の粒子が五体の魔獣に浸透していく。彼らの肉体、魂、そして存在の次元そのものが、神の祝福によって跳ね上がる。
それは『存在進化』──。
妖狐の尾は六本に増え、大黒猫の額には漆黒の角がそびえ立つ。
白蛇は二対四翼を得て天を舞い、巨鹿は朧げな霊気を纏って実体と幽体の境界を曖昧にする。
怪鳥の炎は凍てつくほどの透き通る蒼い焔へと昇華した。
「「「「「……」」」」」
言葉にならぬ、畏怖と忠誠の咆哮が魂の奥底で響く。
「準備完了じゃ。ビャクよ、この眷属どもを連れて、リレトス王城を攻め落としてくるのじゃ。……これは、妾からの最初の命令じゃぞ!」
エリスの視線は、傍らに転がっていた七聖天の一人へと向けられる。
彼女は指先一つ触れず、その男の精神そのものに干渉した。
脳内に刻まれた忠誠心を粉砕し、代わりに「敗北の絶望」と、王城で吐くべき「地獄の口上」を強制的に刻み込む。さらに、その魂の核には、罪業を焼き払う「浄化」の術式を刻印した。
その時のエリスの表情に、慈悲など微塵もない。
漆黒の神威を纏い、不敵に嗤う彼女は、もはや無邪気な幼女ではない。
理を裁き、国を滅ぼす『断罪の神』そのものであった。
一方、サリウス領の各所では、奇跡という名の「殲滅」が開始されていた。
──テトラ村。
「……信じられんな。これが、神の恩寵か」
かつて「剣豪」の名をほしいままにしながらも、老いという残酷な時の流れに屈していたミツルギは、己の手のひらを見つめていた。
齢七十。昨日までは、朝起きるたびに肩や腰の鈍痛に顔を顰め、霞む目で世界を見ていた。
棺桶に片足を突っ込み、ただ余生を静かに過ごすだけの枯れ木のはずだった。
だが今、彼の内側には、溢れんばかりの神力が脈動している。
外見こそ老人のままだが、筋肉は瑞々しく躍動し、その反応速度は生物としての限界を遥かに凌駕している。老眼も霞目も消え去り、思考は凍てつく冬の朝のように澄み渡っていた。
「抜刀術――『柳流線切』」
流れるような、あまりに静かな神速の一閃。
カチリ、と鞘に刀が戻る澄んだ音。
その一瞬後、接近していた十数名のリレトス襲撃者たちは、自分が斬られたことさえ気づかぬまま、糸の切れた人形のように地面へと崩れ落ちた。
「……名乗る必要はない。貴殿らに語る言葉は持ち合わせておらぬ」
ミツルギはそのまま重力を無視した跳躍を見せ、森の陰に潜伏していた七聖天へ肉薄する。
最強の幻惑魔法を自負する男が、驚愕に目を見開く。
防御魔法を展開する時間すら、神速の世界では停滞に等しい。
一閃――。
一筋の銀光が走り、七聖天は言葉を発する間もなく、その首を虚空に投げ出した。
かつて剣豪と呼ばれた男の技は、エリスの加護によって「剣神」の領域へと至っていた。
──シグルト村。
月光の下で死の舞踏が繰り広げられていた。
「イメージが大事……。さぁ、わたくしと踊りましょう?」
加護の恩恵で恐怖を克服した幼いカレンは、身体強化術式を無詠唱で重ね掛けし、水の上を滑るような軽やかな足取りで戦場を縦横無尽に駆け抜ける。
手に持つかわいい鉄扇には、神力による凄まじい振動を伴った『水刃』が纏わされていた。それはあらゆる鎧を紙のように切り裂く、不可視の凶器。
カレンが優雅に扇を翻すと、その軌跡から光り輝く水の蝶が乱舞する。
『あげはちょう、らんぶ(アゲハ蝶乱舞)』
あどけない幼い声。しかしそれは、見る者を魅了するほどに美しい絶望の光景。
その蝶に触れた襲撃者たちは、声もなく首を刈り取られていく。
七聖天を含む十一の戦士たちが、カレンの舞が終わると同時に、崩れ落ちた。
返り血一滴、メイド服に浴びることもない。
カレンは静かに、祈るような仕草で扇を閉じ、完璧な一礼を捧げた。
──サリウス伯爵邸。
ミモラから逃げ出した『蠍』特殊部隊の精鋭たちと、粛清部隊長シルバが邸宅への侵入を試みていた。しかし、邸を護る強固な結界を前に、彼らは苛立ちを募らせる。
その真っ只中に、紫電を纏った一人の美女が舞い降りた。
「……私の家族達を狙うなんて。その傲慢、万死に値するわ」
ミモラの冷徹な声が響く。
一斉に飛びかかる『蠍』たちに対し、彼女は一瞥もくれない。ただハルバードを一振り。
その風圧だけで、数名の肉体が壁に叩きつけられ、粉砕された。
「ファイアーアロー! 死ねッ!」
放たれた数十の爆炎がミモラを包み込む。
だが、火焔の中から歩み出た彼女には、煤一つ付いてはいなかった。
「温いわね。これで終わりよ。ふんっ!」
ハルバードの先端に凝縮された紫電が、夜を白銀に染め上げる。
『雷光白輝穿』
放たれた一撃は、光速で敵陣を貫き、七聖天のシルバを含む精鋭たちを瞬時に消し炭へと変えた。
窓からその光景を呆然と眺めていた家族たちは、自分たちの知る『ミモラ』が、もはや神話の英雄としての強さを宿している事実に、ただ震えるしかなかった。
「さようなら。名も知らぬリレトス聖教国の皆さん。……地獄でお幸せに」
ミモラは踵を返し、邸内で自分を見つめる家族たちに、いつもの柔らかな笑顔で手を振った。
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