料理長の秀一
居間に案内された秀一は、座布団の上に座った。
健太が立ち上がろうとする。
「待っててくれ。
今、つまみ持ってくるから」
そう言って台所に向かおうとしたが、ゆかりとみよりに止められた。
「健太は待ってて」
「そうそう。
準備は私たちがするから、お二人は仲良く思い出話でもしててね」
そう言って、二人は台所へ向かった。
健太が「二人共台所にあるワインセラーから日本酒と好きな酒持ってきて」と言うと、台所の方から「分かった〜」と言う声が聞こえる。
秀一がニヤニヤしながら健太を見る。
「いやぁ〜、ケンには勿体無い嫁さんだな。
美人だしいい子だし。
なぁ、どうやって知り合ったんだ?」
健太は少し苦笑いを浮かべた。
「まぁ、話すと長くなるが……いいか?」
そして、これまでの経緯を簡単に秀一に話し始めた。
詳細を聞いた秀一は、しばらく無言になった。
「そうか……。
大変だったんだな、二人とも。
しかし、女性が好きなんだろ、二人とも?
詳細を聞いても、納得できねぇなぁ……」
健太は静かに答えた。
「まぁ、俺だっていまだに夢じゃないかって時もあるが。
朝起きて二人が隣で寝てると、夢じゃないって思い知らされるよ」
秀一は頭を抱え、大きく息を吐いた。
「カァー……泣かせるね。
助けた女性に惚れられて、しかも二人なんて。
事実は小説よりなんとやらだな」
居間に、少し熱のこもった沈黙が落ちた。
一方、台所ではゆかりとみよりが盛り付けをしていた。
ゆかりが言った。
「みより、先に健太のところにお酒持って行ってあげて」
みよりが軽く返事をする。
「ラジャー」
ワインセラーを開けると、みよりの動きが止まった。
「へ……?」
そこには、純米大吟醸 まぼろし赤箱の一升瓶、南部美人 純米大吟醸、上善如水 純米大吟醸、上川大雪 純米大吟醸の四本が入っていた。
みよりが黙ったまま動かないので、ゆかりが心配そうに声を掛ける。
「みより? どうしたの?」
みよりは少し震える声で答えた。
「ゆかりちゃん……やばい。
今日、昇天しちゃうかも。
私、幻を呑める時が、遂にきたんだ……」
目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
ゆかりが首を傾げる。
「大げさじゃない?
そんなに凄いの?」
みよりは深く息を吸い、胸の高鳴りを抑えきれない様子で四本の日本酒を丁寧に指さしながら語り始めた。
「まずこれが『まぼろし赤箱』。
広島の中尾醸造の最高峰で、リンゴ酵母を使ってるの。
フルーティーで華やかな香りと、米の旨味がしっかり出てるのにキレがいい。
昔は皇室の御用酒にも選ばれたことがある、本当に『幻』って呼ばれるくらい手に入りにくい一本。
次が『南部美人』。
岩手の南部美人酒造で、JALのファーストクラスにも乗ってたことがあるくらいの評価。
山田錦を高精白して、芳醇な香りと濃密な味わいのバランスがすごく綺麗。
『上善如水』は新潟の白瀧酒造。
雪解け水みたいにやわらかくてクリアな口当たりで、純米大吟醸なのに飲みやすい。
でも気品があって、ちゃんと深みもある。
最後の『上川大雪』は北海道。
道産米を丁寧に磨いて、クリアでキレのある味わい。
最近すごく評価が上がってる蔵で、全国新酒鑑評会でも金賞を取ってる。
この四本が並んでるって……もう、夢みたい」
みよりの声は途中で何度か上ずり、目は完全に日本酒への情熱で輝いていた。
指先がわずかに震えているのが、彼女の興奮の深さを物語っていた。
ゆかりは呆れた顔で言った。
「分かったから、健太のところに持って行ってあげて」
みよりはすぐに笑顔を取り戻し、四本の瓶を大切そうに抱きかかえた。
「はーい!
ほら〜、皆一緒に行こうねー。
美味しく飲んであげるからねぇー」
ボトルに話しかけながら、うきうきと居間へ向かっていった。
みよりが居間に戻ってきた。
「お待たせ、健太君ねぇ〜。
幻〜、私にも飲ませてくれるんでしょ?」
健太が苦笑いして答える。
「やっぱ食いつくと思った。
いいよ、好きに飲んで」
みよりは「ヤッタァー」と声を上げ、ニコニコと目を輝かせた。
その様子を見た秀一が、感心したように言った。
「みよりさんは随分日本酒好きと見えるな。
しかしケン、お前また料理の腕上げたろ?
それに持ってくる酒も、ちゃんとつまみに合わせてるんだろ?
この調子じゃ、お前が料理長やった方がいいんじゃないのか?」
健太は肩をすくめた。
「俺は宿の支配人だしな。
何かあったら厨房に行くが、それ以外は色々やることがある」
秀一は頷き、少し改まった声で言った。
「だろうな。
分かった、聞かれる前でなんだが。
俺も、ケンの夢に一枚噛ませてくれ」
健太が目を見開く。
「いいのか?」
「勿論。
友達だろ!」
健太は嬉しそうに笑い、「ありがとう、秀一!」と言って握手を交わした。
その横で、みよりはグラスを持ったまま小さく息を吐いた。
(へぇー……呑める雰囲気じゃないの〜。
幻が、南部美人が、目の前にあるのに〜。
せっかくこんな貴重なものが並んでるのに、男同士の話が長引いてる……。
早く開けて、香りを嗅いで、一口でもいいから味わいたいのに。
我慢、我慢……でも、ちょっとだけ、悔しい)
期待と焦れが混じった視線を、じっと瓶の方へ向けていた。
健太が少し申し訳なさそうに言った。
「ごめんね、みより。
待たせちゃって。
お猪口、注いで飲んでいいよ」
その言葉を聞いた瞬間、みよりの顔がぱっと明るくなった。
「うん……!」
すぐに自分でお猪口を取り、まぼろし赤箱を丁寧に傾ける。
透き通った酒が静かに注がれると、まず鼻先にグラスを近づけて香りを深く吸い込んだ。
華やかな果実の香りがふわりと広がり、みよりの肩が小さく震えた。
おそるおそる一口含む。
次の瞬間、みよりの目が大きく見開かれた。
口の中で米の優しい甘みが溶け、爽やかな酸が優しく広がる。
余韻は驚くほど綺麗に切れ、後に何も残らない。
まるで、舌の上で咲いた花が一瞬で消えていくような、そんな儚くも美しい味わいだった。
「……あ」
声にならない吐息が漏れ、みよりの目には再びうっすらと涙が浮かんだ。
お猪口を両手でそっと包み込み、震える指で何度も香りを嗅ぐ。
胸の奥が熱くなり、言葉がうまく出てこない。
「……すごい。
本当に……幻だ……。
こんなの、私……もう普通の酒、飲めなくなっちゃうかも……」
声は掠れ、でも嬉しさが溢れていた。
目を閉じ、もう一度ゆっくりと酒を口に運びながら、みよりは静かに、でも確かに、この瞬間を噛み締めていた。
秀一が笑いながら言った。
「いやぁ〜、日本酒でそこまで美味そうな表情ができるとは、生粋だな。
なぁ、みよりちゃん。
俺や健太の分も、ちゃんと残しといてくれよ?」
みよりは顔を真っ赤にして、慌ててお猪口を伏せた。
「ご、ごめんなさい……。
私だけで盛り上がっちゃって」
申し訳なさそうに小さく縮こまる。
そのとき、ゆかりが居間にお皿を持って入ってきた。
「ちょっと、みより!
手伝ってよ〜」
少し怒り気味の声に、みよりはすぐに立ち上がった。
「ごめん、ゆかりちゃん。
残り持ってくる」
そう言って、足早に台所へと向かった。
ゆかりが少し苦笑いしながら言った。
「全く〜。
ごめんなさいね。
みより、日本酒の事になると目がないのよ」
秀一が笑いながら答える。
「謝らなくていいさ。
しかし、若いのに日本酒が好きなんて珍しいなぁ。
最近の若い奴らは、日本酒飲まんからな」
健太がすぐに反応した。
「秀一、お前じじ臭いぞ!」
「そうか?」
その光景を見ていたゆかりが、ふっと微笑む。
「ふふ。
凄く仲がいいのね、二人とも」
秀一が懐かしそうに頷いた。
「まぁな。
大学のサークルが同じだったし、なんだかんだいつもつるんでたな。
覚えてるか? 豚骨ラーメン事件」
健太が顔をしかめ、苦笑いを浮かべる。
「やめろ〜。
思い出させないでくれ〜」
居間に、柔らかな笑い声が広がった。
みよりが居間に戻ってきた。
「ゆかり、さっきはごめん。
私、すっかり日本酒に夢中になっちゃって」
ゆかりは優しく微笑んだ。
「いいのよ。
みよりが日本酒好きなのは知ってるし」
みよりが「ゆかり〜」と甘えるように抱きつくと、ゆかりは「よしよし」と頭を撫でた。
秀一はその光景を見て、少し複雑な顔で一口日本酒を飲む。
「なんだか、側から見たらただの仲のいい友達にしか見えんな。
……女性同士が苦労すんのが、分かった気がするよぉ」
気を取り直すように、四人で晩酌を始めた。
しばらく談笑していると、ゆかりが不意に気がついた。
「そういえば、佐久間さんは?」
健太が答える。
「佐久間さんなら出掛けてるよ。
中居仲間の人と会って、教育のお願いしに行くんだって。
夜までには戻るって」
秀一が「佐久間さんって誰だ?」
と聞くと健太が「凄腕の中居さんだ。元々ゆかりの家で家政婦をやってたんだ。」
秀一「ほぉ〜中々いい人材が揃ってるな、俄然やる気が出てきたよ」と自信満々に言う、
みよりが目を輝かせた。
「じゃあ今日は昼間から日本酒三昧だぁーー!」
四人はつまみを食べながら酒を飲み、しばらく談笑した。
健太が不意に切り出した。
「それで秀一、料理長の件なんだけど。
具体的なメニューとか、どう考えてる?」
秀一が一息酒を飲んでから答える。
「実務の細かい話は後日でいいだろ。
長くは待たせないよ。
実は俺の方でも、色々創作料理考えてるんだ。
一応確認だけど、和食でいいんだよな?」
健太は笑いながら頷いた。
「当たり前だろ。
そうじゃなきゃ、お前を呼ばないよ」
秀一が満足そうに笑う。
「よし、分かった。
それなら話は早い。
ここで取れる食材と、外から発注しなきゃいけないもののリストをくれ。
それを元に、ここのものを前面に出した料理を考えてやるよ」
にっこりと笑みを浮かべた。
秀一が続けて聞いた。
「それと、季節ごとに特別な品を出すのか?
その日取れたものを使う品をお品書きに加えるのか?
部屋で食える簡単な料理や追加注文、量の調整を受けるのか。
……このくらいだな、今聞きたいのは」
健太が丁寧に答える。
「今言ったこと、全部やりたいと思ってるよ。
少人数でも最高の時間を過ごしてもらうために、人員も多めに。
選択肢や飽きない工夫もしていきたい」
秀一は「ふんふん、なるほど」と言いながら、メモを取った。
「じゃあ確認だけど。
基本は一泊二食付きで、夕食はコース形式。
朝は和定食みたいな感じか?」
健太が頷く。
「そうだな。
ただ、コースは固定じゃなくて、その日の食材で組み替える感じにしたい。
あらかじめ『今日はこれが出ます』って伝えられるようにして、アレルギーとか好みも事前に聞けるようにする」
秀一がメモを止め、少し考えてから言った。
「なるほどな。
それだと厨房の負担は増えるけど、やりがいがある。
逆に言えば、毎日同じものを出すより、こっちの方が俺も楽しいわ、厨房の人数は当然確保してくれるんだろ?」
健太が首を縦に振り「勿論、今の所6人は確保するつもりだ。佐久間さん経由で調理師学校の知り合いに頼んで、卒業生を何人か紹介してもらえる事になった。
面接をしてからじゃないとわからんが、人手の方は任せてくれ、
負担が増えるのは分かってる。
だからこそ、お前みたいに本気でやってくれる人が必要だったんだよ」
秀一が鼻で笑う。
「褒めといて損はねえな。
……で、部屋での簡易食とか追加注文はどうする?
夜中に腹減ったとかそういうのくるんだろ?」
「簡易的なものは用意したい。
おにぎりとか、簡単な味噌汁とか、温かいスープくらい。
追加注文も、ある程度までは受けられるようにしたいな」
秀一がメモを閉じ、グラスを持ち上げた。
「分かった。
大枠は掴んだ。
後は実際に食材リスト見て、具体的なメニュー組んでいくよ」
健太が小さく息を吐く。
「ありがとう。
頼むよ、秀一」
その様子を、お酒を飲みながらつまみを食べて眺める二人。
ゆかりは静かに微笑みながら思う。
(健太の理想が、どんどん形になっていく……。
ワクワクが止まらない)
みよりも、グラスを手にしながら目を細めた。
(健太君が作るポプラの宿。
段々とピースがはまって、形になっていくのがわかる。
……すごく楽しみ!)
二人は、健太と秀一の話を笑顔で見守っていた。
その後、話は自然と談笑に戻っていった。
みよりは既に結構な量を飲んでいるはずなのに、まだまだ呑めるという様子でケロっとしている。
ゆかりも、日本酒の味に慣れてきたのか、みよりと楽しそうにグラスを傾けていた。
その光景を見ていた秀一が、小声で健太に言った。
「なぁケン。
あの二人、相当呑めるな。
正直、ちょっと引いてる」
健太は苦笑いを浮かべる。
「女性の方が強いって話もあるしな。
俺も最初会った時に驚いたよ」
居間には、柔らかな笑い声と酒の香りが穏やかに漂っていた。
日が傾く頃、秀一はタクシーを呼んで帰ることにした。
「じゃあ後日また来るわ。
その時に挨拶回りとか、追加で思いついたら言ってくれ」
健太が笑顔で頷く。
「あぁ、今日はありがとう。
これからもよろしくな、秀一!」
秀一が二人の方を向いて頭を下げる。
「おう、じゃあお二人とも。
お邪魔しました。
長々話してしまって」
ゆかりとみよりが揃ってお辞儀をする。
ゆかりが穏やかに言った。
「いえいえ。
これから夫と共に、ポプラの宿を盛り上げていきましょう」
みよりも続けて微笑む。
「秀一さんのまかない、楽しみにしてますね」
秀一は明るく答えた。
「おう、任せとけ。
美味いもん、毎日食わしてやるよ!」
そう言いながら、玄関を出ていった。
東京とか言うコンクリートジャングルまじふぁっく
暑すぎる。




