96、那珂町 馨
自分を変えたいと思った。
逃げたあの頃には戻りたくないから。
あいつの眼鏡をかければ少しはあいつに近づけるかな?
……なんて、おこがましい。
なれるわけがないのに。
俺はどこまで行っても弱虫で、大切な人一人守れず、あの子の心も体も傷つけてしまった愚か者だ。
あの子は今頃俺を恨んで……
あれ? あの子って誰だっけ。
―――――
野分学園、中等部にて――
「ねぇ、ねぇ、新生徒会長見た? ちょーかっこよかった!」
「そりゃそうだよ。あの人学園で噂の王子様だよ?」
「そしてその隣が?」
「副生徒会長の彼女さん。あー、いつ見ても美男美少女でお似合いだよね?」
そんな噂は俺の耳にももちろん入ってくる。謙遜するつもりはない。顔は整っている部類に入るし、性格も努めて完璧に振舞った。成績だって抜かりはない。
那珂町 馨は生徒会長になるべくしてなった。
生徒会長になったのは目立ちたかったからではない。ずっと思いを寄せていたあの子と釣り合う男になりたかったからだ。
彼女は入学当初から噂になるほどの美少女で、多くの人が思いを寄せた。もちろん俺もその一人。
でも、彼女は誰とも付き合うことはしなかった。決まって同じ文言で断り続ける。理由はわからない。
それでも俺は彼女に思いをぶつけた。
「好きです!」
たったその一言。
結果は惨敗。わかっていた。わかっていたからこそ諦められなかったのかもしれない。
なるべく彼女との時間を作ろうと生徒会にまで入った。決してしつこくはしない。あくまでクラスメイト、友達としての距離感を維持した。
それから約二年、生徒会長になった俺は意を決し彼女に二度目の告白をした。
頬を赤らめて頷いてくれた彼女。これほど嬉しい日はない。
生徒会長、副生徒会長として隣に並ぶと「お似合い」の言葉が聞こえてくる。跳びはねたいほど嬉しくてたまらない。もちろんそんなことはしないけど。
付き合い始めて約半年、俺たちは中等部三年になった。
俺たちは毎日屋上でお弁当を食べる。今日も二人並んでフェンスに寄りかかり、やや灰色の雲が多い空の下会話を交わす。
「雨が降ってきそうだね」
空へ視線を向けるとタイミングよく鼻に落ちてきた雨粒。やがてそれは間隔を狭め土砂降りの前兆を仄めかした。
「中へ入ろうか」
屋上の扉を開けた最中、校舎の中から響き渡った耳を劈くような奇声。同時に、慌てふためく声に恐怖の悲鳴。何が起こっているのかわからなかった。
だが、奇声だけが近づいてくる。
上履きが床を蹴るような、階段を昇る時の独特な音は驚くほど速く近づいてきている。
「な、なんなんだ……」
状況も飲み込めず、恐怖で足がすくんだ。隣には胸の前で両手を握り怯えている彼女。
守らないと。俺は一歩彼女の前に出る。
「うあああああ!」
そして、それはとうとう屋上まで登ってきた。扉を閉めればよかったのかもしれない。だけど、思考は思ったよりも回らないもの。
奇声を上げていたのは女子生徒だった。だが、乱れた髪に制服には赤いものが飛び散っている。それが血であると分かったのは、女子生徒が右手に血塗られた包丁を握っていたからだ。
ゆらりと髪の間から覗く目が馨と合わさる。女子生徒は不気味に口を横に広げると包丁を掲げ馨に襲い掛かってきた。
咄嗟のことで動けずただ女子生徒の動きを見ていた俺。スローモーションのようにゆっくりと包丁が俺の腹部に降ってくる。
だが、俺に包丁は刺さらなかった。
「……なんで……」
彼女が俺に覆いかぶさったのだ。包丁は彼女の背に深く突き刺さっていた。
ヌメっとした感触を手に感じ、恐る恐る手のひらを視界に入れる。視界いっぱいに広がる、赤、赤、赤。
手は震え、息がうまく吸えないほど呼吸が荒くなる。
「……ねぇ」
どれだけ声をかけても彼女から返事はない。
どうして!? なんで!? ……なんで、俺なんかをかばって……。
「……っああああああ!」
――――――
ハッと目を覚ました馨。真っ白な天井は彼に安心感を与えた。背中は汗で濡れ嫌な感覚に馨は上半身を起こす。
「お。起きたか」
「ち、千輝先生……。じゃあ、ここは岐神病院? でもなんで?」
「ああ、思い出さなくていい」
マンバンヘアとリングピアスというイカつい容姿の彼。の割に怖くないのは、右頬にあるハート型の傷が中和させているからだ。
馨が横になっていたベッドの隣に置かれている丸椅子に腰かけた千輝。
「なんだ、気まずいな」
腕を組み真剣な面立ちで馨を見ると、千輝は率直に気持ちを零す。
「え? あ、はい、ちょっと」
苦笑いを向けた馨に少しずつ戻っていく記憶。ひとり舞の練習をしていてそれから――
突然胃から何かが込み上げ咄嗟に口を塞ぐ。千輝が迅速に彼の口元に桶を添え、馨はない中身を吐いた。
「そうだ。全部吐き出しちまえ」
千輝は馨の吐き気が収まるまでずっと背中をさすってくれていた。
彼に支えられ再びベッドに横になる馨。
「す、すみません」
「気にすんな」
撫でられた頭がほんのりと熱を持つ。
千輝は汚物を処理するために一旦病室から出て行った。
(……忘れちゃいけないことなのに、こっちの世界に来てからの毎日が楽しくて忘れていた。……いや、俺は忘れようとしていたんだ。だってその証拠に彼女の顔が思い出せない)
だが、思い出そうとすると頭がひどく痛み、吐き気も催すため考えることを放棄せざるを得なかった。
「……ああ、どうして俺ってこうなんだろう……」
◇
神威学園にて――
「ねぇ、なに、あれ?」
夕柊はひとり、壁際に少年を追い詰めていた。
――シャラン
錫杖を鳴らした少年・杠 楓は物ともせず夕柊を濁った瞳で見つめている。
「ただ事実を話しただけだよ。部外者の君は黙っていてよね」
「部外者じゃない。友達だ」
馨に新作の創作植物を見せようと探しに出た夕柊。突然悲痛な叫び声が聞こえて駆け付けたら、蹲り激しく吐いている馨を見つけたのだ。
「変化『伝書鳩』」
創式妖術を使って迅速に吟丸に伝えた夕柊により、彼は岐神病院に運ばれたのである。
そして、馨が運ばれた後こうして元凶である杠 楓に夕柊は詰め寄っていた。
「友達だから、なに? あいつが何をしたかも知らないで」
彼の胸倉を掴もうと伸ばした夕柊の手はひとつの声によって止められる。
「夕柊くん!」
「……綸」
「夕柊くん、やめて」
綸に見つめられ、夕柊は渋々手を下ろす。解放された楓は、綸の後ろに双子の片割れ杠 椛を見つけ彼に駆け寄ると振り返ることもせずこの場を去っていった。
「……帰りましょう」
「うん」
肩を並べた二人は重い足取りで吟丸の元へと足を動かす。
――――――
刺傷事件ということで野分学園中等部にてすぐさま事情聴取が行われた。
「白石さんとはどのような関係で?」
警察は加害者である生徒の写真を指さしながら馨に問う。
「……クラスメイトです」
「恨まれるようなことは?」
「……特に、思い当たりません」
馨は何を答えたのか覚えていない。あんな事件に巻き込まれた後、冷静に状況を話せなどまだ中学生の少年には酷なことだ。
やっとのことで解放された馨は何かにしがみつかれているかのように思い足を引きづって昇降口まで向かう。
その道中、職員室からの会話がうっすらと耳に聞こえてきた。
「……は……馨……」
自分の名前が聞こえてきて思わず止めてしまう足。
「白石は那珂町馨に思いを寄せていたということか?」
「はい。白石さんの友人による証言からも確実だと思われます」
「だから逆恨みで刺したのか……」
馨はその事実に咄嗟に口を押さえ逃げるように駆けだした。瞳から零れ落ちる涙。胸を掻きむしりたい衝動を抑え世話になっている祖父母宅に向かった。
なにかに急き立てられているかのように鍵を差し込む。が、中々うまくいかない。時々背後を振り返り誰もいないことを確認しつつ鍵を回す。
馨は毎日欠かさなかった「ただいま」を言わず自室にこもり、枕に向けて思いの丈叫んだ。
(俺のせいだ。俺のせいだ! 彼女を傷つけたのは俺だ!)
まともな精神でない状態に自分が原因であるという事実を突きつけられ、馨の心は壊れてしまった。
その日を境に、自室に引きこもるようになった彼。学校へも行かず、薄暗い部屋の中で屍のようにただ時間が過ぎることを待つ日々を繰り返す。
ご高覧いただき感謝の至りでございます。




