97、記憶のカケラ
「馨」
「あ、吟丸先生」
病室に現れた吟丸を見て起き上がろうと体を動かした馨だったが、「構わないよ」と、彼に肩を抑えつけられ横に直らされた。
ベッド脇の丸椅子に腰かけた吟丸は馨に優しく声をかける。
「体調は? ……って、いいわけないよね。馨、これは僕のエゴの押し付けになってしまうけど、祈祷師は君にやってもらいたい。あと四日ある。急ぐ必要はない。だが、君がどうしても辞退したいと言うのならそれもまた受けよう」
その言葉に肩が揺れる。今しがた自分の口から出そうであった「やっぱり俺には祈祷師をする資格はない」を飲み込んだばかりだったのだ。
あと四日しかない。今更辞退して後に引き継ぐものはどうなる? 無責任にも程があるだろう。寄せてくれた期待を大きく裏切る行為でもある。
なのに、吟丸の優しい言葉に揺れてしまった。
なにも考えずまた静かな場所で引きこもってしまいたい。
「……一日、考えてもいいですか?」
穏やかな顔で頷いた吟丸は病室を後にした。
(……ああ、新先生に会いたい)
ふと脳裏に浮かんだ一人の教師に思いを馳せ、馨は再び目を瞑る。
――――――
“ピンポーン”
毎日放課後に鳴らされる家のチャイム。
学校が終わると馨の担任は毎日彼の家を訪れていた。無理な声かけはしない。祖父母と軽く言葉を交わす程度だ。
馨が顔を見せてくれないと分かっていても、休日以外は必ず訪れてくれていた。
少し扉を開けて話に聞き耳を立てたこともあった。主に他愛ない話だったが、中学三年生ということもあり、進路についても話に上がっていた。
高等部まである野分学園は言わばエスカレーター式に上がることができるのだが、馨にとっては苦しい選択なのではないか、と親身に彼自身を案じてくれていたのだ。
その日は祖父母が外出をしている時間に訪れた担任。
反応がないと見ると帰ろうとしたのだが、馨にはなんだかその背がやけに寂しく映り、
「……あ、あらた先生……」
と、思わず声をかけてしまっていた。
目を開く担任。
少し家に上がってもらい久しぶりに会話をした。
担任――新庄 新は、長身に程よくついた筋肉、の割に垂れ目と中性的な顔立ちの男性で女子から人気のある先生だ。
「馨。少し痩せたな」
「……はい。食欲が減ってしまって」
「そうか」
馨にとって家族以外と久しぶりに交わした会話だったが妙に心地よかった。それは、新が馨のペースに合わせて話しているからだ。
「また来るな。偶にでもいいからまた今日みたいに顔を見せてくれ」
「はい。ありがとうございました」
彼は決して馨に「学校に行ってみない?」とは言わない。それも馨にとっては有り難かった。
月日はだいぶ流れた。
馨は新と祖父母と話し合い、同県でも遠く離れた別の高校を受けることになる。受験も無事合格し、新しい高校で心機一転一人暮らしから始める予定だ。
そして、卒業式の日。出席をしなかった馨の元に新が卒業証書を届けに来てくれた。
「卒業おめでとう、馨」
卒業証書を馨に手渡した瞬間、新の瞳から涙が零れ落ちる。
「すまない。何もしてあげられなくて、すまないっ」
馨に深く、深く頭を下げる新。
初めて見た彼が涙を流す姿に馨の目からも自ずと涙が零れ落ちていた。
「……いえ、次に進めたのは先生のおかげです、ありがとうございます」
馨も深く頭を下げ返す。
新は祝いの言葉と共に別れを告げに来たのだ。遠くに転勤することになりもう会えなくなること、馨の活躍を遠くからでも祈っていること。
馨はあの日から失っていた笑顔を初めて新に向けることができた。
彼があそこで腐らずもう一度踏み出せたのは紛れもなく新の献身的な寄り添いがあったからだろう。
馨の胸には恩師として彼が焼き付いているのだった。
――――――
(先生の新しい転勤先は聞いていないし、今どこにいるんだろう……。でも――)
新の言葉を思い出した馨。
(あれだけ背中を押されたんだ。もう一度へこたれるわけにはいかないよな)
決意を胸に目を開いた馨の視界に映ったのは、のっぺりとした不気味な能面。
「やあ」
「ぎゃああ!」
「うん、元気だな」
「な、な……こわっ! (いや、なんかデジャブ……!)」
ベッド脇の丸椅子に座った小面の能面を付けた人物・陽炎は神威学園の保健医として馨の様子を見に来たのだ。
「おいおい、患者を騒がせるなよな」
「すんませーん」
馨の叫び声を聞きつけやってきた千輝に怒られる陽炎。だが、能面のせいで全く反省していないように映る。
いや、着物の上に着た白衣に両手を突っ込んでいる態度がそう見せているのだ。
「ま、元気な姿が見られたことだし、僕はこれで去りますわ」
「おい、能面付けて病院を歩くなよ」
「えー」
「患者が怖がるだろうが」
「しょうがないなあ。今だけっすからね」
離れていく二人の話し声に馨の落ち着きは取り戻されつつあった。
そして翌日、
「……み、みんなおはよう」
「おっはー、馨くん」
「眼鏡ずれてんでー」
おずおずと教室に訪れた馨を初羽はいつも通りに迎えてくれる。
そしてなぜか、馨の席には夕柊が袖に隠れた両手を広げて座っていた。
「お前の席、温めておいたぞ」とのこと。
「……何言ってんだよ。というか、早くどいてくれ」
いつものおふざけ夕柊を見て思わず笑った馨。変に気を遣わずいつも通りであるこの感じが彼にとっては心地よかった。
放課後、馨は吟丸に会いに行った。祈祷師の継続を申し出るためだ。
「……そうか、良く決断してくれたね」
それから怒涛に三日が過ぎていった。吟丸との舞の最終確認、の最中どこからか現れた非常勤講師であり呉服屋の一人でありえくぼの可愛らしい悪魔・無凧 真幌が斎服の採寸に来たりもした。
そして祈祷祭当日の朝。
馨は疲れない程度に一人舞の最終練習をしていた。
「……那珂町さん」
突然かけられた声に馨は動きを止める。
「頑張ってください」
薄い茶髪がやや混じる白髪を靡かせ、綸は美しくそして花のように可憐に微笑んだ。
彼女が去った後でも動けずにいる馨。彼女に見とれてしまったのだ。……否、鈍器で殴られたかのような衝撃に動くことができなかったのだ。
彼女のその笑顔が記憶の中の誰かと一致していく。
蘇っていく彼女との会話。
――――――
「これ、ですよね? ありがとうございます」
「ここ。一箇所画鋲が外れています。いち早く気が付いたあなたは誰かが踏んで怪我をする前に見つけようとした。私が見つけてしまいましたが、あなたの姿を見ていなければ素通りをしていたと思います。ですので、ありがとうございます」
「(彼女は同じ中等部出身の……)七々扇、さん」
「はい。七々扇 綸です。那珂町 馨さん」
「……あ、おいしい(どこか懐かしいような味だ……)」
「美味しいですか? 那珂町さん」
「本当はポトフと迷ったんです。でも――彼の……文哉さんの好物はカレーでしたので」
――――――
馨はあの日のトトとの会話にも引っ掛かりを覚えていた。
――――――
「……じゃ、ぶっちゃけ聞くけど、綸ちゃんとはどういう関係なの? これみーんな気になっていると思うよ?」
「……ただ中学が同じで、そうしたら高校も同じだったってだけ」
「……俺さ、中学の時不登校だったんだ。その時、担任と一緒に家に訪問に来てくれたのが七々扇さん。新しく創設された不登校の生徒を支える会の生徒代表として」
「そんな会あるんだ。初めて聞いた」
――――――
(……なんだよ、不登校の生徒を支える会、って。そんなのあるわけない。それに、エスカレーター式の野分学園からわざわざ別の高校へ行くなんて、俺みたいなのか、成績不良で上がれなかった奴らくらいだ。七々扇さんは見るからに文武両道。上がれないわけがない)
(それに、彼女の作ったカレーには具材が切られず丸ごと入っていた。それがもし、包丁にトラウマがあるからだとしたら……?)
激しく脈打つ馨の心臓。
「……ですか? 馨くん」
「うん、ありがとう“綸”」
ぼやけていた輪郭がはっきりと映し出される。屋上で彼女手作りのポトフを食べた。苦手なカレーにアレンジを加えて俺好みにしてくれた。隣で微笑む愛らしい女性。
「……なんで、忘れていた?」
あれ? じゃあ綸は?
じゃあ、彼女は自分のことを忘れている俺のそばにずっと居たのか……?
胸の内側に広がっていく黒い渦。
膨れ、膨れ、膨れ、やがてそれは抑えきれなくなった。
だがその影響を直接受けてしまうのは神使なのだ。
「ああああああああ!」
馨の背後で響くこどもの悲痛な声。
彼の神使・木歳の木でできた体が黒く変色していき、頭の双葉は茶色く枯れた。
神使の役割、それは主を守ること。故に、暴走しかける主の負の感情を神使が肩代わりしなければならない。
溢れてきた負の感情を間近に浴び、木歳は悪妖へと変わってしまった。
悪妖と変わってしまった彼は近くで最も負の感情に溢れた人間の心に住み着き操る。
生気が失われていく馨の瞳。
形見の眼鏡を放り捨て、馨は森の中へと覚束ない足取りで進んでいった。
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