骨一本で制圧された狼男
ようやく三人は厄介極まる暮色禁林を抜け出した。
だが灯り煌めく真央学院のキャンパスへ戻るには、まだ薄暗い林間小道をしばらく進まなければならない。
魔界の高木が空を覆い、降り注ぐ月光は枝葉に細かく刻まれ、砕けた光の欠片となって地面に舞い落ちる。
宝探しが完全な徒労に終わった疲労が重く心にのしかかり、特にダイクと爪原のテンションは極端に落ち込んでいた。
「はあ、まったく骨折り損のくたびれ儲けだよ。泥だらけになっただけで何もなかった」
ダイクは泥に塗れた尻尾を力なく振り、道端の小石を虚しく蹴飛ばす。
「せめて……ヴィグ先輩の飲み物だけは美味しかったです」
爪原はしょんぼりと耳を垂らし、もらったジュースをちびちびと啜る。
二人とも、「伝説の秘宝の正体が移動冷蔵庫の先輩だった」というショックから、まだ完全に立ち直れていない。
格賀は黙って先頭を進み、魂火の淡い光で道を照らし続ける。月光に照らされた白骨の体には、森の罠でついた擦り傷や焦げ跡がくっきりと浮かんでいた。
彼は何かを思索している様子だ。森の魔力変動の法則を分析しているのか、それともただ、この静かな月夜が沈黙に似合うだけだと感じているのか。
その瞬間、爪原の耳がぴんと鋭く立ち上がった。
敏感な鼻が素早くひくつき、喉から低い警戒の唸り声が漏れる。
「何か……前方に気配があります。得体の知れない、鼻につく匂いです……」
ダイクは即座に身構え、全身の筋肉を緊張させ、鋭い爪を僅かに露出させる。
格賀も足を止め、魂火の光を凝縮させ、曲がりくねった小道の角先を照らし出す。
歪に枝を伸ばす古木の影の中に、ひっそりと佇む人型の輪郭があった。
背は高くなく、むしろ細身。暗闇に紛れ、微動だにせず、こちらをじっと見つめている。
「あの影……人がいる?」
ダイクは声を潜め、琥珀色の瞳を凝らして薄暗い視界を必死に見極めようとする。
三人が慎重に数歩近づいたタイミングで、雲が流れ、月光がずれてその姿を鮮やかに照らし出した。
制服らしき衣装を着た、紛れもない人間の姿だ。
「人間っ……! 本物の人間だ!」
ダイクの声に抑えきれない驚愕と、本能的な恐怖が滲む。
魔族が支配するこの魔界において、純粋な人間は極めて稀な存在で、今や伝説上の幻種とまで言われている。
百七十年前の大戦が残した種族の隔たりと古い固定観念は、後世に完全に根付き、消えることはなかった。
爪原の全身の毛がざわりと逆立ち、ダイクの側に慌てて寄り添い、震える声を漏らす。
「怖い……人間の噂、聞いたことがあります。悪いことばかりするって……スライムまで変な遊び道具にするって……」
幼い頃から聞かされた真偽不明の怪談が次々と脳裏に浮かび、恐怖で言葉が途切れる。顔色の悪さが、彼の心底の怯えを物語っていた。
ダイクも同様に、人間は「貪欲で狡猾、欺瞞と略奪を好む」という古い伝承を思い出し、喉から不安な唸り声を上げる。
格賀の魂火は変わらず静かに燃え、その人影を冷静に観察し続ける。
特異な魔力波動も、魔族特有の異形の特徴も一切感じられない。輪郭や気配から判断する限り、確かに人間そのものだ。
だが、微妙な違和感が拭えない。
人影は依然として沈黙のまま、微動もせず三人を見つめ続ける。
林間の静寂は、獣の咆哮よりも人の心を怯えさせ、重苦しい緊張感が辺りを包む。
やがて月光がゆっくりと流れ、その人影全体を完全に照らし出す。
次の瞬間、異変が起きた。
その細身の体が唐突に膨張する。
窮屈そうに張り詰めていた制服は弾けるように裂け、白い肌の上に濃密な灰黒の獣毛が一気に生い茂る。
四肢は引き伸ばされて逞しく太くなり、指先の爪は鋭く尖る。頭部の骨格が変形し、口鼻は前に突き出て牙が覗き、耳は鋭く立ち上がる。
瞬く間に、細身の「人間」は身長二メートルを超える、筋骨隆々の凶暴な狼男へと変貌した。
月光に照らされた歪んだ顔は悍ましく、喉から低く脅威的な咆哮が鳴り響く。
「なんだ、狼男か……」
ダイクは大きく安堵の息を吐き、力が抜けたように尻尾を垂らす。
「びっくりした……完全に人間だと思った」
狼男は魔界の強力な亜人種族ではあるものの、魔族の範疇に属する同胞だ。伝説の敵である人間に比べれば、遥かに受け入れやすい存在だ。
だが、この安堵は束の間だった。
狼男の金色の瞳が、三人、そしてダイクが手持ちに抱える古い金属箱にしっかりと釘付けになる。
隠しきれない貪欲と暴虐な気配が、全身から滲み出ていた。
牙を剥き、涎を垂らして狂気じみた笑みを浮かべる。
「ダメだ」
格賀の冷静な声が静寂に響き、淡い確信を含んでいる。
「こいつ、俺たちに襲いかかる気だ」
言葉が終わるか終わらないかの瞬間——
耳をつんざく咆哮が上がる。
狼男は強靭な後脚で地面を蹴り、灰黒の疾影となって生臭い風を巻き起こし、真っ直ぐ突進してくる。
標的は明白——ダイクの手にある、秘宝が入っていた金属箱だ。
「秘宝を渡せ! はははは!」
野蛮な興奮に染まった狂笑が林間に響き渡る。
鋭い爪が冷たい寒光を放ち、間髪入れずダイクに襲いかかる。
ダイクも爪原も、あまりの速度に反応する暇すらない。
まさに電光石火の一瞬。
「ヒュッ!」
細長い白い物体が破空音を立て、寸分の狂いもなく、突進する狼男の鼻先に直撃した。
「アオーン——!」
飛んできたのは魔法弾でも武器でもない。
ただ、格賀の体から抜け落ちた、一本の白骨に過ぎなかった。
軽い衝突音とは裏腹に、効果は異常かつ滑稽だった。
凶悪極まる突進の勢いが一瞬で完全に消し飛ぶ。
巨大な狼男の体は「ドサッ」と無様に地面に落下。
殺気みなぎる攻撃姿勢は跡形もなく、両手で痛む鼻を押さえ込む。
先ほどまで狰狞に歪んでいた顔はくしゃくしゃに皺寄り、金色の瞳に生理的な涙があふれる。
「アオアオ……痛い、痛いよぉ……」
嗚咽混じりの幼い泣き声が漏れ、先ほどの暴虐な雰囲気は完全に消え失せた。
鼻の刺激が強かったらしく、制御不能に連続でくしゃみを繰り返し、巨大な体がぶるぶると震える。
さらに奇妙なことに、一撃で頭がぼんやりとしてしまったらしい。
鼻を押さえていた手を離し、茫然と地面に転がる白骨を見つめ、舌を少し出し、間抜けな「ヘヘヘ」という笑い声を漏らす。
尻尾は抑えきれず嬉しそうに左右に振れ、後脚まで無意識に地面を蹴る。
殺気満々の凶悪狼男は、たった一本の骨で、まるで餌を待つ大型犬のように無防備で可愛らしい姿に変貌していた。
必死に抵抗態勢を整えていたダイクと爪原は完全に固まり、口を開けて唖然とする。
爪原は困惑して犬耳を震わせ、思わず小声でツッコむ。
「狼なのに……なんで僕より犬っぽいんです? しかも、あまりに情けない……」
厳しく躾けられた犬人族の彼からすれば、好物を見ただけで一瞬で理性を失う姿は到底理解できなかった。
格賀は悠然と歩み寄り、屈んで地面の骨を拾い上げる。
骨に執着して渇望の眼差しを向ける狼男の視線を受けながら、軽く埃を払い、何事もなかったかのように自身の体にはめ込む。
「さて」
平坦な骨質の声が響く。
「落ち着いたか? ちゃんと話ができるようになったなら、『秘宝』の件を聞かせてもらおう」
狼男は骨がはめ込まれた瞬間、ぼんやりした頭が覚め、先ほどの無様な失態を自覚したらしい。
大きな頭を振って混乱を払い、顔に気まずい赤みが浮かぶ。
全身の獣毛と筋肉が収縮し、骨格からパチパチと微かな音が鳴る。
数秒後、彼は破れた制服を着た細身の少年の姿に戻った。
灰色の無造作な髪、完全には戻りきらない狼の耳と尻尾。
今は耳も尻尾も力なく垂れ、ひどく落ち込んでいる。
「すみません……」
嗄れた声に強い沮丧が滲む。
「ウォフ・ルフです。同じ新入生です」
彼はダイクの手の空箱を指し、申し訳なさそうに続ける。
「暮色禁林の秘宝伝説を聞いて、森の外で君たちがこの箱を持って出てくるのを見張っていました。秘宝が入っていると思い込んで、ついカッとなって襲いかかってしまって……
結局何も入ってなかったんですね……すごくがっかりです」
また一人、上級生の悪戯の伝説に騙された、不遇な宝探し新入生だった。
ダイクは手の空箱を眺め、落ち込みに打ちひしがれるウォフの姿を見て、ふと思う。
自分たちの九時間の徒労も、決して孤独な愚かしさではなかったのだと。
同じ夢を見、同じ失敗をした、同病相憐れむ仲間ができた。
爪原の警戒心は完全に解け、同じ亜人種の後輩に親近感と少しの同情を覚える。
格賀の魂火が微かに揺らぎ、「やはり」という淡い諦観が宿る。
「なら、我々の『骨折り損小隊』に入れ」
平淡に告げる。
「次からは、襲いかかる前に、相手の宝物が本物か、あるいは俺の骨か、ちゃんと確認しろ」
ウォフは真っ赤になって恥ずかしそうに頷く。
予期せぬ誤解は滑稽な結末で解け、脅威は新たな仲間へと変わった。
骸骨、豹人、犬人、狼男。
疲労と徒労、少しの気まずさ、そして共通の「宝探し夢破れ」の思いを胸に、四人は学院へ続く道を踏み出す。
月夜は相変わらず清らかで、林間小道は薄暗い。
だが、先ほどの重苦しい雰囲気は完全に晴れ、空気は軽やかになっていた。
ウォフは、伝説を信じた経緯から、森で張り込んだ様子、骨一本で制圧された恥ずかしい結末まで、くどくどと語り続ける。
ダイクと爪原も、九時間の罠地獄や、最終的に冷蔵庫先輩に出会った珍体験を打ち明け合う。
格賀は黙って三人の話を聞き、時折核心を突く冷静な一言で場を締める。
やがて、暖かく煌めく学院の灯りが、前方に鮮やかに広がった。
今夜の冒険は、予期せぬ恐怖で始まり、予期せぬ滑稽さで終わった。
真央学院の日常は、いつだって予測不能なサプライズに満ちている。




