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魔力最下位の理系転生者は、魔法を誰でも使える技術に変えたい ~詠唱はコード、魔法陣は回路。才能がないなら、法則を探せ~  作者: Ita
第11章 誰の命令でもない革命

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第77話 今度こそ、置いていかない


 審問場の人の流れが、開いた記録補助扉へ向き始めた、その時だった。


 退避路とは反対側。


 審問官席の奥にある内扉から、重い錠が外れる音がした。


 教会兵たちの動きが止まる。


 彼らまで、扉の方を見た。


 内扉が音もなく開く。


 白い修道服の女が、一人で立っていた。


 年齢は読みづらい。


 若く見えるが、その表情には生きてきた時間がない。


 淡い髪。


 胸元には祈り数珠。


 袖の内側で、細い刃が白く反射した。


「対象、天城ユウマ」


 平らな声だった。


「対象、クラリス=エルダーレン。回収命令を確認」


 シスター・レーネ。


 教皇直属の執行修道女。


 彼女は審問官席側にいる。


 俺たちの退避路は西側。


 距離は二十歩ほど。


 走れば届く。


 だが、先生の足では間に合わない。


「先生を扉へ」


 俺はリナに言った。


「ユウマ?」


 エリシアがこちらを見る。


「俺たちと退避路の間を空ける。リオネルは回廊。ダリオは先生を――」


 言い終える前に、レーネの姿が低く沈んだ。


 足が床を蹴る。


 石が砕けた。


 消えたように見えたのは、魔法ではない。


 最初の一歩が、人間の視線の追従速度を超えていた。


 白い残像が、倒れた兵士たちの間を一直線に抜ける。


 狙いはクラリス先生ではない。


 俺の胸元。


 アークの種だ。


「右!」


 リオネルの声。


 空気の流れが頬を打つ。


 右の袖口で銀光が走った。


 俺はクラリス先生をリナの方へ押し、媒体杖を抜く。


「bind」


 短詠唱。


 杖の石英媒体が青く光る。


 レーネの袖刃と俺の胸の間へ、薄い束縛膜を斜めに置いた。


 正面から受ければ破られる。


 刃を止めるのではなく、軌道を滑らせる角度だ。


 金属と膜が接触した。


 耳を刺す高い音。


 杖を握る右腕へ反力が突き抜け、肩の関節が軋む。


 靴底が石床を滑った。


 膜は一拍しか保たない。


 レーネは止まらなかった。


 刃が膜の表面を滑る。


 俺は首を反らす。


 冷たい金属が頬を切った。


 遅れて熱が走る。


 彼女の左手が胸元へ伸びる。


 指先がアークの携帯枠へ触れかけた。


【接触予測】


【回避困難】


 赤い光が横から差し込んだ。


 エリシアの火核。


 小さな赤い球が、俺とレーネの間を通過する。


 人へ当てる火ではない。


 エリシアは火核の熱を一瞬だけ周囲の空気へ放ち、狭い空間を急膨張させた。


 破裂音。


 熱風が俺の外套を叩く。


 レーネの身体が横へ押し流された。


 俺も反対側へよろめく。


 クラリス先生へは、リナが覆いかぶさるようにして熱風を遮った。


「一人で受けないと言ったでしょう!」


 エリシアが俺の前へ入る。


「受けたくて受けたわけじゃない」


「口が動くなら、まだ立てるわね!」


 レーネは空中で身体を捻った。


 片手を床へ突き、音もなく着地する。


 袖刃を戻す。


 表情は変わらない。


 だが、アークの表示に、命令波とは異なる細い揺れが現れていた。


【外部命令入力を検出】


【命令:対象回収】


【身体損傷予測:許容】


【自己保存入力:抑制】


【処理中断要求:微弱】


【中断要求の起点:他者損傷への拒否】


【同種入力の抑制履歴:多数】


 処理中断要求。


 レーネ自身から出ている。


 それは、自分が傷つくことへの恐怖ではなかった。


 攻撃対象となった人間を傷つけることへの拒否。


 今回、初めて生まれた入力でもない。


 過去に同じ形の信号が、何度も発生している。


 回収。


 拘束。


 処分。


 命令を実行するたびに、彼女の内側では小さな拒否が生まれていた。


 だが、そのたびに外部命令が拒否を異常値として切り捨て、彼女自身から見えない場所へ押し込んでいた。


 レギオン・コアへ接続された兵士と似た構造。


 違うのは、命令核が外から見えないこと。


 そして、彼女が人間なのか、人工的に作られた存在なのか、俺たちには判断できないことだ。


「アーク、敵性判定を外せ」


【確認】


「攻撃対象ではなく、入力者として見る」


【入力者として再分類】


 エリシアが火核を杖先へ保ったまま訊く。


「止められるの?」


「俺たちが止めるんじゃない。本人の中断要求が、命令層へ届く経路を開く」


「身体への危険は?」


「分からない。内部構造が読めない」


「なら、長くは試せないわ」


「分かってる」


 レーネが再び床を蹴った。


 今度の標的は、俺と退避路の間に立つエリシア。


 袖刃が下から跳ね上がる。


 エリシアの火核では近すぎる。


 発火すれば、自分まで焼く。


 横から黒い鞘が入った。


 ダリオだ。


 長刀を抜かず、鞘の中央で袖刃を受ける。


 硬い衝突音。


 火花が二人の顔を照らした。


 ダリオの靴が石床を半歩滑る。


 レーネの刃は止まらない。


 手首を返し、鞘を巻き込むようにダリオの首へ向かう。


 ダリオは肘を下げ、鞘の角度を変えた。


 銀刃が喉元一寸まで迫る。


「決めろ」


 彼の声は短い。


 刃と鞘が擦れ、甲高い音を上げる。


 腕力だけで押し返せる相手ではない。


 ダリオは退かず、刃の軌道を自分の喉から外し続けている。


「レーネ!」


 俺は呼んだ。


 彼女の瞳が一瞬、こちらへ動く。


「あなたは、止まりたいか」


「質問。命令に存在しません」


「命令ではない。確認だ」


「確認権限、未登録」


「登録されていなくても、あなたの入力はある」


 アークの種を彼女へ向ける。


 出力命令は送らない。


 外部命令を書き換えない。


 抑え込まれている中断要求の位相だけを読み取り、同じ形のままレーネ自身へ返す。


 鏡のように。


【あなたの入力】


【処理を中断したい】


 レーネの袖刃が、ダリオの喉元で止まった。


 完全な停止ではない。


 切っ先が細かく震えている。


 ダリオの皮膚へ触れるほど近い。


 一滴の血が首筋を伝った。


「これは」


 初めて、レーネの声に揺れが混じった。


「誰の命令ですか」


「命令じゃない」


 俺は答えた。


「あなた自身の入力だ」


「私の」


 レーネの瞳が、わずかに見開かれる。


「私は……何を止めたいのですか」


 自分の意思を尋ねる言葉さえ、誰かへの質問になっていた。


「それを俺が決めたら、また命令になる」


 アークに、抑制される前の入力を表示させる。


【抑制前入力を復元】


【対象の苦痛を回避したい】


【これ以上、傷つけたくない】


 レーネの視線が、自分の袖刃へ落ちた。


「回収命令のたびに、対象は逃げます」


 刃と鞘の間で、彼女の腕は震え続けている。


「泣く者もいました。痛いと言う者も。止めてほしいと、何度も聞きました」


「覚えているのか」


「聞いたことは覚えています。けれど、その声を不適切な入力だと判断するよう修正されます。次の命令を受ける時には、止まりたいと思った理由だけが、分からなくなります」


 消されたのは、記憶そのものではない。


 記憶と拒絶を結ぶ経路だ。


 誰かの痛みを見ても、それを自分の行動を止める理由にできないよう、切り離されている。


 それでも拒絶は消えなかった。


 命令のたびに、同じ入力が生まれ直していた。


「私の手が、また誰かを傷つける前に」


 レーネの声が掠れた。


「止めたい」


 胸元の祈り数珠が白く光った。


 外部命令が強くなる。


 彼女の肩が大きく痙攣した。


 袖刃を振り切ろうとする力と、止めようとする力が同じ腕へ流れ込む。


 関節から、小さな軋みが聞こえた。


 アークの表示が赤く変わる。


【内部競合】


【運動系への過負荷】


【身体損傷の可能性】


「経路を閉じる?」


 エリシアが訊く。


 閉じれば、レーネの身体への負荷は減る。


 同時に、彼女自身の中断要求は、もう一度外部命令の下へ沈む。


「いや」


 俺はレーネを見た。


「決めるのは彼女だ」


 刃が震える。


 ダリオは動かない。


 押し返せば競合が激しくなる。


 だから、喉へ入る軌道だけを鞘で支え続けている。


 レーネの唇が動いた。


「停止を」


 細い声。


 外部命令の白光が一度、強く明滅する。


 彼女は歯を食いしばった。


「要求します」


 袖刃が下がった。


 ほんの半拍。


 完全に命令から解放されたわけではない。


 だが、彼女自身が選んだ半拍だった。


 ダリオはその瞬間を逃さない。


 刀を抜かず、鞘でレーネの手首を外側へ押す。


 刃の進路が退避路から外れた。


 同時に、自分の身体を二人の間へ入れる。


 西側の記録補助扉まで、一直線の空間が開いた。


 扉の向こうには狭い石段。


 湿った冷気。


 下方から、カイが手を上げている。


「道は開いてる!」


 リナがクラリス先生を支え、石段へ向きを変えた。


 その動きを見て、周囲の教会兵が我に返る。


「逃がすな!」


 左右から槍が向けられた。


 レーネが止まっても、他の兵士の命令までは消えていない。


 開いた道が、もう一度閉じようとしていた。


 エリシアが杖を天井へ向ける。


「全員、目を閉じて!」


 俺は反射的に瞼を閉じ、クラリス先生の顔を外套の陰へ押し込んだ。


 エリシアの火核が天井へ飛ぶ。


 狙ったのは兵士ではない。


 審問場を照らす聖印灯。


 火核が石英媒体の中心へ触れた瞬間、エリシアは熱を一点へ集中させた。


 聖印灯に残っていた光が、逃げ場を失う。


 白い閃光が破裂した。


 瞼を閉じていても、視界が赤く染まる。


 光に遅れて、乾いた破裂音が審問場を揺らした。


「目が――!」


 教会兵の叫び。


 槍の穂先が床や壁へ散る。


 正面から閃光を見た兵士たちは目を押さえ、互いの身体へぶつかった。


 レーネも刃を下げたまま動かない。


 命令層の白光は明滅していたが、彼女自身の停止要求と衝突し、次の動作へ移れずにいる。


「今だ!」


 リオネルが風刃剣を振る。


 幅の広い外皮風が回廊を走り、視界を失った兵士たちを傷つけずに押し戻した。


 槍が石床を転がる。


 その音を合図に、俺は目を開いた。


 白い残像が視界の中央へ残っている。


 それでも、退避路の位置は分かる。


 カイがクラリス先生を石段へ誘導する。


 リナが身体を支える。


 セリナとナタリアも続く。


 エリシアは扉の手前へ残り、二つ目の火核を杖先へ灯した。


 兵士を焼くためではない。


 近づけばもう一度閃光を起こすという牽制だ。


 ダリオがレーネと教会兵へ鞘を向けたまま、後ろ向きに退く。


「行け」


 閃光が兵士を止められるのは、数秒だけだ。


 だが、その数秒があれば、全員を広い審問場から一人ずつしか通れない保守階段へ移せる。


 追撃そのものを止めたわけではない。


 戦う場所を変えた。


 狭い階段なら、ダリオ一人でも追手を抑えられる。


 俺たちは記録補助扉を抜け、湿った石段へ入った。


 最後にエリシアとダリオが敷居を越える。


 直後、教会兵の怒声と足音が戻ってきた。


 逃走が終わったのではない。


 追いつかれるまでの時間を、ようやく手に入れたのだ。


     ◇


 リナがクラリス先生の身体を支え直した。


「右手を見せてください。歩きながら確認します」


 だが、先生は石段へ踏み出す前に足を止めた。


 給水路へは向かわず、審問場奥へ通じる地下通路を見る。


「他の拘束者は?」


「地下待機区画にいます」


 ナタリアが搬送簿を示す。


「非連結者九、工房技師四。移送準備中」


「先に行ってください」


 先生が言った。


「先生」


「私は名前も顔も公になりました。ここで私だけが消えれば、教会は他の十三人を代わりの証拠にします」


「退路は一つです。人数が増えれば時間がかかる」


「分かっています」


「残るつもりですか」


「いいえ」


 先生は俺を見た。


「全員で出る方法を考えます」


 自分を罰するために残るのではない。


 他の人間と一緒に出るため、作戦を変更しようとしている。


 それなら、止める理由はない。


「人員を増やす。給水路を一方通行にする。歩けない人を先に。ダリオ、追手をどれだけ止められる?」


「二刻は無理だ。半刻なら守る」


「十分です」


 リナが言った。


「十三人の状態確認に十分ではありません。でも、生命危険だけは選別できます」


「カイ、地下区画」


「道は見た。こっち!」


 計画は変わった。


 目的は変わらない。


     ◇


 地下待機区画の扉は、外からだけ開く聖印錠だった。


 レーネの停止で命令系統が一瞬乱れたのか、白光が明滅している。


 アークが錠の周期を読む。


 俺が位相を半拍ずらす。


 エリシアが留め金だけを温める。


 カイが細い爪を差し込む。


 三人の操作が重なり、扉が開いた。


 中には十三人。


 壁際へ座らされ、手首に銀線。


 年齢も服装も違う。


 老いた工房主。


 配達人。


 若い母親。


 十代半ばにしか見えない少年。


 彼らは扉が開いても、すぐには立たなかった。


 罠かもしれない。


 命令に従わなければ拘束具が光る。


 何度もそう教えられた顔だった。


 クラリス先生が前へ出た。


「私はクラリス=エルダーレンです」


 全員が先生を見る。


 公開審問の声を、地下でも聞いていたのだろう。


「ここから出ます。ただし、従うよう命じるつもりはありません。残る方を、安全だとは言えません。出る道も、安全ではありません」


 先生は隠さなかった。


「歩けない方。痛みの強い方。拘束具が熱を持っている方は、先に教えてください。出るかどうかは、その後で決めてください」


 一人の女性が手を上げた。


「子どもが、外に」


「名前と場所を記録します」


 ナタリアがすぐに板を開く。


「迎えに行けるとは約束できない。でも、あなたがどこへ出たかは必ず残す」


 工房主が立った。


「俺は出る。ここに残っても、聖都送りだ」


 少年も立つ。


 一人ずつ、自分で決める。


 十三人全員が出ることを選んだ。


     ◇


 拘束具を一つずつ完全に外す時間はない。


 外周の追跡線だけを黒鉛留め具で遮断し、人体側の残留出力は給水路出口で処理する。


 歩けない二人を、ダリオとリオネルが背負った。


 リオネルは回廊から地下へ降りてきていた。


「上は?」


「王国立会人が扉を開けるよう要求している。ザレスは別通路へ逃げた。マルティンは追跡命令を出した」


「レーネは?」


「動いていない」


 審問場の入口で、彼女は刃を下げたまま立っている。


 味方ではない。


 命令から完全に自由になったとも言えない。


 ただ、一度、自分が止まりたい理由を取り戻し、その意思で停止を要求した。


 それだけだ。


 今は、それ以上を求めない。


     ◇


 給水路は狭く、冷えていた。


 足元に浅い泥。


 天井から水滴。


 前をカイが進み、後ろをダリオとリオネルが守る。


 中央に拘束者たち。


 リナが一人ずつ呼吸と歩行を確認する。


 クラリス先生は自分で歩いている。


 右手は胸元へ抱えているが、足取りは崩れていない。


「遅くなりました」


 俺は隣で言った。


「何への謝罪ですか」


「王都を出てから、先生をここへ残した」


「私が残ると決めました」


「それでも」


「天城君」


 先生は歩きながら、こちらを見る。


「恩を返すために来たのですか」


「違います」


 答えはすぐに出た。


「先生が必要だからです。記録のためだけじゃない。俺たちが作るものを、俺たち自身の正しさだけで閉じないために」


「では、謝罪ではなく依頼を」


 先生らしい。


 俺は息を整えた。


「クラリス先生。俺たちと来てください」


「どこへ?」


「まだ決まっていません。学院へ戻る。そこから先は、王都がどう動くかで変わる。でも、今度こそ先生を置いていきません」


 先生は少しだけ目を伏せた。


「ずいぶん不確かな研究計画ですね」


「低データ域なので、推定誤差が大きいです」


「正直でよろしい」


 先生は笑った。


 疲れた、薄い笑み。


 それでも、学院で初めて俺の研究計画を見た時と同じ温度があった。


「では、共同研究者として参加します」


 師が弟子へ許可を与える言葉ではない。


 同じ問いを持つ者としての返答だった。


     ◇


 染物工房の床下へ出た時、外は騒然としていた。


 北区広場から「知識を奪うな」という声が続いている。


 裁きの塔の鐘が、逃亡を知らせる不規則な音を鳴らしている。


 ミーナが用意した馬車は三台。


 だが、十三人と救出班全員は乗れない。


「歩ける者は広場へ出る」


 クラリス先生が言った。


「先生、見つかります」


 カイが止める。


「もう見つかっています」


 先生は染物工房の扉を見た。


「隠れれば、教会は家を一軒ずつ探します。公開審問で記録を開いたのです。なら、私たちが生きて出たことも公開記録にしましょう」


 危険な判断だ。


 だが、筋は通っている。


 広場には市民がいる。


 教会兵もいる。


 王国監査官もいる。


 そこで先生へ攻撃すれば、それも多くの目へ残る。


「負傷者は馬車。歩ける者は中央。護衛は外周」


 ダリオが即座に配置を決めた。


「守る。走らない。群衆を押さない」


 扉を開ける。


 冷たい朝の光が入った。


 最初にクラリス先生が外へ出た。


 灰色の拘束服。


 自由になった両手。


 右手の指はまだ完全には動かない。


 それでも、自分の足で広場へ立った。


 声が止まる。


 何百人もの視線が先生へ集まる。


 次に、地下から十三人が出る。


 ナタリアが一人ずつ名前を記録する。


「クラリス先生!」


 学院生らしい声が上がった。


 先生は、その方向へ頭を下げた。


「私は生きています」


 大きな声ではない。


 だが、広場は静かだった。


 一番遠くまで届いた。


「記録も、外へ出ました。ここにいる方々も、番号ではなく名前を持つ人間です」


 塔の門から教会兵が現れる。


 槍を構える。


 群衆が逃げるかと思った。


 逃げなかった。


 一人の工房職人が前へ出て、停止札を掲げた。


 次に、市場の女性。


 学院生。


 老人。


 武器ではない。


 火を消すための札。


 機械を止めるための札。


 それを持った人々が、先生と教会兵の間へ並ぶ。


「知識を奪うな」


 誰かが言った。


 今度は叫びではない。


 はっきりした拒絶だった。


 教会兵の先頭にいた若い男が、槍を握っている。


 命令を待つ。


 塔から追跡鐘が鳴る。


 前へ出ろという符号。


 男の手が震えた。


 やがて、槍の石突きが地面へ下りた。


 完全に捨てたわけではない。


 攻撃姿勢を解いただけだ。


 それで十分だった。


「学院へ」


 リオネルが言う。


 群衆の中に、道ができる。


 俺たちはその道を進んだ。


 クラリス先生を隠さず。


 拘束されていた人々を置いていかず。


 開いた記録を、もう一度閉じさせないために。


 裁きの塔から学院へ向かう道は、逃亡路ではなかった。


 王都の人々が、自分たちで開いた最初の道だった。


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