第76話 退避路の合図
審問場の扉が閉じた直後、最初に動いたのはザレスだった。
「その男を拘束しなさい!」
教会兵が左右から進む。
六人。
正面に二人。
回廊へ続く階段に二人。
槍の先端には、魔力出力を乱す聖銀が埋め込まれている。
俺の出力は元から小さい。だが、媒体杖との接続を崩されれば、場干渉の精度が落ちる。
戦う場所ではない。
審問場には武装していない記録官と立会人が数十人いる。回廊の貴族たちは出口へ集まり、閉じた扉を叩いている。
ここで火球や圧縮場を使えば、逃げ場のない人間を巻き込む。
「何もしません」
俺は両手を上げたまま言った。
「抵抗する意思はない。拘束するなら、正式な命令と停止条件を示してください」
「今さら手続きで逃げられると思うな!」
ザレスの声が裏返る。
「逃げるためではありません。あなたたちが何を選んだか、記録へ残すためです」
投影板は消えた。
だが、審問場の内部記録はまだ動いている。
公開審問を中止しても、記録義務までは即座に消せない。
マルティンが杖を床へ置いた。
「天城ユウマ。両手を後ろへ」
彼の声は平坦だった。
俺は従うふりをして、クラリス先生との距離を測る。
六歩。
床の聖印線が三本。
先生の拘束具は、中央椅子の下を通って審問台へ接続されている。
白光が強すぎる。
言葉を削るだけの出力ではない。
移送用の固定状態へ切り替えたのだ。
このまま供給線を切れば、拘束具に残った出力が先生の腕へ戻る。
先に逃がす。
ほどく。
それから切る。
帝国の同期塔で使った順序は、ここでも変わらない。
装置の形が違っても、人体へ接続された出力の扱いは同じだ。
教会兵の一人が、俺の腕を取った。
その瞬間、審問場の照明が一度だけ暗くなった。
ほんの一呼吸。
完全に消えたわけではない。天井を巡る白い聖印灯の出力が落ち、中央の審問席と回廊が薄い灰色へ沈んだ。
事前に決めていた合図だった。
裁きの塔の地下には、修道院時代の給水路が通っている。給水路は審問場西側の床下を抜け、記録補助員が使う保守階段へつながっていた。
途中には、鉄格子が二枚ある。
一枚目はカイが前夜までに解錠している。
二枚目は錆で固着し、鍵が入らなかった。
その接合部をエリシアが加熱し、金属の膨張を利用して外す。格子が開いたら、カイが保守端子へ確認針を差し込む。
その信号が、審問場の照明を一度だけ暗くする手順だった。
つまり、地下給水路から西側保守階段までの経路が開いた。
だが、俺たちはまだ審問場の中央にいる。
退路が存在することと、そこへ辿り着けることは同じではない。
照明が戻る。
胸元のアークが受動監視から低出力監視へ切り替わった。
【退避経路の開通を確認】
【経路:地下給水路――西側保守階段】
【最終隔壁:記録補助扉】
【外部担当者:エリシア/カイ】
【人員担当者:ダリオ/リナ】
最後の記録補助扉は、まだ閉じている。
エリシアたちは今、その向こう側にいる。
俺たちが西側まで移動できなければ、開いた水路に意味はない。
照明が落ちた一瞬、俺の腕を掴んでいた教会兵の視線が天井へ向いた。
その隙に、掴まれた手首を相手の親指側へ捻る。
力で引けば勝てない。
握力が最も弱くなる方向へ、肘と肩を同時に沈めた。
指が外れる。
俺は腕を抜き、中央の審問席へ走った。
「止めろ!」
命令と同時に、左右から槍が伸びる。
一本目は正面。
穂先ではなく、柄の動きを見る。
踏み込みに合わせて身体を半歩ずらし、手の甲で柄を外側へ流した。聖銀の穂先が外套の脇をかすめ、石床へ火花を散らす。
二本目は死角から来た。
避けきれない。
身体を捻り、胸と首だけを射線から外す。
槍先が左肩の外套を貫いた。
布が裂ける音。
その直後に、熱い線を引かれたような痛みが走った。
深く息を吸う。
肺は動く。
左腕も上がる。
傷は浅い。
少なくとも、今すぐ止まる理由にはならない。
俺は槍の間を抜け、クラリス先生の椅子へ滑り込んだ。
膝が石床へぶつかる。
「先生、聞こえますか」
「ええ」
呼吸は速い。
顔色も悪い。
だが、視線は俺を捉えている。意識は明瞭だ。
「拘束具を外します。先に残留出力を床の聖印へ戻します。指先に熱、痺れ、強い痛みが出たら、すぐに言ってください」
「天城君」
「話は後で」
「あなた、肩から血が出ています」
「浅いです」
「それを判断するのはリナさんです」
この状況でも、先生だった。
「リナは退避路の入口にいます。合流したら診てもらいます」
「……分かりました。ですが、痛みが増したらあなたも申告してください」
「了解」
フィンの切離し爪を、先生の手首と拘束具の間へ差し込む。
幅は合った。
以前、俺が着けられた拘束具の傷から推定した寸法は外れていない。
だが、内部の構造が違う。
銀線が二重になっている。
外周線は審問場の聖印へ接続し、発話と魔力入力を制限している。
内周線は地下の固定台へ伸び、先生の身体を移送用の制御網へ移そうとしていた。
二本を一度に切れば、逃げ道を失った残留出力が先生の腕へ逆流する。
「アーク、接続順序を読む」
【解析】
【外周線:審問場聖印へ接続】
【内周線:地下移送固定台へ接続準備】
【現在、二経路の切替中】
【推定切替完了まで:十二拍】
十二拍。
それを過ぎれば、拘束具の制御先が審問場から地下へ移る。
床側の構造を読み直す時間はなくなる。
背後で靴音が重なった。
教会兵が向きを変え、こちらへ迫っている。
「天城ユウマから離れろ!」
クラリス先生の椅子を中心に、三人が半円を作る。
槍を大きく振れないほど近い。
だが、こちらも逃げられない。
回廊からセリナの声が響いた。
「被審問者の身体に異常が発生しています! 安全確認中の技術者へ攻撃すれば、王国立会規則への重大な違反となります!」
「そいつは技術者ではない! 異端者だ!」
「では、拘束具の安全を説明できる方を出してくださいませ!」
セリナが王国立会人を前へ押し出す。
兵士たちの足が一瞬鈍った。
教会の命令には従いたい。
だが、王国の正式な立会人を槍で押し退ければ、その行為も記録される。
セリナが作ったのは、安全ではない。
十数秒の迷いだった。
それで十分だ。
「外周を床へ戻す。内周はまだ切らない」
切離し爪の第一歯を外周線へ掛ける。
反対側の手で、黒鉛楔を床の聖印へ接触させる。
「逃がす」
短い入力を与えた。
拘束具の白光が黒鉛楔へ引かれる。
熱が指先へ伝わった。
楔の表面が赤くなり、焼けた鉱物の匂いが立つ。
出力の一部が人体側ではなく、床へ流れ始めた。
先生の右手がわずかに開く。
「感覚は?」
「親指と人差し指は戻りました。中指は痺れています。小指は、まだほとんど分かりません」
「痛みは増えていますか」
「いいえ。熱だけが少し弱くなりました」
【切替完了まで:八拍】
教会兵の一人が、王国立会人を押し退けた。
槍がこちらへ向く。
ナタリアが回廊から身を乗り出し、記録板を掲げた。
「被審問者への追加出力を記録中! 所属と氏名も残っています!」
「記録を止めろ!」
「もう三か所へ複写してる!」
兵士がナタリアを見た。
さらに一拍、遅れる。
「次に、外周と内周の同期をほどく」
第二歯を入れる。
爪を半回転させた。
重なっていた二本の銀線が、互いに逆向きへ震える。
拘束具が先生の手首を強く締めた。
「っ……」
先生が息を呑む。
「痛みは?」
「あります。手首から肘まで。でも、増え続けてはいません」
「中止を要求しますか」
「いいえ。続けてください」
本人の確認。
俺は第二歯をさらに押し込んだ。
金属が軋む。
二本の銀線の拍が外れる。
床へ落ちていた白光と、地下へ向かおうとしていた光が分離した。
【切替失敗】
【外周線と内周線の同期を解除】
【残留出力:黒鉛楔へ移行】
教会兵が迷いを振り切った。
「退け!」
槍が真っ直ぐ、俺の背中へ突き出される。
空気が鳴った。
次の瞬間、審問場上部の窓が外から割れた。
冷たい風が回廊を横切る。
槍の軌道が半尺ずれ、穂先が椅子の背へ突き刺さった。
木片が俺の頬を打つ。
灰色の外套が、砕けた窓から審問場へ舞い込んだ。
リオネルだ。
床へ着地する直前に風刃剣を抜く。
だが、刀身を包むのは鋭い刃風ではない。
幅の広い外皮風。
人の身体を切らず、武器へ横向きの力だけを与える流れだ。
「窓から入るのが貴族の礼儀か?」
俺は手を止めずに訊いた。
「正面の扉を閉じたのは教会だ!」
リオネルが剣を振る。
床を這った風が、迫っていた兵士たちの足首へ当たった。
二人の身体が横へ崩れる。
槍の石突きが石床を叩き、乾いた音を連ねた。
「招待客への礼を欠いたのは向こうだろう!」
「理屈が強くなったな」
「君ほどではない!」
リオネルが教会兵と俺たちの間へ入る。
時間ができた。
【残留出力:許容範囲】
【機械留め具の解放が可能】
第三歯を引く。
「切る」
銀線を断ち切るのではない。
最後に残っていた機械式の留め具だけを、外側へ引き開ける。
金属音が一つ鳴った。
拘束具が先生の手首から外れ、床へ落ちる。
黒鉛楔へ残った白光が流れ込み、表面に細かな亀裂が走った。
楔は二つに割れた。
光が消える。
先生の両手が自由になった。
「指を動かせますか」
先生が右手をゆっくり開く。
親指。
人差し指。
中指。
薬指は半分。
小指だけが、わずかに動いた。
「完全ではありません。でも、動きます」
「立てますか」
「試します」
先生が椅子の肘掛けへ左手を置いた。
膝に力を入れた瞬間、身体が傾く。
俺が右側から支えようとした。
左肩に痛みが走り、腕へ力が入らない。
その時、審問場西側の壁から鈍い衝撃音が響いた。
一度。
二度。
三度目で、記録補助扉の蝶番が内側へ膨らんだ。
赤熱した留め金が床へ落ちる。
扉が勢いよく開いた。
冷たい湿気と、古い水路の泥の匂いが流れ込む。
扉の向こうには狭い石段。
下方には、開かれた地下給水路が見える。
エリシアが最初に飛び込んできた。
紅のリボンが、薄暗い室内で揺れる。
続いてカイ。
その後ろにリナとダリオ。
ようやく、退避路が審問場へつながった。
「一人で始めないと言ったでしょう!」
エリシアが俺の肩の血を見て叫ぶ。
「始めたのは向こうだ」
「そういう問題ではないわ!」
リナがすぐにクラリス先生の左側へ回った。
「先生、私につかまってください。右手は使わないで」
「歩けます」
「歩けるかどうかは、今から確認します」
先生が一歩踏み出す。
膝が揺れた。
俺が背中へ手を添える。
先生は右腕を俺の肩へ回しかけ、外套に広がった血を見て位置を変えた。
「こちらでは支えられませんね」
「浅いです」
「その話は後で伺います」
先生は俺の傷へ触れないよう、左手でリナの腕を取った。
カイが石段の位置を指す。
「この扉から三段下りたら保守階段。そこから給水路へ出る! 二枚目の格子も開いてる!」
退避経路は見えた。
あとは、審問場を横切って、全員をそこへ入れるだけだ。
回廊では、セリナが王国立会人を壁際へ退避させていた。ナタリアは侍女の外套を脱ぎ、記録板を胸へ抱えている。
「全文、外へ出た!」
彼女が叫ぶ。
「学院、写本ギルド、価格網。三つとも受領を確認!」
「侍女は口数を半分にと言ったはずです!」
セリナが返す。
「もう変装は終わり!」
教会兵の一人がナタリアへ槍を向ける。
リオネルの風が床を横切った。
穂先が逸れ、石壁へ突き刺さる。
「回廊から下りろ!」
リオネルが叫ぶ。
セリナが立会人を西側階段へ誘導する。
ナタリアも記録板を抱えたまま続いた。
審問場の人の流れが、開いた記録補助扉へ向き始める。
クラリス先生の拘束は外れた。
退避路も開いた。
残る二十歩を越えれば、先生をここから連れ出せる。
少なくとも、その時まではそう思っていた。




