第75話 公開異端審問
第一鐘が鳴った時、クラリス先生は学院北棟から連れ出された。
旧風見塔の上階からは、馬車そのものは見えない。
だが、学院北門の聖印灯が一つずつ白くなり、街道沿いの追跡柱が順番に応答する。それを古い風向板が拾い、細い振動として伝えていた。
「北門を出た」
リオネルが言う。
「護衛は予定より二人多い。前後に王国監査官。教会兵は六」
「先生の状態は?」
リナが訊く。
「歩いて馬車へ入った。支えられた様子はない」
歩ける。
それだけで安心してはいけない。
拘束具の銀線が指先を圧迫している。取り調べが何日続いたかも分からない。人は歩ける状態のまま、十分に傷つく。
「人員班、学院へ」
リオネルが短い位相符号を送った。
ミリーナが学生たちを引き取るための合図だ。
セリナとナタリアは、すでに裁きの塔へ向かっている。
ダリオ、カイ、ミーナ、エリシアは地下給水路の確認。
俺は、別の馬車で塔へ入る。
正面からではない。
審問に提出する押収資料の箱へ紛れて。
「また箱に入るのか」
俺が言うと、ミーナは表情を変えなかった。
「五日入れたんだから、一刻くらい誤差でしょ」
「人間を体積で評価しないでほしい」
「急いで。先生の馬車の方が先に着く」
フィンの工具包みとクラリス先生の鍵を抱え、木箱へ入る。
今度の箱はさらに狭い。
上には、押収された偽の共通魔法コード、黒鉛板、未登録媒体、退避札が載せられた。
教会が異端の証拠として集めたものだ。
その下に、異端の中心と呼ばれている本人が入っている。
分類としては分かりやすいのかもしれない。
◇
裁きの塔へ着いたのは、第二鐘の少し前だった。
箱の外で、搬入記録を読む声がする。
「押収資料、七箱。未登録媒体、三十二。違法手順書、九十六。非連結者用補助具、十一」
「封印を確認」
「審問場脇の証拠庫へ」
台車が動く。
床の材質が変わった。
石畳。
塔内の磨かれた黒石。
短い傾斜。
左へ二度曲がる。
以前、俺が拘置された区画とは違う。
アークの種は光を落としている。完全停止ではない。外部へ信号を出さず、振動と温度だけを記録する受動監視状態だ。
【記録中】
胸元に触れた表示を、指先で確認する。
箱が床へ下ろされた。
人の気配が遠ざかる。
外板を二回、間を置いて三回叩く音。
セリナが手配した証拠係の合図だ。
内側から留め具へ細い爪を入れる。
音を立てずに一つ外す。
蓋を少し持ち上げた。
薄暗い証拠庫。
壁一面に封印棚が並び、中央の机には押収品の目録が積まれている。扉の向こうから、審問場へ集まる人々の足音が聞こえた。
箱から出る。
白衣ではなく、教会の記録補助員が着る灰色の外套を羽織った。
鏡はない。
似合っているかは重要ではない。
見られる前に役割のある人間として動けば、人は服装の細部まで確認しない。
目録板を一枚持ち、廊下へ出た。
◇
審問場は、以前俺が尋問された部屋より広かった。
半円形の床。
中央に一脚の椅子。
その周囲を囲む三重の聖印線。
正面には審問官席。
左右に学院と王国の立会席。
上階の回廊には、許可を得た貴族、聖職者、学院教授が並んでいる。
壁には四枚の投影板。
北区広場。
学院講堂。
王国監査部記録室。
聖教会王都支部の礼拝堂。
四か所へ同じ映像を送る。
公開審問。
だが、中央の人間だけが自由に話せない構造だった。
クラリス先生は、すでに椅子へ座っていた。
学院の講師服ではない。
飾りのない薄灰色の服。
透写羽ペンも、研究手帳もない。
両手には銀線拘束具。
右手の指が、膝の上でわずかに震えている。
それでも、背筋は伸びていた。
顔色は悪い。
目は、諦めていない。
先生が回廊を見上げた。
一瞬だけ、視線が俺のいる記録補助員の列を通る。
気づいたかは分からない。
気づいても、表情を変えない人だ。
◇
第三鐘が鳴る。
マルティン=セヴェル審問官が立った。
黒衣。
銀の聖印。
以前と同じ、書類を読むような目。
「これより、クラリス=エルダーレンに対する公開異端審問を開始する」
声が投影板を通じ、四か所へ送られる。
「被審問者は、王立魔導学院准教授の地位を利用し、非連結者天城ユウマによる未登録術式研究を支援。封印資料の危険項目を閲覧させ、疑似スキル互換層、外部演算核、大域同期素子Ωに関する異端思想を広めた」
クラリス先生は黙って聞いている。
「さらに、十二年前、外部補助術式研究班、通称第三演算班に所属。低整相者を用いた危険実験により、一名の魔法回路を不可逆的に損傷させた。過去の失敗を知りながら、同系統の研究を再開した責任は重い」
審問場の空気が揺れる。
回廊の貴族たちは、事故という言葉に反応した。
北区広場の投影には、多くの市民が映っている。
学院講堂には学生たち。
マレクの姿もあった。
「被審問者。事実を認めるか」
クラリス先生は、すぐには答えなかった。
右手の指を一度だけ開こうとする。
銀線が白く光る。
言葉を発する前に、聖印線が声の位相を測っている。
「第三演算班に所属していたことを認めます」
先生の声は穏やかだった。
「事故が起きたことも、その場にいたことも、事故後の封印報告書へ署名したことも認めます」
回廊に小さなざわめき。
マルティンの目が細くなる。
「ならば、同じ異端へ再び手を貸した理由を述べよ」
「その問いには、前提の確認が必要です」
「前提はすでに示した」
「いいえ」
先生は静かに首を横へ振る。
「示されたのは、事故が起きたことと、私がそこにいたことです。事故原因は示されていません」
「外部補助術式の暴走だ」
「なぜ暴走したのですか」
マルティンは一拍、黙った。
「未熟な異端研究であったからだ」
「それは分類であって、原因ではありません」
クラリス先生らしい返しだった。
まず問いを返す。
相手が曖昧な言葉へ逃げた時、定義へ戻す。
「停止語は、なぜ外部補助核へ届かなかったのですか」
「――」
「反力処理の必要性は、なぜ実験班へ開示されなかったのですか」
「被審問者。質問を許可した覚えはない」
「では、三つ目だけ」
先生はマルティンではなく、投影板を見た。
「Ω遮断に関する頁を黒塗りにしたのは、誰ですか」
学院講堂の映像が揺れた。
学生たちが互いを見る。
マルティンが杖で床を打つ。
「被審問者の発言を、問いへの回答に限定する」
三重の聖印線が強く光った。
クラリス先生の声が途中で薄くなる。
拘束具と床の聖印が同期し、許可されていない発話を消している。
恐怖や痛みではない。
言葉そのものを、命令への不要入力として切り捨てている。
アークの種が胸元で微かに反応した。
【停止要求の無効化ではない】
【発話入力の選別を検出】
【拘束対象の同意:未確認】
今は止めない。
先生は、この構造を承知で壇上へ来た。
先に記録を開く。
◇
学院側立会席から、ザレス副学長が立った。
黒衣に聖印指輪。
学院の人間でありながら、教会側と同じ色を着ている。
「クラリス准教授」
声には、勝者の落ち着きがあった。
「あなたは過去の失敗を、資料不足という言葉で他者へ転嫁しようとしている。だが、実験を行ったのは第三演算班です。危険を承知で低整相者を試験台にした。その事実は変わらない」
先生の顔に痛みが走った。
銀線のせいではない。
十二年前の友人を思い出している。
「変わりません」
先生は答えた。
「私たちが未熟だったことも、停止できない装置を人へ接続したことも、友人の身体を傷つけたことも。私は、その責任から逃げません」
ザレスの口元がわずかに上がる。
「ならば――」
「だからこそ、事故原因を一つへまとめることを拒みます」
先生の声が重なった。
「実験者の未熟さ。停止条件の欠落。反力処理の不足。閲覧制限。認可した学院。異端研究として結果だけを封じた教会。すべてを残さなければ、責任を取ったことにはなりません」
「詭弁です」
「検証です」
穏やかな声だった。
だが、一歩も退かなかった。
俺は記録補助員の列から前へ出た。
「その検証に必要な鍵を持っています」
審問場の全員がこちらを見る。
クラリス先生の目が、初めて大きく開いた。
マルティンの顔には、わずかな驚き。
ザレスの顔には、理解より先に嫌悪が浮かんだ。
「貴様――」
灰色の外套を外す。
「天城ユウマ」
北区広場が騒然となる。
学院講堂では、誰かが立ち上がった。
「指名手配中の異端者が、裁きの塔へ侵入した!」
ザレスが叫ぶ。
「記録上は、押収資料と一緒に搬入された」
「ふざけるな!」
「分類としては間違っていないと思います」
こういう時に皮肉が出るのは、たぶん良い癖ではない。
マルティンが杖を上げた。
教会兵が審問場の入口を塞ぐ。
「動くな。変な行動をすれば、その場で封殺する」
「何もしません」
両手を見せる。
媒体杖は外套の内側にあるが、触れない。
「正式な証拠提出を求めます」
「貴様に発言権はない」
「中心署名として告発されている本人です。しかも、第三演算班共同監査記録の照合鍵を持っている。公開審問で証拠を拒否した事実も、今、四か所へ記録されています」
投影板を見る。
切れば、公開審問を教会自身が止めたことになる。
続ければ、鍵を拒む理由を説明しなければならない。
公開という形式が、初めて教会側を縛った。
マルティンはすぐに決めなかった。
回廊の貴族たちが囁き合う。
王国監査部の立会人が、隣の記録官へ何か確認している。
セリナが静かに口を開いた。
「王国監査立会規則では、共同保存記録の照合鍵が提出された場合、真正性確認を拒むには三者の理由書が必要です」
アークロウ家の令嬢としての声。
誰も、後ろに立つ地味な侍女がナタリアだとは見ていない。
「ここで確認する必要はない」
ザレスが言う。
「別室で――」
「公開審問へ提出された証拠を、非公開の別室へ移す理由は?」
セリナが問い返す。
「安全確認です」
「ならば、投影したまま安全確認を」
ザレスが彼女を睨む。
「アークロウ家は、異端者に与するのですか」
「家の判断を述べた覚えはありません。記録手続きを正確にしているだけです」
クラリス先生が、ほんの少し笑った。
自分が何度も使った言葉を、別の人間が返している。
◇
王国監査部の立会人が、照合を要求した。
教会だけが拒めば、共同監査制度そのものを否定することになる。
マルティンは鍵の受領を認めた。
審問場の中央へ、二枚の記録板が運ばれる。
一枚は学院封印書庫の写し。
一枚は聖教会王都支部の監査写し。
どちらも、第三演算班事故記録と表示されている。
だが、頁数が違った。
学院側、四十二頁。
教会側、三十九頁。
「三頁の差」
ナタリアが侍女の位置から呟く。
声は小さい。
記録板はすでに動いている。
俺は鍵を中央の接続溝へ置いた。
二本の位相線が、それぞれの記録板へ伸びる。
最初は何も起きない。
石英が冷たいまま沈黙する。
失敗か。
十二年前に鍵が失効している可能性。
記録がさらに改竄された可能性。
俺の推定が間違っていた可能性。
焦りが胸を上がる。
出力を足したくなる。
だが、鍵は発動装置ではない。
強く押せば開くものではない。
位相差を観測する。
学院側は三拍。
教会側は四拍。
同じ事故を、違う更新周期で保存している。
鍵の二本の線は、同時接続のためではない。
互いの記録が更新された時刻差を埋めるための遅延線だ。
「Λ」
俺は小さく言った。
因果遅延素子。
鍵に古代素子そのものが入っているわけではない。遅延の処理手順だけが刻まれている。
「三拍目を保持。四拍目へ照合」
短い入力を与える。
魔力は最小。
媒体杖を使わず、石英鍵へ指先で位相を置くだけ。
二本の線が光った。
【共同監査差分を検出】
【欠落頁:三】
【更新履歴:封印前に閲覧制限】
審問場の空気が止まった。
三枚の頁が、投影板へ浮かぶ。
【外部補助核における停止入力の平滑化を確認】
【恐怖・痛覚・拒絶を局所ノイズとして分離】
【反力ダンプ未接続時、人体側への逆流可能性】
【Ω参照入力を切断しない状態での有人試験を禁止】
禁止。
事故後に書かれた注意ではない。
事故の六日前に記録されている。
その下に、閲覧制限命令。
聖教会監査官の印。
学院上層部の承認印。
理由欄。
【神授術式の根幹解釈に抵触するため、実験班への開示を保留】
クラリス先生が目を閉じた。
安堵ではない。
十二年前、知らされなかった一文を、今初めて読んでいる。
もし知っていれば。
事故を止められたかもしれない。
友人の魔法回路は失われなかったかもしれない。
だが、可能性は過去を戻さない。
「これで、私たちの責任が消えるわけではありません」
先生は言った。
「ですが、私たちだけの責任ではなかったことは、記録してください」
ナタリアの指が記録板を走る。
全文。
署名。
頁番号。
更新時刻。
学院講堂の投影板の隅に、小さな複写印が灯った。
写本ギルドへ届いた合図だ。
次に、職人街の価格掲示網。
石英の価格欄が一瞬消え、代わりに三つの頁番号と照合署名が表示される。
記録は塔の外へ出た。
◇
「投影を切れ!」
ザレスが叫んだ。
マルティンより早かった。
四枚の投影板のうち、礼拝堂向けが消える。
王国監査部向けが揺れる。
学院講堂と北区広場は残った。
一つの命令では止まらないよう、送信係が分かれている。
先生たちが守ってきた手続きの分散が、今は教会の遮断を遅らせている。
北区広場の映像から、声が届いた。
「知っていたのか!」
誰かが叫ぶ。
「止め方を隠したのか!」
別の声。
やがて、短い言葉が重なる。
「知識を奪うな!」
一人。
二人。
広場の端から中央へ広がる。
「知識を奪うな!」
学院講堂でも、学生が立ち上がった。
マレクが、胸元から小さな紙を出す。
何度も書いた停止語。
戻れ。
彼はその紙を隠さなかった。
頭上へ掲げた。
◇
審問場の奥で、赤い封蝋が光った。
マルティンの記録台へ、新しい命令書が現れる。
教皇印ではない。
枢機卿の赤帽印。
ヴァレン。
先生が警戒していた、教会の政治を扱う男だ。
マルティンが内容を読む。
表情は変わらない。
だが、杖を握る指が強くなる。
「公開審問を中止する」
北区広場から怒号が上がる。
「クラリス=エルダーレンおよび天城ユウマを、聖教会特別管理下へ移す。共同監査記録は危険文書として封印。審問場内の全員は、確認終了まで退室を禁ずる」
扉が閉まる。
三重の聖印線が立ち上がる。
投影板が一枚ずつ暗くなる。
クラリス先生の拘束具から、強い白光が走った。
右手の指が固く閉じる。
「先生!」
俺が一歩出る。
教会兵の槍が向けられた。
先生は痛みに耐えながら、俺を見た。
「天城君」
声が聖印に削られる。
それでも、聞こえた。
「記録は、外へ?」
「出ました」
「では」
先生は、ほんの少しだけ笑った。
「次の手順へ進みなさい」
問いは残った。
記録は開いた。
残るのは、先生をここから連れ出すことだった。




