第78話 知識を奪うな
王立魔導学院の正門は、閉じていた。
裁きの塔から学院まで、歩けば半刻ほど。
その間に群衆はさらに増えた。
北区の職人。
学院生。
市場の商人。
ただ審問を見に来ただけの者。
誰も同じ服を着ていない。
同じ武器も持っていない。
掲げている札も、文字も、形も少しずつ違う。
それでも、学院前へ着いた時には、一つの言葉が通りを満たしていた。
「知識を奪うな!」
学院の高い鉄門には、青白い結界が張られている。
門の内側に学院警備員。
その後ろに学生たち。
マレク、トマス、ミリーナの姿も見えた。
クラリス先生が門の前で止まる。
歩き続けたせいで、顔色はさらに悪い。右手の指先は赤く腫れている。
リナが何度も休むよう言ったが、先生は学院へ入るまで歩くと決めた。
自分で決めたからといって、身体の限界が消えるわけではない。
「ここで止まります」
リナが先生の前へ出た。
柔らかい声ではあるが、退く余地のない言い方だった。
「門が開くまで座ってください。右手の感覚を確認します」
「ですが、学生たちが――」
「学生を守るために、先生が倒れてよいとは誰も決めていません」
先生は一瞬、言葉を失った。
俺が鉱石倉庫で研究記録を燃やそうとした時、エリシアに同じようなことを言われた。
自分を差し出すことと、責任を取ることは同じではない。
「従ってください」
俺が言うと、先生は困ったように眉を下げた。
「教え子二人から、そろって休むよう叱られるとは思いませんでした」
「医療担当として、座ってください」
リナが念を押す。
「ですが、医療担当として数えられるのはリナさん一人でしょう。天城君の意見まで、同じ一票として扱うのは不正確です」
「俺は医療判断の補助です。半人分なら数えてください」
「では、一・五対一ですね」
計算の問題ではない。
それでも先生が石段へ腰を下ろしたので、目的は達成した。
◇
門の上にある投影板が灯った。
ゼノス=グランヴェル学院長の姿が現れる。
威厳ある学院長服。
手には学院長杖。
背景は中央棟の執務室だ。
「クラリス准教授」
低く、よく通る声。
「公開審問で何が起きたかは把握しています。共同監査記録については、学院として独立に確認します」
「確認は必要です」
クラリス先生が答える。
「ですが、門を開けてください。拘束されていた方々に治療が必要です」
「学院は治療院ではありません」
ゼノスの視線が、先生の後ろにいる十三人と群衆へ動く。
「現在、王都では騒乱が発生しています。指名手配中のユウマ・アマシロと、裁きの塔から無断退去した者たちを受け入れれば、学院全体が反乱拠点と認定される」
「すでに、低魔力学生十七名を保護しているでしょう」
「彼らは学院生です。事情確認を授業へ戻しました」
「では、私は学院准教授です」
「あなたは正式拘束中です」
「その正式手続きの根拠が、先ほど公開記録上で崩れました」
「崩れたかどうかを判断するのは学院と王国です」
ゼノスの言葉は、以前と変わらない。
秩序。
管理。
国益。
何を守るかを決める権限は、管理する側にあると信じている。
「学院長」
俺は投影板を見上げた。
「門を閉じれば、学院は守れますか」
「君と問答するつもりはない」
「外にいる負傷者を入れず、内側の学生へ記録を見せない。それで建物は残るかもしれない。でも、何のための学院が残るんですか」
「理想で組織は維持できない」
「人を外へ置くことだけで維持できる組織も、長くは残りません」
ゼノスの表情は動かなかった。
「門は開けません」
投影が消える。
結論だけが残った。
◇
門の内側で、学生たちがざわめいた。
トマスが警備員へ何か言っている。
マレクは結界柱の根元を見ていた。
ミリーナが彼らを止める様子はない。
「破るの?」
カイが訊いた。
「破れば、学院の結界全体が警戒状態へ入る」
俺は門の干渉縞を見る。
王都式の多層結界。
外からの衝撃には強い。
内側の開門入力を受けた時だけ、中央から順に膜厚を落とす。
「内側からなら開けられる」
「でも、学院長命令で固定されてる」
「固定されているのは魔法側だ。門扉そのものの反力錘は残っている」
昔の学院門は、魔法結界がなくても開閉できるよう、大きな釣合錘を地下へ持っている。
停電時にも閉じ込めないための物理的な退避機構だ。
普段は使われない。
だが、共通魔法コードの安全図には、魔法が止まった時の手動経路を必ず描いた。
マレクが、まさにその図を見ている。
彼は結界柱ではなく、その横の小さな鉄蓋へ手を掛けた。
トマスが工具を差し込む。
蓋が開く。
中から太い鎖が出た。
「引け!」
トマスが叫ぶ。
学生たちが鎖を掴む。
一人。
三人。
十人。
釣合錘がゆっくり上がる。
学院長命令を解除したわけではない。
結界を破ったわけでもない。
魔法が人を閉じ込めた時のため、最初から存在していた手動退避経路を使っている。
「もう少し!」
カイが外側から声を掛ける。
門が軋む。
青白い結界は閉じたままだ。
鉄扉だけが、内側へ一尺ほど開いた。
その隙間へ、マレクが手を伸ばす。
小さな木札。
【開門時、結界停止】
門扉の位置を検出する安全端子へ、札を差し込んだ。
結界が開いた門を誤って焼かないための停止入力。
青白い膜が揺れる。
一層目。
二層目。
三層目。
順に光を落とす。
門が開いた。
学院長ではない。
俺でもない。
内側にいた学生たちが、自分たちの手で開けた。
「先生!」
マレクが外へ走る。
クラリス先生の前で足を止め、泣きそうな顔で頭を下げた。
「戻ってきてくれたんですね」
「ええ」
先生は腫れた右手ではなく、左手で彼の肩に触れた。
「あなたたちが、戻る場所を開けてくれました」
◇
治療棟はすぐに満床になった。
リナと学院の治癒師たちが、裁きの塔から出た十三人を緊急度で分ける。
クラリス先生は三番目。
俺は七番目だった。
「肩は浅いと言った」
「浅いかどうかを決めるのは誰ですか」
リナが訊く。
「医療担当です」
「分かっているなら、そこへ座ってください」
治療台へ座る。
外套を外すと、左肩の布が血で貼りついていた。
「浅いですが、汚れています。縫うほどではありません。洗います」
「ほら」
「何が、ほら、ですか」
「推定は合っていた」
「次に同じ言い方をしたら、消毒をゆっくりします」
「医療倫理上、問題がある」
「冗談です」
リナは笑わなかった。
消毒は普通の速度でも十分に痛かった。
隣の台では、クラリス先生の拘束痕を学院の治癒師が調べている。
「神経損傷は軽度です」
リナが途中で確認に入り、指を一つずつ動かしてもらう。
「小指の感覚低下は、圧迫によるものと思われます。今すぐ治癒出力を上げず、腫れを冷やします。細胞配向はしません」
「記録は取れますか」
先生が訊く。
「今日は羽ペンを持たないでください」
「左手なら」
「駄目です」
「厳しいですね」
「先生が規則を破るからです」
治療棟に、小さな笑いが起きた。
重傷者もいる。
泣いている家族もいる。
笑えば何かが解決するわけではない。
それでも、裁きの塔にはなかった音だった。
◇
学院講堂では、公開審問の複写が壁いっぱいに投影されていた。
停止条件が黒塗りにされた頁。
反力処理の危険。
有人試験禁止の記録。
ナタリアが署名の照合方法を説明する。
「あたしの言葉を信じる必要はありません。この三つの署名を見てください。学院写し、教会写し、共同監査鍵。どれか一つだけなら偽造できます。でも、更新時刻の差まで一致させるには、十二年前の両方の原記録へ触れる必要がある」
学生だけではない。
職人街の人間。
王都新聞社の記者。
下町の住民。
穏健派の聖職者も講堂の隅にいる。
「教会が全部、悪いのですか」
一人の学生が訊いた。
単純な問い。
だが、大切な問いだ。
クラリス先生は治療棟から講堂へ来ていた。
椅子に座り、右手を冷却布で包んでいる。
「いいえ」
先生は答えた。
「教会のすべての人が記録を隠したわけではありません。学院のすべての人が事故を望んだわけでもありません。第三演算班の私たちも、被害者であるだけではありません」
「でも、隠した人がいる」
「います」
「なら、その人たちの本や聖印を壊せば――」
「壊してはいけません」
先生の声が、講堂を静かに切った。
「記録を隠した者の記録まで消せば、誰が、いつ、何を選んだか分からなくなります。教会の書物には、危険な命令だけでなく、人を救った治癒手順や災害記録もあります。怒りを、次の黒塗りに使ってはいけません」
学生は俯いた。
「では、どうすれば」
「開くのです」
先生は言った。
「読める人を増やす。異議を記録する。使う時は止め方を先に決める。間違えた者を消すのではなく、間違いを検証できる形で残す。それが、知識を奪わせないということです」
学生たちは、閉じられていた門だけでなく、隠されていた記録も、自分たちの手で開き始めた。
だが、その動きを再び封じようとする命令が、学院の中央棟で起動しようとしていた。




