第70話 逆転の光
第三塔から脱出した俺たちは、峡路西側の観測所へ駆け込んだ。
石造りの小さな部屋。
壁の半分は昨日の砲撃で崩れ、東側の空が直接見える。
地図の上には、三基の停止箱を示す光点が浮かんでいた。
確認線は生きている。
物理接続も外れていない。
だが、三つの光点はすべて黄色だった。
【対象署名を喪失】
【停止判定を保留】
帝国軍の砲兵陣地では、二十四基のレギオン・コアが起動を始めている。
大型結晶槽から光が引き出され、三基の同期塔へ流れ込む。
離れた観測所の床まで震えた。
残り一刻。
署名を解く時間はない。
「変化の規則は?」
俺が訊く。
ノエルが三塔から届いた記録を並べた。
「周期も周波数も、同じ順番ではありません。短くなった後に長くなる場合もあれば、二つへ分かれる場合もあります」
「完全に無作為か?」
「おそらく違います。でも、次のR-IDを予測するには記録が足りません」
エドガーが、何の規則もなく位相を作り続けられるとは思えない。
どこかに種と計算手順がある。
だが、それを見つけることと、兵器を止めることは同じではない。
相手が次にどの名前を名乗るかを当て続けても、こちらが一度外せば砲撃は通る。
「予測しなくていい」
俺は言った。
「しかし、R-IDを確定できなければ、別の装置を止める危険があります」
「名前を最終判定に使わない」
ノエルが顔を上げた。
第二型を作った時、彼自身が言っていた。
R-IDが名前なら、処理署名は歩き方だ。
エドガーは名前を変え続けている。
だが、レギオン・コアにさせたいことまでは変えられない。
命令を受け取る。
人間の入力を取り込む。
恐怖や痛みを抑制する。
停止意思を切り離す。
指揮命令を優先する。
出力を続ける。
順番を変えれば、兵器として正常に動かなくなる。
「ノエル。位相の値をいったん隠して、内部で起きた処理の順番だけを並べてくれ」
「時間も消しますか?」
「絶対値は消す。処理同士の間隔の比率だけ残す」
ノエルが記録を書き換える。
変わり続ける周波数と位相を除き、出来事だけを残す。
一つ目。
【命令受信】
【入力取り込み】
【恐怖抑制】
【停止経路分離】
【指揮命令優先】
二つ目。
外側の署名は違う。
それでも内部の順番は同じだった。
三つ目も同じ。
処理の間隔も、ほぼ同じ比率で並んでいる。
「見つけました」
ノエルの声が震えた。
「エドガーは鍵を変えています。でも、鍵を使う扉の仕組みは変えていない」
顔を変えても、歩き方は残る。
俺たちが第二型へ入れようとした考え方は、間違っていなかった。
ただ、固定R-IDを必須条件として残したため、そこから先へ進めなくなっていた。
◇
フィンが確認線の通信板を開く。
「R-IDの照合を切るのか?」
「候補を探すためには使う。ただし、最後の条件から外す」
「別の装置を拾ったら?」
「三基の箱が、自分の接続先で処理順序を独立に見る。命令受信、停止無効化、指揮優先。すべてが同じ順で起きた時だけ、禁止挙動を確定する」
「間に合うの?」
エリシアが訊く。
「人間がその瞬間へ反応する必要はない」
俺は答えた。
「箱の内部で、命令を受け取った後の処理を自動照合する。俺たちは今、何を禁止挙動として見るかを決めるだけだ」
何分の一秒という時間で爪を引くわけではない。
人間が先に規則を決め、装置が処理の順番を観測する。
最終的に停止を選ぶのは人間だが、その選択は総攻撃が始まる前に確認札として渡せる。
アークの種へ、三塔の観測記録を集める。
Ωは使わない。
三基を一つの演算へまとめない。
アークが送るのは、停止命令でも正解のR-IDでもない。
新しい照合手順だ。
各箱は同じ手順を受け取る。
だが、判断はそれぞれの箱が、自分の観測記録に基づいて行う。
一基が誤っても、残る二基はその結論へ従わない。
「アーク。固定R-IDを候補抽出だけに使う。最終判定は、処理順序、停止無効化、指揮優先。三系統は独立したまま」
【判定規則を更新】
【固定R-IDを必須条件から除外】
【処理署名による照合を開始】
【三系統の独立検証を維持】
一基目。
【命令受信を確認】
【入力者の停止意思を検出】
【停止経路の分離を確認】
二基目。
【恐怖反応を検出】
【本人同意のない抑制処理を確認】
【退避入力の破棄を確認】
三基目。
【指揮命令による上書きを確認】
【媒体切離しの無効化を確認】
【出力継続を確認】
黄色だった光点が、一つずつ赤へ変わる。
【禁止挙動:三塔で独立確認】
対象を見失ったのではない。
俺たちはようやく、装置が何と名乗っているかではなく、何をしているのかを見つけた。
◇
中央観測所から、ナタリアの通信が入った。
『グレインベル側の監査端末に警告! 防衛砲二基です!』
昨日、改修が間に合わなかった旧式砲。
帝国の総攻撃へ対抗するため、防衛指揮官が指揮台から出力を固定している。
【安全担当者の停止経路:切断】
【指揮命令による出力固定:確認】
【禁止挙動候補】
帝国の塔へ置いた停止箱が、連邦砲を遠隔で止めようとしているのではない。
グレインベル側の補助核へ接続した監査端末が、同じ規則で味方の挙動を見ている。
所属を判定条件に使わない。
その規則が、帝国へ向く前にこちらへ向いた。
防衛指揮官から通信が入る。
『帝国を止める装置ではなかったのか! なぜこちらの砲へ警告を出す!』
「安全担当者の停止回路を外しているからです」
『敵の斉射へ対抗するためだ! 途中で臆病な砲手に止められては、結界が破られる!』
「媒体が割れた時も、現場から止められません」
『損傷は指揮台で見る。例外命令を出せ!』
「その権限は、俺にもアークにもありません」
『設計者だろう!』
「設計者一人で例外を作れないようにしました」
通信の向こうで、罵声が上がった。
『町が焼かれても同じことを言うのか!』
胸を抉られる問いだった。
連邦側の火力を二基落とせば、防衛力は下がる。
帝国の砲撃を一発でも止め損ねれば、東区へ届く。
救護所。
ルカとミリィ。
研究所へ銀線を差し出した人々。
守りたい相手の顔が、判断を曲げようとする。
倉庫でエリシアへ答えた言葉を思い出した。
負けるかもしれない。
それでも、味方だからという理由で例外を作れば、倫理仕様は敵を妨害するための兵器になる。
「同じことを言います」
俺は答えた。
「帝国兵でも、連邦兵でも、人間から止まる権利を奪う装置は封鎖対象です。二基は、安全停止経路を戻せばすぐ使えます」
『間に合わなかったらどうする!』
「その結果からも逃げません。でも、停止できない兵器で町を守ることを、安全とは呼べない」
通信が切れた。
指揮官が納得したわけではない。
俺も、自分の判断が正しい結果を生むと証明できない。
それでも例外は出せない。
そもそも、その権限は作っていない。
しばらくして、連邦砲の一基が黄色へ戻った。
【安全停止経路の復旧を確認】
【封鎖対象外】
続いて、もう一基。
【安全停止経路の復旧を確認】
【封鎖対象外】
防衛指揮官は、規則へ賛同したのではない。
火力を使うため、禁止挙動を解消した。
善意に期待しなくても、危険な構造を変えさせる。
それも、規則の役割だった。
◇
東の空が白く染まった。
夜明けではない。
地平線の向こうから昇っているのは、太陽ではなかった。
二十四基の魔導砲が、一斉に出力を上げている。
三基の黒い同期塔から、地脈の光が巨大な柱となって立ち上った。雲の底が白く焼け、山々の輪郭が昼間のように浮かび上がる。
直後、観測所の床が大きく揺れた。
壁の亀裂から砂がこぼれ、棚の石英片が甲高い音を立てる。
周囲のマナ場が帝国側へ引かれていた。
沢の水が流れを変え、斜面を逆向きに上り始める。
グレインベルの灯石が一つずつ暗くなる。
町の地脈からも、砲撃に必要な力を奪おうとしている。
まだ撃たれていない。
それでも、空気が肺から押し出されるような圧迫感があった。
東門の結界が低く鳴る。
町全体が、これから落ちてくる一撃を前に息を止めていた。
帝国軍の通信が開く。
『全レギオン、同期』
エドガーの声が、雑音一つなく響いた。
『目標、グレインベル東区』
帝国軍の地図上で、三つの照準点が赤く染まる。
『第一目標、反力塔。第二目標、結界柱。第三目標、補給倉庫』
どれか一つでも破壊されれば、町の防衛は崩れる。
三つを同時に失えば、次の砲撃を防ぐ手段はない。
『出力制限を解除』
その命令と同時に、二十四人の入力者の身体が跳ねた。
媒体固定具が作動し、指を魔導砲の操作杖へ押しつける。
胸の検出環が一斉に光った。
呼吸周期が強制的に揃えられる。
一人が息を吸えば、残る二十三人にも同じ吸気が押し込まれる。
一人の心拍が遅れれば、核が外部信号で身体を急かす。
観測板へ、人間の入力が流れ込んできた。
恐怖。
痛み。
混乱。
逃げたいという身体反応。
手を離したいという意思。
接続を切ってほしいという要求。
帝国兵たちの拒絶が、細い光となって次々に立ち上がる。
レギオン・コアは、そのすべてを発動の邪魔になる雑音として切り離そうとした。
【恐怖反応を検出】
【抑制処理を開始】
【停止意思を検出】
【指揮命令と不一致】
【退避入力を検出】
【処理対象から除外】
三基の停止箱が、黄色から深い赤へ変わった。
【禁止挙動を確認】
【複数の現場停止入力を確認】
【独立確認を要求】
停止条件は揃っている。
それでも、俺は停止命令を出さない。
出すこともできない。
第二型には、設計者一人の判断で装置を止める権限を入れていない。
俺は観測結果を示す。
止めるかどうかは、異なる場所で、異なる責任を持つ三人が決める。
「ダリオ」
運用確認線が光った。
彼は観測所の外へ出て、帝国軍とグレインベルの配置を自分の目で見ていた。
白い光に照らされた横顔が硬くなる。
「二十四門すべての照準を確認」
ダリオが望遠鏡を下ろす。
「東区には、まだ動かせない負傷者がいる。帝国の攻撃目標には、避難が完了していない住民区も含まれている」
短い沈黙。
彼は腰の確認札を抜き、運用端子へ差し込んだ。
「戦術上、停止が必要だと判断する」
【運用停止:承認】
一本目の確認線が、赤から白へ変わる。
続いて、救護所からリナの声が届いた。
周囲では負傷者の声と、器具を運ぶ足音が続いている。
『入力者二十四名の呼吸と筋緊張を確認しました』
彼女は、帝国兵を敵とは呼ばなかった。
救護記録を読む時と同じ声で、一人ずつの身体を見ている。
『うち九名が筋損傷の危険域。四名は呼吸周期が身体の限界を超えています。複数人に、継続した停止意思があります』
観測板へ、一つの波形が拡大された。
【入力者番号:三七一―代替】
【停止要求:再送】
【媒体切離し要求:再送】
旧採掘路で見た若い兵士。
左頬の傷。
眠らされていても震えていた右手。
あの兵士が今、何度も手を離そうとしている。
だが、固定具はそのたびに指を杖へ押し戻していた。
『このまま出力を継続すれば、不可逆な身体損傷が起きます』
リナの声が、わずかに震える。
それでも判断は揺らがない。
『医療上、停止が必要です』
【人体停止:承認】
二本目の確認線が白へ変わった。
残る一本。
東壁の設備監視所。
マーサは三塔から届く反力表示を、一つずつ確認していた。
昼間、自分の停止札が無効にされた時についた火傷が、まだ左手に残っている。
『北塔、黒鉛負荷を確認』
彼女の声。
『中央塔、地脈杭の接続を確認。南塔、空き分岐路を確認』
三基の停止箱が、塔の内側にある逃がし先を順番に照合する。
北塔。
【熱排出経路:開放可能】
中央塔。
【運動量排出経路:開放可能】
南塔。
【余剰位相分岐路:開放可能】
マーサは表示を見直した。
停止するだけでは足りない。
出力の逃げ道が一つでも閉じていれば、行き場を失った力が塔を破裂させる。
その爆発は、入力者も帝国兵も巻き込む。
『三塔とも、停止後の反力を受け入れられます』
マーサが設備確認札を握った。
『設備上、安全停止が可能です』
【設備停止:承認】
三本目の確認線が白へ変わった。
【独立確認:三系統】
【停止実行待機】
三つの承認。
どれか一人の命令ではない。
戦場を見る者。
人間の身体を見る者。
装置の逃げ道を見る者。
三人が別々の情報を確認し、それぞれの責任で停止を選んだ。
それでも、停止箱はまだ動かない。
過去に出された停止入力ではなく、三系統の承認が揃った後に、本人からもう一度停止意思が出ること。
それが最後の条件だった。
観測所の誰も声を出さない。
帝国軍の砲門では、白い光が膨らみ続けている。
発射限界まで、あとわずか。
入力者たちの停止意思は、次々と指揮命令に潰されていく。
【停止要求を破棄】
【媒体切離し要求を破棄】
【出力継続】
「頼む」
誰へ向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
停止箱へではない。
アークへでもない。
帝国軍の中で、自分の身体を取り戻そうとしている人間たちへ。
次の瞬間、観測板へ新しい光が立った。
【入力者番号:三七一―代替】
【停止要求:再送】
続いて、別の入力者。
【停止要求:再送】
さらに一人。
【退避要求:再送】
一本だった光が、二本、五本、十本へ増えていく。
媒体杖を離したい。
接続を切りたい。
帝国兵たちの意思が、押し潰されるたびにもう一度立ち上がる。
【現場停止入力を確認】
【最終条件成立】
三基の停止箱が動いた。
◇
第一段階。
【反力経路を開放】
三塔の内部で、重い弁が一斉に開いた。
北塔の黒鉛負荷へ、赤い光が走る。
中央塔の地脈杭が轟音とともに沈み、地面へ力の逃げ道を作る。
南塔では、使われていなかった同期線が白く浮かび、余剰位相を受け入れる枝へ変わる。
塔の中へ、三つの逃げ道が開いた。
熱を逃がす。
衝撃を逃がす。
ずれを逃がす。
【反力経路:開放完了】
第二段階。
【強制同期の解除を要求】
停止箱は、整備端子から同期解除の信号を入れた。
レギオン・コアが即座に拒否する。
【指揮官命令を優先】
【同期解除要求を無効化】
停止箱の赤い表示が、さらに強くなる。
停止要求を拒否した。
その動作自体が、禁止挙動の追加証拠になった。
「第二処理へ移る!」
フィンの声。
停止箱は、二十四基の出力を上回る力で押し返そうとはしない。
そんな出力はない。
必要もない。
第二型は、入力者の停止信号を辿り、それを無効化した処理層まで到達している。
その場所へ、針先ほどの反転信号を入れる。
指揮命令そのものを破壊するのではない。
命令を二十四人へ同時に重ねるための基準だけを、わずかにずらす。
合唱の最初の一音を、半拍遅らせるように。
一本の巨大な光へ重なっていた二十四基の出力が揺れた。
白い光の表面へ、細い亀裂が走る。
一つだった輪郭が二つへ分かれる。
二つが四つへ。
完全に揃っていた砲門の振動が、少しずつ別々の周期へ戻っていく。
『同期を維持しろ!』
初めて、エドガーの声から平静が消えた。
黒い同期塔が参照位相を変更する。
次のR-ID。
さらに次。
名前を変え、停止処理から逃れようとする。
だが、第二型はR-IDを追っていない。
整備端子へ物理的に接続し、入力者の停止意思がどこで奪われたのかを直接追跡している。
参照位相が変わっても、停止入力を上書きする処理は消えない。
【R-ID変更を確認】
【物理接続を維持】
【禁止処理層を追跡中】
変わり続ける名前の奥で、同じ上書き処理を捉え続ける。
二十四本の光が、完全にほどけた。
◇
第三段階。
【結晶供給を遮断】
大型結晶槽から同期塔へ伸びていた光が、一斉に切れた。
低い破裂音が、峡路全体へ響く。
供給を失った砲門が大きく揺れた。
だが、塔の内部には、すでに膨大な出力が入っている。
白い光が行き場を失い、三基の塔の中で急激に膨張した。
「反力が来る!」
マーサの声。
次の瞬間、黒鉛負荷が赤熱した。
夜明け前の峡路へ、灼けた鉄のような赤が広がる。
三基の塔から白い蒸気が噴き上がった。
轟音。
北塔の周囲で地面が裂ける。
中央塔の地脈杭が、岩を砕きながらさらに深く沈む。
南塔の空き分岐路を、青白い位相差が稲妻のように駆け抜けた。
塔全体が大きく傾く。
観測所の窓が震え、石壁から破片が落ちる。
エリシアが俺の肩を掴んだ。
「爆発するの?」
「しない」
そう答えながら、表示板から目を離せなかった。
計算上は耐えられる。
試験でも確認した。
だが、本物の同期塔で試すのは初めてだ。
黒鉛負荷の温度が限界線へ近づく。
地脈杭の一本が警告を出す。
【北塔黒鉛負荷:九十二パーセント】
【中央塔地脈杭:一本沈下】
【南塔分岐路:許容範囲】
「持ってくれ」
フィンが通信板の縁を握る。
赤い数値が上がる。
九十四。
九十六。
そこで止まった。
【反力排出:継続】
【人体側への逆流:なし】
熱は黒鉛負荷へ。
運動量は地脈杭へ。
位相差は空いた同期線へ。
三つの逃げ道が、設計した順番どおりに出力を受け止めている。
塔は爆発しない。
入力者の身体にも熱は戻らない。
砲門へ集まっていた光が、一基ずつ消えていく。
二十四。
二十。
十五。
八。
三。
最後の一基だけが、白い光を残した。
「なぜ止まらない?」
ノエルが叫ぶ。
表示板へ、見たことのない指揮信号が割り込んでいた。
エドガーが、黒い強化義肢から同期網へ直接接続している。
指揮核を経由しない。
自分の位相で一人分の入力を強制的に固定し、最後の砲撃だけを成立させようとしていた。
残った砲門がグレインベルへ向く。
白い光が一点へ集まる。
【上書き権限の変更を確認】
【使用者停止の無効化を確認】
【禁止挙動は継続】
命令者が変わった。
だが、行われていることは変わらない。
停止箱は、エドガーの名前を見ない。
最後の入力者が出した停止意思を追い、それを押し潰している新しい経路へ到達する。
【禁止処理層を再特定】
【切離し要求を送信】
『撃て!』
エドガーの叫び。
砲門の光が限界まで膨らむ。
その中心へ、停止箱の反転信号が入った。
白い光が激しく震えた。
一度、二度。
砲口から細い光が漏れる。
それでも、発射には至らない。
強化義肢から伸びていた指揮信号が途切れた。
最後の媒体固定具が開く。
砲門の光が、内側から崩れるように消えた。
アークの表示板へ、文字が浮かぶ。
【禁止挙動との一致を確認】
【入力補助を遮断】
【強制同期を解除】
【人体側への反力逆流:なし】
【グレインベル戦線――レギオン火力、無効化】
誰も、すぐには声を出さなかった。
砲撃音がない。
結界が砕ける音もない。
町が焼ける光も落ちてこない。
代わりに聞こえたのは、黒鉛負荷が冷えていく音と、地脈杭の振動だけだった。
白く染まっていた空が、ゆっくり本来の夜明け前へ戻っていく。
帝国兵たちは、自分の手を見ていた。
媒体固定具が外れている。
命令は、まだ通信網を流れている。
前進しろ。
接続を維持しろ。
砲撃を続けろ。
それでも、今は指を開ける。
自分の意思で杖から手を離せる。
三七一番の代替兵が、最初に媒体杖を落とした。
金属が地面へ当たる。
乾いた、小さな音だった。
その隣で、もう一人が杖を離す。
さらに一人。
やがて、二十四基の砲兵陣地のあちこちで、金属の落ちる音が続いた。
一つ。
二つ。
十。
二十四。
命令が消えたからではない。
命令へ接続するかどうかを、自分で選べるようになったからだ。
グレインベルを焼くはずだった光の下で、最初に広がったのは爆発ではなかった。
人間が、自分の手を開く音だった。
◇
グレインベル側の砲も、すぐには撃たなかった。
帝国の同期が崩れた直後、防衛指揮官は追撃を命じた。
だが、追撃のために再び安全停止を切ろうとした二基へ、監査端末が警告を出す。
砲手たちは指揮鍵が回る前に、自分の停止札を握った。
「敵の砲兵は武器を捨てた」
ダリオが言った。
「今撃てば、武器を離した人間を焼くだけだ」
自治兵の中には、不満を口にする者もいた。
東門で仲間を失った者。
救護所に家族がいる者。
今なら報復できる。
その気持ちは否定できない。
それでも評議長は、追撃命令を退けた。
「止まった相手を撃てば、次から誰も武器を捨てなくなる」
三基の塔は立っている。
二十四基の砲も壊れてはいない。
安全に止まっただけだ。
だから、帝国兵もグレインベルの町も、崩壊した兵器の爆発へ巻き込まれなかった。
◇
エドガーの通信が、最後に一度だけ開いた。
『君は、勝利の機会を捨てた』
彼の背後では、帝国軍が撤退準備を始めている。
「何の話だ」
『我々の火力だけを止めればよかった。連邦の兵器まで同じ規則へ置いたことで、追撃能力を失った。軍事的には不完全な成果です』
「追撃のために作った規則じゃない」
『では、何を得た?』
俺は、砲を手放した兵士たちを見る。
遠すぎて顔は分からない。
それでも、一人ひとりに名前がある。
入力者番号ではない。
「止まりたい人間が、止まれた」
エドガーは、理解できないものを見るように目を細めた。
『それを成果と呼ぶなら、君は最後まで研究者だ』
「あなたも、かつてはそうだったはずだ」
強化義肢の指が止まる。
初めて、彼の表情がわずかに動いた。
だが、返事はない。
通信が切れた。
帝国軍は、東部峡路の外へ後退を始めた。
戦争が終わったわけではない。
エドガーも、帝国も残っている。
別の結晶槽を運び、別の術式で攻めることもできる。
それでも、その朝。
三基の同期塔を示す表示は、すべて停止状態へ変わっていた。
【結晶供給:停止】
【強制同期:解除】
【人体側への反力逆流:なし】
【レギオン・コア稼働数:〇】
何度確認しても、数値は変わらない。
砲門が再び光ることもない。
黒い塔が爆発することもない。
入力者の身体へ、行き場を失った熱が戻ることもなかった。
それでも俺は、すぐには成功だと思えなかった。
どこかに見落とした経路があり、次の瞬間には砲撃が放たれるのではないか。
停止したように見せて、帝国が別の同期へ切り替えるのではないか。
表示板から目を離せないまま、起こらない爆発を待ち続けた。
一呼吸。
二呼吸。
三呼吸。
何も起きない。
東区の結界柱は立っている。
反力塔も、補給倉庫も残っている。
救護所から、リナの声が届いた。
『入力者の身体信号、低下を確認しました。反力の逆流はありません』
続いて、マーサ。
『三塔の負荷が安全域へ戻りました。もう撃てません』
最後にダリオが望遠鏡を下ろした。
「全砲門、消灯。帝国兵は媒体杖を手放している」
その言葉を聞いた瞬間、身体から力が抜けた。
自分が呼吸を止めていたことに、そこで初めて気づいた。
肺の奥に溜め込んでいた息を吐き出す。
膝が崩れかけ、隣にいたエリシアが俺の腕を支えた。
「止まったのね」
「ああ」
声がうまく出なかった。
「止められた」
ノエルが、その場へ座り込んだ。
方眼ノートを抱えたまま、俯いて肩を震わせている。
フィンは通信板へ両手をつき、何度も息を吐いた。
「動いた……」
乾いた笑いが漏れる。
「寄せ集めの銀線でも、あの爪でも、ちゃんと動いた」
ジークは何も言わなかった。
ただ、赤熱していた黒鉛負荷の温度が下がっていく表示を見つめ、ゆっくりと拳を開いた。
研究所。
救護所。
東壁の設備監視所。
三つの場所から、同じような安堵の息が通信線を通じて伝わってくる。
歓声ではなかった。
勝利を叫ぶ声でもない。
もう次の負傷者が運ばれてこない。
もう誰かの手が媒体杖へ縛りつけられない。
少なくとも今は、その事実を確かめる静かな声だった。
戦争が終わったわけではない。
昨日までに失われた十五人の命も戻らない。
それでも、グレインベルを消し去るはずだった最後の一斉砲撃は、誰にも届かなかった。
俺たちが無効化したのは、兵士たちの魔法ではない。
彼らを命令へ縛り、自分の意思では手を離せなくする仕組みだけだった。
東の山並みから、今度こそ本当の朝日が昇る。
同じ白い光なのに、もう誰かを焼くための力には見えなかった。
朝の光が、壊れた東門を照らす。
煤に汚れた町を照らす。
媒体杖を手放した帝国兵たちの、開かれた指を照らす。
俺はその光の中で、もう一度、深く息を吸った。
レギオン・コアは、止まった。
今度こそ、その事実を受け入れた。




