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魔力最下位の理系転生者は、魔法を誰でも使える技術に変えたい ~詠唱はコード、魔法陣は回路。才能がないなら、法則を探せ~  作者: Ita
第10章 奪われた理論、戦場を止める選択

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第69話 黒い同期塔


 旧採掘路は、人が通るために作られた道ではなかった。


 山の奥から湧く水を谷へ逃がすための排水溝だ。


 高さは場所によって胸ほどしかない。天井から冷たい水が落ち、壁には古い鉱脈の印と、崩落を示す赤い斜線が残っている。


 先頭はダリオ。


 次にミーナ。


 俺とノエル。


 停止箱を背負ったフィンとジーク。


 最後尾にエリシア。


 三基の停止箱から伸ばした細い確認線を、古い呼鈴線へつなぎながら進む。線は研究所、救護所、東壁の設備監視所へ分かれ、ダリオ、リナ、マーサの確認札へ届く。


 線が一本切れても、残り二系統で実行待機へ入れる。


 ただし、塔の内部で禁止挙動と停止入力を確認できなければ、箱は動かない。


 出発前、テオは寝台の上で帝国陣地の略図を描いた。


 砲兵の休憩区画。


 結晶槽の交換路。


 同期塔へ技師が入る時の合言葉。


「『負荷は黒、基準は白』。見張りに止められたら、そう言う」


「続きを訊かれたら?」


「『赤は人へ戻すな』」


 反力異常を知らせる工廠の警句らしい。


 帝国の技師も、行き場を失った出力を人間へ戻してはいけないと教えられている。


 その工廠が、兵士の停止意思だけは本人へ返さない。


「第三塔の南側は通らないでくれ」


 テオが地図へ×を付けた。


「試験中に一度、地面が沈んだ。上から板を敷いて土をかけたけど、下は空洞のままだ」


「修理記録には?」


「修理済みになってる。工期に間に合わないから、後で直すことになってた」


「後では来なかった?」


「来てない」


 報告上の設備と、現場にある設備は違う。


 どれほど規格化された軍でも、使う場所には補修跡と、隠された失敗が残る。


 図面だけでは分からない情報だった。


「なぜ、ここまで教える?」


 ダリオが訊いた。


 テオは、傷の残る右手を見た。


「俺が戻らなければ、代わりが三七一番へ入る」


「知っている人間か?」


「分からない。装着されるまで、俺たちは互いの番号を知らされない」


 テオは顔を上げた。


「そいつは、俺が止めようとして何が起きたかも知らない。何も知らないまま、同じ核を付けられる」


 帝国から見れば、軍事機密を売る行為だ。


 裏切りと呼ばれる。


 だが、テオは帝国を攻撃するために地図を渡したのではない。


 名前も知らない代替兵の手を、媒体杖から離すために渡した。


「必ず戻るとは約束できない」


 俺は言った。


「分かってる」


「全員を助けられるとも言えない」


「それも分かってる」


 テオは少し黙った。


「でも、止める方法があるってことだけは、あいつらに伝えてくれ」


「伝える」


 今度は、迷わず答えた。


     ◇


 排水溝の水を踏む音さえ、帝国の地脈探針へ拾われる可能性がある。


 エリシアが足元へ薄い熱膜を作った。


 靴が水へ触れる直前に表面だけを温め、跳ねる水滴を細かな蒸気へ変える。


 温度を上げすぎれば、監視結晶に見つかる。


 低すぎれば、水音が残る。


 火を使いながら、熱を見せない。


 昼間に巨大な熱流で砲撃を逸らした魔導士が、今は足音一つを消すために出力を削っている。


 彼女の右手には、まだわずかな震えが残っていた。


「無理をしていないか」


 小声で訊く。


「熱像が二重に見えたら止める。指先の感覚が鈍っても中止する」


「分かった」


「あなたも、手首の痛みが増えたら言うのよ」


「了解」


 倉庫で交わした約束は、ここでも互いへ向いていた。


 排水溝の壁が、一定の間隔で震える。


 ほぼ一呼吸ごと。


 三基の同期塔が互いへ基準位相を渡す振動だ。


 近づくほど、音ではなく骨の内側へ響いた。


「ここから上だ」


 ダリオが立ち止まった。


 頭上に鉄の蓋がある。


 隙間から、帝国陣地の灯りが見えた。


 蓋の先から第一塔まで、およそ百歩。


 その間には補給路と検問がある。


 ミーナが荷袋を開いた。


 黒鉄色の監査外套。


 胸には帝国東部軍の印章。


 外套を羽織った瞬間、彼女の姿勢が変わった。


 背筋が伸び、顎がわずかに上がる。


 普段の商人とも、研究所の調達担当とも違う。


 命令する側の立ち方だった。


「ここからは、全員、監査部付きの荷役人よ」


 ミーナが低く言う。


「喋るのはあたしだけ。特にユウマ。専門語を一つでも口にしたら置いていく」


「潜入中の警告方法は?」


「蹴る」


「了解」


「本当に喋らないで」


     ◇


 蓋の先にあった古い荷車へ、停止箱と工具を積んだ。


 表向きの荷は、黒鉛負荷と位相調整材。


 停止箱も同じ材料で作られているため、外から見ただけでは区別しにくい。


 検問兵が灯石を荷台へ向けた。


「輸送番号」


 ミーナが答える。


「東部統合七四一。位相調整材三箱、交換用黒鉛負荷二箱。第三塔の工程遅延に伴う追加搬入」


「受領命令が来ていない」


「工程遅延の報告も受けていないの?」


 ミーナの声が冷たくなる。


「所属番号を言いなさい。明朝、ブラッドフォード閣下へ、調整材を止めた兵士の名ごと報告する」


 検問兵の顔色が変わった。


 輸送札をもう一度見たが、印章の照合まではしなかった。


「いや、確認は不要だ。通れ」


「賢明ね」


 荷車が動き出す。


 検問から十分に離れた後、フィンが息を吐いた。


「敵に回したくねぇ」


「褒め言葉として受け取っておく」


「昔もああだったのか?」


「昔の女の話を訊くのは趣味が悪いわよ」


 軽口を返しながらも、ミーナは監査外套を脱がない。


 今夜は、かつて権力の近くで覚えた振る舞いまで、すべて使うつもりなのだ。


 補給路の脇に、大きな天幕があった。


 中にはレギオン・コアを装着した兵士たちが並んでいる。


 全員、椅子へ座ったまま目を閉じていた。


 眠っているように見える。


 だが、自然な眠りではない。


 胸の検出環が同じ間隔で光り、そのたびに全員の呼吸が揃う。


 総攻撃前に、入力周期を近づける処置を受けている。


 その一人の背中へ、白い番号が記されていた。


【三七一―代替】


 テオの代わりに選ばれた兵士。


 テオより若く見えた。


 膝の上に置かれた指が、小さく震えている。


 眠らされていても、身体は恐怖を消せていない。


 足が止まりかけた。


「止まるな」


 ダリオが前を向いたまま言った。


「今ここで一人を外せば、警報が鳴る。三基をつなげられなくなる」


 正しい。


 分かっている。


 それでも、正しさだけでは足が前へ出なかった。


 俺は代替兵の顔を見た。


 名前は分からない。


 目の形。


 左頬の小さな傷。


 震えている右手。


 覚えておく。


 助ける対象を、二十四という数字へ戻さないために。


「進む」


 自分へ言い聞かせるように呟いた。


     ◇


 第一塔の内部は、黒い石英板と銀線で埋め尽くされていた。


 中央を、地脈から吸い上げた光が流れている。


 中層には、八基のレギオン・コアへつながる分配線。


 外層は黒鉛負荷と冷却水路。同期が崩れた時、塔自身が割れないよう出力を逃がす設備だ。


 帝国は、止め方を知っている。


 ただ、その権限を入力者へ渡していない。


 フィンとジークが床板を外す。


「緊急整備端子、確認」


「標準爪を入れる」


 爪が端子へ噛む。


 ジークが固定環を締め、フィンが二重爪を掛ける。


「逆流なし」


「監視線を開く」


 ノエルが小型表示板を確認した。


【参照位相を取得】

【R-ID候補を登録】

【禁止挙動の監視を開始】

【確認線一、接続】


「第一塔、完了」


 箱を床下へ固定し、呼鈴線から分けた確認線をつなぐ。


 停止箱は置いていく。


 ここから先、俺たちが戻れなくても、箱は塔の内部を監視し続ける。


     ◇


 第二塔へ向かう途中、警備兵の足音が近づいた。


 隠れられる場所はない。


 エリシアが壁へ手を当てた。


「動かないで」


 短い詠唱。


「……熱勾配、右へ。輪郭、分離」


 俺たちの周囲から、体温に近い熱だけが薄く抜ける。


 数歩先の空間へ集まり、人の形に揺らいだ。


 角を曲がってきた警備兵の監視結晶に、俺たちの熱像が実際より右側へ映る。


「誰だ!」


 兵士は存在しない影を追い、反対側の通路へ走った。


 エリシアの膝が一瞬沈む。


 俺が腕を支えた。


「感覚は?」


「残っている。二重にも見えていない」


「続けられるか」


「ええ。でも、同じものはもう一度使えない」


 帝国兵が戻る前に、第二塔へ入った。


 接続爪は広い型が合った。


 外装の泥を削り、二重爪を固定する。


【参照位相を取得】

【R-ID候補を登録】

【禁止挙動の監視を開始】

【確認線二、接続】


「第二塔、完了」


 残る一基。


     ◇


 第三塔の警備は、他の二基より厳しかった。


 正面入口に兵士が四人。


 内部には技師が二人。


 地脈溝から入る経路も、鉄格子で封鎖されている。


「予測されている」


 ダリオが言った。


「停止箱の存在を?」


「少なくとも、潜入の可能性をだ。第一と第二は、通すための餌だったかもしれない」


 二基だけでも、同期精度は下げられる。


 今なら引き返せる。


 だが、第三塔が残れば、第一塔と第二塔の担当を引き継ぐ。出力を落とした砲撃なら続けられる。


 しかも、朝になれば床下の停止箱は発見される。


 次の機会はない。


「進む」


 俺は言った。


 ダリオはすぐには頷かなかった。


「三分だ。三分を越えたら、接続途中でも退く」


「了解」



 危険だから進まないのではない。


 進む場合の停止条件を、先に共有する。


 ミーナが監査外套の襟を正し、正面入口へ向かった。


「第三塔の位相監査。全員、持ち場を離れなさい」


 技師が命令書を求める。


 ミーナは偽造印章を見せた。


「総攻撃前の臨時命令よ。照合に時間を使うなら、あなたの責任で同期を遅らせたと記録する」


 視線が彼女へ集まった瞬間、エリシアが監視結晶の光を曲げる。


 ダリオが地脈溝の鉄格子へ工具を差し込み、錠を外した。


 俺たちは床下から塔内部へ滑り込んだ。


 フィンとジークが整備板を開く。


「端子確認!」


「標準爪、入らない!」


「広い方だ。端が潰れてる!」


 爪を押し込む。


 入らない。


 経過、二分。


 ジークが端子の縁へ薄い工具を当て、歪んだ金属だけを起こす。


「もう一度」


 広い爪が噛んだ。


 フィンが二重固定具を締める。


「接続!」


 ノエルが黄色の監視爪を引いた。


【参照位相を取得中】


 その瞬間、塔全体の振動が変わった。


 それまで一定だった周期が、短くなる。


 次は長い。


 その次は、二度に分かれる。


 無秩序に見える範囲で、参照位相が次々と切り替わっていく。


【署名不一致】

【R-ID候補を喪失】

【対象を確定できません】


「接続を間違えた?」


 フィンが訊く。


「違います」


 ノエルが表示板へ顔を近づけた。


「位相が変わり続けています。照合が終わる前に、次のR-IDへ移っている」


 第一塔と第二塔からも警告が届いた。


【参照署名を喪失】

【停止判定を保留】


 三基目へ接続した瞬間、すべての塔が防御処理へ切り替わった。


 エドガーは、停止箱が固定R-IDを狙うと予測していた。


 最初の二基をあえて接続させ、三基すべてが揃ったところで参照位相を動かした。


 顔と名前を一呼吸ごとに変え続けるようなものだ。


「物理接続はできてる!」


 フィンが叫ぶ。


「でも、何を止めるか確定できなきゃ、箱は動かねぇ!」


 塔内に警報が鳴った。


 ミーナの偽装印章への照合結果が届いたのだ。


【輸送番号七四一、北補給所で使用済み】

【監査命令、該当なし】

【侵入者を拘束せよ】


「三分だ!」


 ダリオが叫ぶ。


「退く!」


 その時、塔の表示板へ別の光が入った。


 通信回線が強制的に開かれる。


 エドガー=ブラッドフォードの顔が映った。


 黒鉄の軍服。


 肘から先が黒い強化義肢へ置き換わった右腕。


 義肢の指が、机を一定の間隔で叩いている。


『やはり来ましたね、ユウマ・アマシロ』


 開戦前と変わらない、落ち着いた声だった。


「最初から待っていたのか」


『正確には、君が停止装置を三基へ接続するのを待っていました。一基目で位相を変えれば、君は設計を修正して再び来る。三基すべてを露出させた方が、対策の効果を検証できます』


「兵士だけでなく、俺たちも試験材料か」


『戦場に存在するものは、すべて観測対象です』


「合理的だと分かっていて、なぜ倫理を削った」


『効率が悪いからです』


 即答だった。


『君の理論は優秀です。低い入力を整え、外部資源へ接続し、個体差を狭い範囲へ収める。ただし、使用者の同意、停止権限、監査、記録。目的達成へ不要な処理が多すぎる』


「不要じゃない」


 俺は、天幕で見た代替兵の震える手を思い出した。


「人間を人間のまま使わせるための層だ」


『兵器に人格は必要ありません』


「レギオン・コアへつながれた人間は、兵器じゃない」


『入力者です。交換可能な構成要素である点に違いはない』


「テオ・ランバートも?」


 エドガーの指が、一度だけ止まった。


『三七一番を回収したのは、君たちでしたか』


「名前で呼べ」


『名称の違いは機能へ影響しません』


「だから、あなたは技師ではなくなった」


 表示板の向こうで、エドガーの目が細くなる。


「あなたが作ったのはアークじゃない。人間を引き金へ固定した砲台だ」


『名称の議論も、倫理の議論も、出力には影響しません』


「出力以外を成果と数えていないからだ」


『その差を、間もなく検証できます』


 エドガーの背後で、帝国軍の時刻板が動いた。


『総攻撃まで、一刻。君の停止装置が、我々の最適化を上回るか。グレインベルの住民を使って確認しましょう』


 通信が切れた。


 その瞬間、塔内の警報が一段高くなった。


 赤い警告灯が激しく明滅する。


 正面入口の鉄扉が開き、武装した帝国兵がなだれ込んできた。


「いたぞ! 整備区画だ!」


「全員、床へ伏せろ!」


 命令とともに、いくつもの媒体杖がこちらへ向けられる。


 エリシアが一歩前へ出た。


 煤に汚れた紅のリボンが、塔から吹き上がる風に大きくなびく。


 彼女が焔紋の杖を横へ振り抜いた。


 杖に刻まれた紋様が根元から赤く染まり、圧縮された熱が一気に解放される。


 轟音。


 赤い炎が床を走り、渦を巻きながら通路の天井まで立ち上がった。


 一瞬にして、俺たちと帝国兵の間を巨大な火の壁が隔てる。


 だが、炎は兵士へ襲いかからない。


 エリシアは熱の境界を通路の中央へ固定し、燃え広がろうとする火を強引に押し留めていた。


 目的は焼くことではない。


 立ち上る炎と熱気で光を屈折させ、監視結晶と兵士の視界から、俺たちの位置を消すことだ。


 炎の向こうで、帝国兵の輪郭が何重にも揺らぐ。


「構うな、撃て!」


 白い光弾が火の壁を突き抜けた。


 狙いは大きく逸れ、頭上の石英板へ直撃する。


 耳を裂く破裂音。


 砕けた黒い石英が、刃のように降り注いだ。


「退路を開く!」


 ダリオが地脈溝の排水格子へ駆け寄った。


 固定具へ短剣を差し込み、体重をかける。


 錆びた金属が軋む。


「開かない!」


「下の留め具だ!」


 ジークの声。


 ダリオは姿勢を低くし、格子の根元へ刃を滑り込ませた。


 背後でもう一発、光弾が弾ける。


 衝撃で塔全体が揺れ、天井から冷却水が降りかかった。


「伏せろ!」


 フィンが俺とノエルを床へ引き倒す。


 光が頭上を通り過ぎ、背後の銀線を焼いた。


 焦げた金属の匂いが広がる。


 床を這っていた確認線が、衝撃で大きく跳ねた。


「線を切るな!」


 ノエルが確認線を両腕で抱え込み、地脈溝の縁へ押さえつける。


 この線が切れれば、三基の停止箱は研究所側の確認札を受け取れなくなる。


 接続に成功しても、停止判断を届けられない。


「外れろ!」


 ダリオが固定具を蹴り抜いた。


 金属音とともに留め具が飛び、重い排水格子が地脈溝の内側へ倒れる。


「退路、開放! ノエルから入れ!」


 ノエルが確認線を抱えたまま地脈溝へ滑り込む。


 俺もその後へ続いた。


 狭い斜面を冷たい水が流れている。


 足を取られ、膝を石へ打ちつける。


 痛みに構う時間はない。


 ミーナ、フィン、ダリオが次々と飛び込んでくる。


 その時、帝国兵の光弾が床板を撃ち抜いた。


 第三塔へ設置した停止箱のすぐ脇で、石が爆ぜる。


 固定具が大きく揺れた。


「ジーク!」


 ジークは逃げなかった。


 石の破片を背中で受けながら停止箱へ覆いかぶさり、外れかけた二重爪を両手で押し戻す。


 銀線が白く明滅する。


 接続爪が、整備端子へもう一度深く噛んだ。


 ジークは固定環を最後まで回し、床板を箱の上へ叩き戻した。


「箱は置いた!」


 飛んできた石片が、彼の頬を浅く裂く。


 それでも、手を離さない。


「接続も生きてる! 戻るな、先へ行け!」


 フィンが地脈溝から腕を伸ばした。


「爺さん、掴まれ!」


「爺さんと呼ぶな!」


 ジークがその腕を取り、排水路へ飛び込んだ。


 残るのはエリシアだけだった。


 火の壁へ、帝国兵の魔法が次々と突き刺さる。


 赤い炎が白く弾け、そのたびに彼女の身体が押し戻される。


 杖を握る右手が震えている。


 それでも、炎の境界を兵士側へは動かさない。


「エリシア!」


「先に行って!」


 彼女が杖を床へ突き立てた。


 火の壁が一瞬だけ大きく膨らむ。


 帝国兵たちが反射的に腕で顔を覆った。


 その隙に、エリシアは杖を引き抜き、排水路へ駆ける。


 背後から光弾。


 彼女は身体をひねった。


 白い光が外套の裾を焼き、赤い火花が散る。


 エリシアは速度を落とさず、地脈溝へ飛び込んだ。


 着地と同時に振り返り、排水格子へ杖を向ける。


「閉じるわ!」


 細く絞られた熱が、格子を支える二本の留め具だけを赤熱させた。


 金属が軟らかく歪む。


 エリシアが杖を振り下ろす。


 支えを失った格子が、轟音とともに通路へ落下した。


 追ってきた帝国兵の目の前で、鉄と砕けた石英が退路を塞ぐ。


 光弾が格子へ直撃し、排水路の中まで激しい衝撃が走った。


 冷たい水と砂埃が、一斉に吹きつける。


「走れ!」


 ダリオの声が暗闇へ響いた。


 俺たちは確認線を壁際へ押さえながら、濡れた斜面を駆け下りた。


 背後では、帝国兵が格子を破壊しようとする音が続いている。


 一人。


 二人。


 振り返る余裕もなく、声だけで人数を確かめる。


 七人全員が、排水路へ入っていた。


 ダリオが人数を数える。


「七人。負傷は?」


「肩を打っただけだ」


 フィンが答える。


 ジークの外套は裂けているが、血は出ていない。


 エリシアの指先には感覚が残っている。


 俺の手首の痛みも、基準を越えていない。


 退避条件は守れた。


 三基の停止箱も、すべて塔へ接続できた。


 物理的な入口は残っている。


 確認線も生きている。


 塔の内側では、禁止挙動が続いている。


 だが、どの箱も相手の名前を見失っていた。


 東の空が、淡く白み始めている。


 夜明けではない。


 帝国の大型結晶槽が、総攻撃へ向けて光を蓄えている。


 グレインベルへの総攻撃まで、残り一刻。


 その間に、変わり続ける名前の奥から、変わらないものを見つけなければならなかった。


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