第66話 技術者の罪
救護所を出た時、夜はすでに深くなっていた。
帝国軍の砲撃は止まっている。
だが、静かではなかった。
東門では崩れた石を運ぶ音が続き、下層からは負傷者を呼ぶ声が聞こえる。峡路の向こうでは、三基の同期塔が一定の間隔で白く明滅していた。
次の攻撃を準備する光だ。
俺は研究所へ戻らなかった。
戻れば、停止箱の設計を続けなければならない。
フィンたちの前に立ち、次に何を作るのかを決めなければならない。
その判断をすることが、怖かった。
東門から少し離れた斜面に、古い鉱石倉庫がある。
昼の砲撃で屋根の半分が落ち、壁には斜めの亀裂が走っていた。中には砕けた石英と、使われなくなった鉱車が転がっている。
風が吹くたび、屋根から細かな砂が落ちた。
誰もいない。
研究所からも、救護所からも、東門からも少し遠い。
考えるには静かだった。
逃げるには、都合がよかった。
救護所で何度も手を洗った。
それでも指先には、血と薬草の匂いが残っている気がした。
負傷者の腹を押さえた感触。
水を求める声。
名前を呼んでも返事をしなかった男。
毛布の上で、父親の服を握っていた少女。
記録板に書かれた死者十一名という数字が、もう数字には見えなかった。
俺は割れた作業台へ、持ってきた記録を並べた。
共通魔法コード。
アークの種の入力仕様。
暗号化に使い回した位相種。
帝国の試験記録。
レギオン・コアの推定構造。
グレインベルの被害報告。
一枚ずつ離して置いても、線は消えなかった。
俺が低魔力者の入力を分解した。
俺が手順として記録した。
俺が外部媒体へ接続できると示した。
俺が誰でも再現できる形へ共通化した。
俺が通信鍵を使い回した。
帝国が盗み、停止意思を切り捨て、兵器へ組み込んだ。
最後だけ、主語が違う。
それでも、前の五つがなければ、最後の一つへは届かなかった。
「救うための理論だった」
口にしてみる。
倉庫の壁へぶつかり、空しく返ってきた。
その言葉は、誰に向けたものなのか。
死んだ十一人か。
負傷した人々か。
それとも、自分か。
目的が正しければ、結果への責任が消えるのか。
消えない。
知らなかったと言えばいいのか。
軍事転用の危険は考えていた。
だから倫理仕様を作った。
停止意思を残した。
監査と記録を入れた。
停止権限を一人へ集めないようにした。
危険を考えていたのに、盗まれた。
考えていたのに、防げなかった。
なら、何も考えなかった者より悪いのではないか。
危険を理解しながら、完成させたいという欲を優先したのではないか。
アークの種が動いた時、俺は嬉しかった。
ルカたちが初めて火を灯した時、理論が正しかったことに興奮した。
共通魔法コードが工房へ広がるのを見て、世界を変えられると思った。
その高揚の中で、俺は自分の判断を過信していなかったか。
倫理仕様さえ組み込めば、安全に広げられる。
停止手順さえ先に配れば、失敗しても戻れる。
そう考えた。
だが、帝国は倫理仕様を使わなかった。
停止手順を削った。
俺が守りとして作ったものは、採用しないという選択だけで外された。
昼間、十二本の光が一本の刃のように揃った瞬間。
俺は恐怖より先に、その精度を理解した。
入力のずれが消えている。
位相補正が成立している。
理論上可能だと考えていた統合が、目の前で動いている。
ほんの一瞬だけ、綺麗だと思った。
その直後に、東門が砕けた。
人が死んだ。
救護所へ運ばれた帝国兵を見た時も、最初に浮かんだのは、助けなければという言葉ではなかった。
この核からR-IDを取れる。
そう思った。
人間より先に装置を見た。
エドガーと同じではないと言い切れるのか。
違う目的を掲げているだけで、俺も人間を入力と出力へ分解しているのではないか。
◇
前世の実験室を思い出す。
深夜。
真空チャンバーの低い振動。
計器の針が、予測した範囲を越えていく。
予定にはなかった共振。
警告灯。
非常停止へ伸ばした手。
止まるはずだった装置。
届かなかった指。
白い光。
あの時の事故は、俺一人を殺した。
自分で作った条件に、自分が巻き込まれた。
だから、この世界では止め方を先に作ろうとした。
同じ失敗を繰り返さないために。
だが、今度は違う。
俺の手順を知らない人間が、俺の理論で傷ついている。
俺が非常停止へ手を伸ばした時のように、テオも止めようとした。
けれど、装置がその意思を無効にした。
世界が変わっても、俺は同じ場所へ戻ってきたのかもしれない。
実験を止められない場所。
自分が作った条件に、人間が殺される場所。
しかも今度は、一人では終わらない。
机の端に、共通魔法コードの原本がある。
破るべきだと思った。
燃やす。
研究所の記録も、SELの定義も、アークの種の構造も消す。
これ以上、誰にも使えないようにする。
俺が研究者であることをやめれば、少なくとも俺から次の兵器が生まれることはない。
教会が禁書を焼いた理由も、最初は同じ恐怖だったのかもしれない。
理解できないものが広がることへの恐怖。
誰かが悪用することへの恐怖。
取り返しのつかない結果を生むことへの恐怖。
危険な知識を閉じれば、人を守れる。
そう信じたくなる気持ちが、今は分かった。
俺は焚き火用の火打ち石を取った。
原本の端へ手を伸ばす。
指が震えていた。
「燃やすなら、原本だけでは足りないわ」
背後から声がした。
振り返る。
エリシアが、崩れた入口に立っていた。
右袖には昼間の戦闘で焼けた跡が残っている。髪はほどけかけ、紅のリボンも煤で汚れていた。
それでも、リボンの内側に結ばれた小さな木札は残っている。
【帰って】
ミリィが渡した札だった。
「どうしてここが分かった」
「あなたが一人になりたい時に選ぶ場所は、条件が分かりやすいのよ」
彼女は倉庫の中を見回した。
「人がいない。地脈が弱い。研究所から遠すぎない。入口が見渡せて、逃げ道が二つ以上ある」
「解析されたな」
「共同研究者だから」
いつもの答えだった。
だが、声には疲れが混じっていた。
「一人にしてくれ」
そう言おうとした。
言葉は喉まで上がり、出なかった。
代わりに、別のことを訊いた。
「怪我は?」
「大きなものはないわ。火を捨てる条件も、後退条件も守った」
「そうか」
「でも、手はまだ震えている」
エリシアが右手を開いた。
戦場では気づかなかった。
杖を握っていた指が、わずかに震えている。
「供給線を切った時、少しずれていたら、あの兵士の背中を焼いていた。風向きが変わっていたら、火が結晶槽へ入っていたかもしれない」
「でも、成功した」
「ええ。成功したわ」
彼女は震える指を見つめた。
「だから、次も同じようにできると思いそうになる。それが怖い」
成功は、安全の証明ではない。
俺が第二防壁で考えたことと同じだった。
エリシアは濡れた外套を鉱車へ掛けた。
すぐに俺の手から火打ち石を奪おうとはしなかった。
割れた作業台の向かいにも立たなかった。
俺の隣へ来て、石の床へ腰を下ろした。
肩が触れるほど近くはない。
だが、遠くもない。
しばらく、何も言わなかった。
風が亀裂を抜ける音。
遠くで石を運ぶ音。
東の同期塔が明滅するたび、崩れた屋根の隙間から白い光が差し込む。
「責めないのか」
沈黙に耐えられず、俺から訊いた。
「責めてほしいの?」
「分からない」
「では、分かるまで決めなくていいわ」
「十一人死んだ」
「ええ」
「俺の理論が使われた」
「ええ」
「俺が鍵を使い回した」
「ええ」
否定しない。
慰めるために事実を薄めようともしない。
それが苦しく、同時に少しだけ救いだった。
「私は、あなたは悪くないと言いに来たのではないわ」
エリシアが言った。
「それを言えば、今日起きたことをあなたと一緒に見ないことになるから」
「なら、何をしに来た」
「あなた一人に、判決を出させないため」
彼女は俺の手の中にある火打ち石を見た。
「研究所の最初の規則を覚えている?」
「危険なものは、一人で開かない」
「罪悪感も危険よ。正しく扱えば、間違いを知らせる。でも、一人で抱えれば、何もかも自分のせいだという答えだけを返し続ける」
「事実かもしれない」
「なら、一緒に検証しましょう」
エリシアはそう言って、ようやく手を差し出した。
「火打ち石を渡して。捨てはしないわ。燃やすかどうかを、二人で確かめるだけ」
俺はすぐには渡せなかった。
握り込んだ指が動かなかった。
エリシアは無理に奪わず、開いた手をそのまま待たせた。
やがて俺は、火打ち石を彼女の掌へ置いた。
◇
「燃やしたいなら、止めないわ」
エリシアは火打ち石を原本の横へ置いた。
「あなたの選択だから。ただし、燃やした後に何が残るのか、一緒に確認する」
彼女は共通魔法コードを指した。
「これを燃やす。研究所の写しも処分する。西坑道の夜学校へ送った分は?」
「回収する」
「鉱山組合と工房組合が写した分は?」
「回収する」
「ルカたちが覚えた手順は?」
答えが止まる。
「忘れさせることはできない」
「王都や他都市へ渡った図記号は?」
「回収できない」
「帝国が復元した入力整形の理論は?」
「消せない」
「偽の手順書は?」
「残る」
「レギオン・コアは?」
「残る」
「では、あなたが燃やせるのは何?」
彼女の問いは静かだった。
答えは分かっている。
分かっているからこそ、言いたくなかった。
「これから正しい手順を学ぶ人の入口」
俺は答えた。
「それから、帝国の兵器を止めるための記録」
「そうね」
エリシアは火打ち石を机へ戻した。
「あなたが知識を閉じても、帝国からレギオン・コアは消えない。停止意思を奪う装置だけが残って、それを止めるための知識がこちらから消える」
「分かっている」
「いいえ。頭では分かっている。でも、今のあなたは別のものを求めている」
「何を」
「罰よ」
胸の奥を、正確に刺された。
「自分の研究を燃やせば、責任を取った気持ちになれる。研究者であることをやめれば、死んだ人たちへ誠実だと思える。自分が苦しむことで、起きたことと釣り合いを取ろうとしている」
「苦しむべきじゃないのか」
声が低くなった。
「十一人死んだんだぞ」
「苦しまなくていいとは言っていないわ」
エリシアの声も揺れた。
「忘れていいとも、許してもらえるとも言っていない。でも、あなたが自分を罰することと、死んだ人たちを救うことは同じではない」
「もう救えない」
「ええ」
彼女は目を伏せた。
「亡くなった人は戻らない」
安易な希望を口にしなかった。
「だからこそ、苦しみを償いの代わりにしてはいけないの。あなたが研究を燃やしても、明日の砲撃は止まらない。救護所の物資も増えない。テオの背中から核も外れない」
「俺が続ける資格があると思うか?」
「資格を決めるのは誰?」
「少なくとも、俺ではない」
「なら、自分で剥奪するのも違うでしょう」
「他の誰かに許可を求めろというのか」
「許可ではないわ」
エリシアは亀裂の入った壁へ手を触れた。
壁の向こうから、帝国の同期塔の光が細く差し込む。
「監視されること。反対されること。止められること。その全部を受け入れて、それでも必要だと判断された研究だけを続けること」
彼女がこちらを向く。
「あなた一人の善意で始めない。あなた一人の罪悪感で終わらせない。それが、私たちの研究所でしょう」
俺は何も答えられなかった。
「この壁を壊した光には、あなたの理論が使われていた。それは事実よ」
彼女は続ける。
「あなたが通信鍵を使い回した。それも事実。軍事転用の可能性を完全には防げなかった。それも記録すべき失敗」
「ああ」
「でも、グレインベルを実戦評価地点に選んだのはエドガー。停止意思を消す設計へ変えたのも帝国。攻撃命令を出したのも、止めようとした兵士の入力を無効にしたのも、あなたではない」
「前の原因を作った」
「責任は、一つしか存在できないものではないわ」
エリシアは言った。
「あなたに設計者としての責任があっても、エドガーの責任が軽くなるわけではない。帝国が悪用したからといって、あなたの失敗が消えるわけでもない。両方を残すべきなの」
「俺一人の責任にまとめる方が、簡単だからか」
「ええ」
彼女は迷わず頷いた。
「全部あなたのせいなら、あなたが消えれば話を終わらせられる。でも、本当は終わらない。帝国も、教会も、学院も、技術を売った商会も、それを止められなかった私たちも残る」
責任を背負うことと、世界中の責任を自分のものにすることは違う。
後者は一見、誠実に見える。
だが、実際には因果を単純にし、他の人間がした選択を見えなくする。
「君は、自分の責任をどうしている?」
問い返すと、エリシアの表情が固まった。
「王都から持ち出した記録には、君の火の基準波も入っていた。帝国の熱流補正に使われた可能性がある」
「ええ」
「東門では、帝国兵の供給線を焼いた」
「ええ」
「怖くないのか」
「怖いわ」
彼女は迷わず答えた。
「私の火が人を傷つけることも。今日、あの兵士へ杖を向けた時、迷わず狙いを定められた自分も怖い」
震えの残る右手を、左手で包む。
「銀線だけを切れた時、安心した。同時に、次もできると思った。その考えを気持ちいいと感じそうになった」
戦場で役に立てる力。
誰かを救えたという実感。
それは簡単に、もっと使いたいという欲へ変わる。
「ヴァーミリオンの名が、王国で多くの人を黙らせてきたことも忘れていない。私が学院主席として当然のように書庫へ入り、上位の媒体を使っていた間、あなたやノエルは入口にさえ立てなかった」
紅のリボンへ触れる。
誇りの象徴。
同時に、彼女が受けてきた特権の印でもある。
「王国を出たから、その責任が消えたとは思っていない。でも、家名を燃やし、火を二度と使わなければ償えるとも思わない」
「どうするつもりだ」
「使うたびに選ぶ」
彼女は一つずつ言った。
「誰へ向けるか。何を守るか。どこで止めるか。誰に止める権限を渡すか。間違えたら記録する。成功しても、次の安全を保証されたと思わない」
それは、俺へ向けた答えであると同時に、彼女自身が繰り返してきた問いへの答えだった。
「私も、正しい答えを持っているわけではない」
エリシアの声が少し弱くなる。
「あなたを必ず正しい方へ連れていけるとも言えない。私だって間違える。怖くなって、都合のよい理屈を選ぶかもしれない」
彼女は俺の隣に座ったまま、わずかに距離を詰めた。
「だから、一人で決めないのよ」
肩が触れた。
煤と薬草の匂いがした。
「あなた一人だけを、罪の外へ連れ出すことはできない。でも、罪の中へ一人で閉じこもらせないことはできる」
紅のリボンに結ばれた木札が、風で小さく揺れた。
【帰って】
「私は約束どおり帰ってきたわ」
エリシアが言った。
「次は、あなたが帰る番よ」
胸の奥に張りつめていたものが、わずかに緩んだ。
許されたとは思わない。
答えが出たわけでもない。
ただ、戻る場所がまだ残っていると気づいた。
◇
「怖いんだ」
ようやく言葉にできた。
「また作れば、また使われる」
「ええ」
「停止箱も逆に使える。誰かが都市の結界を外から止めるかもしれない。医療装置を止めるかもしれない。帝国の兵器を止める仕組みが、次は町を無防備にする兵器になるかもしれない」
「ええ」
「安全装置を作るたび、その安全装置を破る方法も生まれる。何を作っても同じじゃないか」
「同じではないわ」
エリシアは焔紋の杖を床へ置いた。
「火は人を焼ける。料理もできる。だから用途だけで安全を決めれば、最後は使う人間次第という話になる」
「違うのか?」
「半分は正しい。でも、火傷しにくい持ち手を作ることも、水を用意することも、子どもが一人で触れない高さへ置くこともできる。異常な熱が出たら燃料を切る構造にもできる」
ガルドの言葉を思い出す。
火は飼うものだ。
噛まれたら痛い。
火から危険を完全に消すことはできない。
それでも、噛まれ方を減らす柵は作れる。
「使う人間に責任があるからといって、設計者が何もしなくていい理由にはならない」
エリシアは続けた。
「逆も同じよ。設計者に責任があるからといって、使った人間の選択が消えるわけではない」
「それでも、完全には防げない」
「完全に防げると言わなければいい」
彼女の答えは単純だった。
「安全だと言い切らない。失敗を想定する。止める人を決める。記録を残す。そして、自分たちの装置も例外にしない」
自分たちの装置も例外にしない。
その言葉が、引っかかった。
「停止箱を、帝国の装置だけに効くよう作ろうとしていた」
「当然でしょう。今、攻めているのは帝国だもの」
「でも、帝国製というだけでは危険の理由にならない」
北の鉱山で使われる帝国製揚鉱機。
交易用の温度調整器。
医療用の結晶ポンプ。
帝国の技術すべてが、人間の停止を奪っているわけではない。
逆に、グレインベルの兵器が安全だという保証もない。
敵という名前で対象を決めれば、停止箱は安全装置ではなくなる。
こちらに都合の悪い装置だけを止める兵器になる。
「製造元や所属ではなく、動作を見る」
俺は記録紙を引き寄せた。
炭筆を持つ手は、まだ少し震えている。
それでも、線を引いた。
「使用者の停止を無効にする」
一行目。
「恐怖や痛みを、本人の同意なく抑制する」
二行目。
「指揮命令で、使用者の判断を上書きする」
三行目。
「退避入力を雑音として捨てる」
四行目。
「そうした挙動が複数確認され、現場の人間が停止を求めた時だけ、封鎖を許可する」
エリシアが紙を覗き込む。
「敵味方を選ばない規則」
「ああ」
「連邦の兵器が同じことをしていたら?」
「止める」
「そのせいで結界が落ちるかもしれない」
「別の方法で守る」
「間に合わなかったら?」
答えが止まった。
正しい言葉を探しているのではない。
その結果を、本当に引き受けられるのかを考えた。
味方の兵器を止めたせいで、町が攻撃を受けるかもしれない。
誰かが死ぬかもしれない。
その時、規則を守ったから仕方がないと言えるのか。
言えない。
規則は、結果への責任から逃げるための盾ではない。
それでも、味方だからという理由で停止意思の上書きを認めれば、俺たちが作るものは帝国と同じになる。
「負けるかもしれない」
俺は言った。
「それでも止める。止めた結果も記録する。別の防御を用意できなかった責任からも逃げない」
声が震えた。
決意とは、恐怖が消えることではなかった。
怖いまま、どの責任からも目を逸らさないと決めることだった。
「そこで例外を作れば、倫理仕様は敵を妨害するための言い訳になる」
エリシアはしばらく俺を見ていた。
それから、静かに頷いた。
「その答えなら、私は一緒に戻れる」
「まだ方法はない」
「あなたが一人で考えていたからでしょう」
彼女は立ち上がり、鉱車に掛けていた外套を取った。
俺へ放る。
「正しいと証明されてから進むことはできないわ。だから、間違えた時に止まれる形で進むの」
俺は外套を受け取った。
「また間違えるかもしれない」
「ええ」
「君も?」
「もちろん」
エリシアは、ほんの少し笑った。
「その時は、あなたが私を止めて」
「俺が止まれなくなったら?」
「私が止める。フィンも、リナも、ノエルもいる。アークにも止めさせる」
研究所の規則。
一人で開かない。
止め方を先に決める。
それは装置だけの規則ではない。
研究者にも向けるべき規則だった。
「帰ろう」
俺は言った。
「ええ」
「今度は、みんなで止める」
◇
研究所へ戻ると、誰も俺がいなくなった理由を訊かなかった。
フィンは停止箱の黒鉛板を削っている。
削り屑で顔まで黒くなっていた。
ジークはテオの核から写した整備端子を図面に起こしている。
ノエルはR-IDの変化を並べていたが、俺たちが入ると、強く握っていた炭筆をようやく机へ置いた。
ミーナは帝国の補給路を地図へ書き込んでいる。
ダリオは夜明けまでの防衛線を確認する。
ナタリアは、救護所で聞いた負傷者と死者の名前を記録していた。
リナも救護所から戻っていた。
疲労で顔色は悪い。
それでも、テオの呼吸記録と停止入力の波形を抱えている。
誰も何も訊かない。
だが、俺の作業場所だけが空けられていた。
戻ってくることを、前提にしていたように。
アークの種が、机の上で淡く光った。
【ユウマ】
【作業停止時間:三刻】
【恐怖あり】
【罪悪感あり】
【判断の保留を検出】
少し間を置いて、表示が続く。
【質問】
【設計と使用の因果を、単独の責任へ統合するか】
倉庫へ行く前なら、統合すると答えていたかもしれない。
すべて俺の責任だと記録し、自分を停止させればいいと思っていた。
だが、それでは途中にあった選択が消える。
設計した選択。
公開した選択。
鍵を使い回した選択。
盗んだ選択。
停止意思を削った選択。
実戦へ投入した選択。
町を攻撃した選択。
それに抵抗した選択。
「統合しない」
俺は答えた。
「設計しなければ起きなかった結果がある。使うと決めなければ起きなかった結果もある。どちらも消さない」
【複数の因果を記録】
【複数の選択を記録】
【責任主体の単一化を拒否】
アークは、誰が悪いかを判決しない。
罪悪感を消してもくれない。
ただ、途中にあった選択を残す。
倫理演算ができるのは、人間の代わりに責任を引き受けることではない。
後から都合よく因果を一本へまとめないよう、分岐を見せることだ。
「罪悪感を消す補助はあるか?」
俺が訊くと、表示が変わった。
【罪悪感:危険と責任を知らせる信号】
【自動除去:倫理仕様により禁止】
【推奨:記録、共有、休息、再判断】
フィンが吹き出した。
「お前、自分で入れた規則に止められてるぞ」
「正しく動いている」
「休息も推奨されてるけどな」
「それも正しい」
「で、再判断の結果は?」
俺は新しい紙を机の中央へ置いた。
【停止対象を、所属ではなく禁止挙動で定義する】
その下へ、倉庫で書いた四つの条件を並べる。
【使用者本人の停止を無効化する】
【恐怖・痛みを本人の同意なく抑制する】
【指揮命令によって判断を上書きする】
【退避入力を破棄する】
「レギオン・コアを止める」
一度、全員を見る。
俺の判断だけで始めないために。
反対する者がいれば、その理由を聞くために。
「ただし、帝国の装置だからではない。人間から止まる権利を奪ったから止める」
ダリオが最初に口を開いた。
「連邦側の装置に同じ挙動があった場合は?」
「同じ条件で止める」
「戦闘中でもか」
「例外にしない」
ダリオはしばらく俺を見た。
やがて、ゆっくりと頷く。
「条件が明確なら、現場で判断できる」
リナがテオの記録を机へ広げた。
「本人の停止入力を、基準の一つにできます。恐怖が強まった直後、呼吸と筋肉に退避の信号が出ています。でも、核がその信号を切り離している」
ノエルが方眼ノートを開く。
「固定R-IDが分からなくても、処理の順番なら検出できるかもしれません。停止入力が入り、それを指揮命令が上書きする。その挙動自体を署名にします」
ジークが図面の整備端子を叩いた。
「遮断後の出力を逃がす経路もいる。止めた瞬間に入力者が焼けたら、救助にならん」
「黒鉛板を増やす」
フィンが赤い爪を机へ置いた。
「第一型を作り直すぞ。相手の名前を知ってる時だけ止める箱じゃない。相手が何をしているかを見て止める箱だ」
ミーナが地図から顔を上げる。
「作れたとして、どうやって帝国の装置へ届かせる?」
「同期塔を使う」
俺は答えた。
「レギオン・コアへ命令を送っているなら、保守と調整の経路も塔へ集まっている。三基の塔へ停止箱を接続できれば、現場の核へ届く可能性がある」
「接続するには、塔まで行く必要があるわね」
エリシアが言った。
「ああ」
危険は消えていない。
むしろ、これから近づくことになる。
それでも、もう一人で答えを出そうとは思わなかった。
ナタリアが新しい記録紙の上へ日付を書く。
「失敗も判断も、全部残すわ」
「頼む」
「罪悪感も?」
一瞬、迷った。
「ああ。それも消さない」
死者十一名。
負傷者の名前。
テオの停止意思。
俺の鍵の使い回し。
帝国の選択。
これから俺たちが行う選択。
すべてを同じ記録へ残す。
罪悪感を消したから進めるのではない。
正しいと確信できたから進むのでもない。
怖さと責任を持ったまま、それでも明日の砲撃を止めるために進む。
夜明けまで、もう半日もない。
暴走は理論で止める。
ただし、理論だけでは止まらない。
装置へ落とす。
現場へ渡す。
誰が判断し、誰が停止を選ぶのかを決める。
そして、その規則を自分たちにも向ける。
そこまでやって、初めて止め方になる。
俺は炭筆を握った。
指の震えは、まだ消えていない。
それでも今度は、一人ではなかった。




