第35話 記録室の起動
「記録室が反応しています」
クラリス先生がそう言った瞬間、封印書庫の空気がさらに冷えた。
俺たちの周囲にある棚は動かない。
古代理論書も閉じない。
角片も爆ぜない。
だが、書庫の奥で何かが起動している。
音は低い。
石の奥を走る振動。
水晶の内部に閉じ込められていた声が、外へ出る準備をしているような音だった。
閲覧台の水晶板には、角片から伸びる灰色の干渉縞が残っている。
その縞は、古代理論書に浮かぶΩ――オメガの記号へ細く絡み、さらに書庫奥の暗い区画へと伸びていた。
まるで、三つの点を結ぶ回路だ。
角片。
Ω。
記録室。
(角片が鍵)
(Ωが参照記号)
(記録室が応答先)
(でも、起動に足りないものがある)
俺は、閲覧台の縁を見つめた。
光は脈動している。
だが、まだ安定しない。
入力を待っている。
正しい信号が来れば、奥の記録室が開く。
逆に言えば、間違った信号を入れれば、何が起きるか分からない。
「先生、記録室とは?」
リオネルが問う。
「封印資料の一部には、文字や図だけでは解釈できないものがあります。その補助として、古代の研究者が残した応答記録が封じられていると記録にはあります」
「応答記録?」
フィンが嫌そうな顔をした。
「本が喋るってこと?」
「本ではありません。記録体です」
「違いが分かるようで分からねぇ」
クラリス先生は、閲覧台の奥へ視線を向けた。
「人格そのものではなく、研究者の思考傾向、応答記録、失敗ログを結晶に保存したものです。質問に対し、保存された情報から最も近い応答を返します」
「つまり、本人ではないけど、本人っぽく答える?」
「そう考えて構いません」
フィンはますます嫌そうな顔になった。
「それ、微妙に怖いな」
「幽霊よりは扱いやすい」
俺が言うと、カイが肩をすくめた。
「比較対象が幽霊なのも怖いんだけど」
「少なくとも、質問に答える可能性がある。幽霊よりは再現性がある」
「その基準で安心できるやつ、ユウマくらいだぞ」
フィンが言った。
だが、冗談で場が軽くなったのは一瞬だけだった。
閲覧台の脈動は、少しずつ強くなっている。
角片の灰色のR-ID。
古代理論書のΩ記号。
書庫奥の記録室。
三つの応答が、互いに噛み合わないまま揺れている。
(照合は通ってる)
(でも認証が閉じていない)
(足りないのは、たぶん――)
俺は、自分の仮杖に触れた。
クラリス先生がこちらを見た。
「天城さん」
「分かっています。高出力は使いません」
「それだけではありません。封印書庫内での未登録術式は、監査ログに残ります」
「術式ではなく、署名提示です」
「言い方を変えても危険は変わりません」
「危険の種類は変わります」
先生は少しだけ目を細めた。
怒っているのではない。
考えている目だった。
「何をするつもりですか」
「俺の非連結署名を見せます」
全員が黙った。
フィンが最初に口を開く。
「……それ、身分証の代わりにエラー画面を見せるみたいな話か?」
「かなり近い」
「やっぱり怖いじゃねぇか」
「でも、古代理論書は“内在層に接続できぬ者”に反応した。なら、通常の血紋応答ではなく、非応答そのものが鍵になる可能性がある」
エリシアが腕を組んだ。
「理屈は分かるわ。でも、あなた自身を鍵に使うのは危険よ」
「だから停止札を先に置く」
「停止札は最後の保険でしょう。保険があるから危ない橋を渡っていい、という話ではないわ」
「分かってる。起動させたいんじゃない。書庫側に“接続できない人間がここにいる”と知らせるだけだ」
「それでも、あなた自身を鍵にすることには変わりない」
「鍵というより、エラー応答だな」
「言い方を変えても危険は減らないわ」
「……そこは認める」
エリシアは俺をじっと見た。
「なら、無理をしたら止めるわ」
「助かる」
「許可したわけではないから」
「それも分かってる」
彼女は小さく息を吐いた。
その横で、リオネルが腕を組む。
「今の時点で、すでに止められる側の自覚が薄いな」
「観測対象に入れるだけだ」
「自分を観測対象に数えるな」
「数えないと誤差になる」
「……本当に、君の安全概念は時々ずれている」
「だから周囲に止め役を置いてる」
「そこだけは評価する」
リナが不安そうに言う。
「体に負担は?」
「魔力を流すわけじゃない。血紋応答がない状態を閲覧台に読ませるだけだ。電源を入れるというより、接続できませんという応答を返す」
「その例えは分かりませんが、無理はしないでください」
「無理をする前に止める」
カイが頷いた。
「俺は周りを見る。変な反応が出たら言う」
「助かる」
クラリス先生は、少し考えたあと、ゆっくり頷いた。
「許可します。ただし、私の合図で停止すること。エリシアさんは熱核の異常、リオネル君は空気の歪み、リナさんは天城さんの呼吸と顔色、カイ君は周囲の退路、フィン君は閲覧台の物理的な振動を見てください」
「俺、見るだけ?」
フィンが不満そうに言う。
「今日は目の出番だと、先ほど言われたでしょう」
「言われたけどさぁ」
「工具を三つしか持っていないあなたが無理に何かを直そうとすると、たぶん壊します」
「信用が具体的に低い」
「動く前に止めるのも職人の仕事です」
「……そう言われると、やるしかねぇな」
フィンは閲覧台の縁に目を凝らした。
◇
俺は停止札を閲覧台の脇に置いた。
四角で囲った点。
タリヤの木片とは別に持ち込んだ、正式な停止用の札だ。
次に、仮杖の先端を水晶板へ近づける。
触れさせはしない。
封印書庫の閲覧台がどこまで外部媒体を許すか分からないからだ。
角片は中央。
古代理論書は開いたまま。
Ωの記号は淡く光っている。
(目的:記録室の限定起動)
(入力:角片R-ID、非連結署名、低出力位相照合)
(禁止:Ωへの直接励起、出力増幅、自己同期)
(停止条件:縞の二重化、熱戻り、呼吸乱れ、閲覧台振動、エリシアの違和感)
俺は息を整えた。
「……phase。low sweep」
短い声。
ほとんど息に近い。
仮杖の石英片が淡く光る。
閲覧台に浮かんでいた縞が、一度だけ乱れた。
「乱れ、小」
クラリス先生が即座に言う。
「熱は戻ってないわ」
エリシア。
「台の振動、まだない」
フィン。
俺は続ける。
「……no-link signature」
血紋スキル層に接続できない。
その状態を、隠さずに場へ見せる。
前世なら、認証失敗ログ。
この世界なら、非連結者の署名。
水晶板が、一瞬だけ赤く光った。
《内在層応答なし》
《外部補助要求、未定義》
《角片R-ID、損傷》
《古代分類、照合中》
古代文字が浮かび、すぐに現代語へ変換される。
閲覧台の翻訳機能が動いている。
だが、そこで止まらなかった。
古代理論書のページが勝手に一枚めくられる。
Ωの記号が一瞬だけ強く光り、角片の灰色の干渉縞と重なった。
書庫の奥で、石扉が開いた。
風はない。
だが、空気の密度が変わった。
閉じられていた部屋が、こちらを認識した。
閲覧台の水晶板に、薄い警告文が浮かぶ。
《応答記録体、限定起動》
《閲覧者、移動不要》
《記録室側より投影開始》
「来ます」
クラリス先生が言った。
水晶板の上に、光の粒が集まり始める。
粒は、まだ形を持たない。
人にも、文字にも、炎にも見える。
古い記憶が、こちらの時代に合わせて姿を選んでいるようだった。
俺は停止札へ指を添えた。
エリシアが杖を握る。
リオネルが風を抑える。
リナが俺の呼吸を見ている。
カイが退路を確認する。
フィンが閲覧台の縁を凝視する。
クラリス先生の透写羽ペンが、宙で静止している。
光の粒が、人の輪郭を取り始めた。
灰銀の髪。
痩せた肩。
簡素な研究衣。
年齢の分からない顔。
そして、輪郭は淡く揺れているのに、瞳だけが異様に明瞭だった。
その像が、ゆっくりと目を開いた。
封印書庫の静寂が、さらに深くなる。
俺たちは、古代の声が最初の言葉を発するのを待った。




