第36話 古代の声
水晶板の上に立った光の像は、男の姿をしていた。
灰銀の髪を首の後ろで束ねた、痩せた男。
簡素な研究衣。
年齢の分からない顔。
輪郭は淡く揺れているのに、瞳だけが異様に明瞭だった。
若くも老いても見える。
肉体の記録ではなく、研究者としての印象だけを結晶に焼き付けたような像だった。
その像は、俺たちを一人ずつ見た。
《入力署名、確認》
《角片R-ID、損傷大》
《内在層、非応答》
《閲覧権限、限定》
《応答記録体、起動》
声は、耳で聞こえる音ではなかった。
頭の中に意味が置かれる。
それでいて、確かに声として認識できる。
クラリス先生が姿勢を正した。
「あなたは?」
《記録名、シグルド。旧外部演算研究機構、第三層主任。人格保存体ではない。思考応答記録である》
フィンが小声で言った。
「本人じゃないけど、本人っぽく答えるやつだ」
《概ね正しい。工具を持つ者》
「うわ、こっち見た」
《工具の金属音が大きい》
「音で判別されてるのかよ」
緊張が少しだけ緩んだ。
だが、油断できる空気ではない。
光の像――シグルドは、俺を見た。
《非連結者》
その呼び方に、胸の奥が小さく鳴った。
非連結者。
この世界で、ずっとエラーのように扱われてきた言葉。
だが、シグルドの声には侮蔑がない。
分類名として呼んでいる。
異常でも、欠陥でもなく。
そういう入力形式として、認識している。
「質問していいか」
《限定質問を許可する》
俺は閲覧台の中央に置かれた角片を見た。
「この角片は何だ」
シグルドは、角片へ視線を移した。
《同期獣の失敗残骸》
静寂。
リナが小さく息を呑む。
「同期獣……?」
《複数個体の感覚、衝動、移動相を外部基準で同期させる実験体。低位魔獣群を一つの生体回路として運用する軍用研究。倫理封印対象》
リオネルの目が鋭くなる。
「森の魔獣は、自然発生ではなかったということか」
《完全な自然発生ではない。古代式同期技術の粗悪な再起動痕跡がある》
「誰がやった」
《不明。角片R-ID損傷。現行王国式ではない。教会式でもない。帝国式との一致も未確認。ただし、模倣精度は低い》
カイが顔をしかめた。
「誰かが、分かってない技術を無理やり使ったってことか」
《概ね正しい》
「最悪だな」
《最悪には段階がある。これは初期段階の失敗である》
「もっと上があるのかよ」
《ある》
誰も笑わなかった。
◇
俺は質問を続けた。
「古代理論書にあった内在演算層とは、現代の血紋スキルのことか」
《後世語では近似可能。ただし、血統は一要素にすぎない。本質は、個体がマナ場へ介入する際の自動補正機能である》
リオネルの拳がわずかに握られた。
「血統は、一要素……」
《整相度、神経応答、感情波、媒体適性、訓練履歴も影響する》
「訓練履歴?」
エリシアが反応した。
《自動補正は固定値ではない。反復により最適化される》
「つまり、才能だけではないということね」
《正しい。才能は初期条件であり、終端条件ではない》
その言葉に、エリシアの目が少しだけ変わった。
彼女の誇りを否定する言葉ではない。
むしろ、努力の意味を補強する言葉だった。
「非連結者はどうする」
俺が訊く。
《外部演算核を用いる》
「何を補う」
《入力整形、位相整合、境界束縛、反力処理、失敗検出、停止補助》
「それは、発動者の代わりに全部やる装置なのか?」
俺は言い換えた。
「たとえば、使用者が細かい詠唱も判断もせず、装置が勝手に条件を整えて魔法を発動する。そういう完全な自動発動なのか」
《否。完全自動は危険である》
即答だった。
《発動者の判断を残せ。判断を奪った術式は、使用者ではなく管理者に従う》
リナが小さく言った。
「それは、治癒でも同じですか」
《同じ。治癒から判断を奪えば、治療ではなく加工になる》
リナの顔が青くなる。
だが、目を逸らさない。
フィンが尋ねる。
「外部演算核って、今の素材で作れるのか?」
《完全再現は不可。暫定核なら可能。石英、銀、黒鉛、安定結晶、低出力制限を推奨》
「よし、低出力ならいける」
「今ので作る気になったのか」
リオネルが呆れたように言う。
「動くかどうか見たいだろ」
「危険だと思わないのか」
「思う。だから低出力で、止める仕組みを先に作る」
フィンが真顔で答えた。
シグルドがフィンを見る。
《良い判断。出力より停止を優先せよ》
「古代人に褒められた」
「評価されただけだ」
俺が言うと、フィンはにやっと笑った。
「評価でも十分」
◇
「Ωについて聞きたい」
俺がそう言った瞬間、シグルドの像が揺れた。
《封印項目》
「大域同期素子だろ」
《限定応答。Ωは増幅器ではない。同期基準である》
「複数のマナ場を同じ位相へ揃える?」
《正確には、局所位相群を参照位相へ収束させる。対象は個体、媒体、地脈、術式》
「参照位相はどこに置く」
《危険質問》
「答えられない?」
《答えれば再現可能性が上がる》
「そこまで分かれば十分だ」
シグルドは俺をじっと見た。
《非連結者。質問速度が速い》
「まだ聞きたいことの半分も聞いてない」
《記録体にも処理限界がある》
フィンが吹き出した。
「古代人にも怒られてるぞ、ユウマ」
「質問を整理する」
「最初からそうしろよ」
俺は一度、息を整えた。
「なぜ封印された」
その質問に、シグルドはすぐには答えなかった。
光の像の表情が、人間に近くなる。
記録体なのに。
人格ではないはずなのに。
そこには、後悔のようなものが見えた。
《我々は、誰もが魔法を使える世界を夢見た》
声が、低くなる。
《低魔力者。非連結者。感覚不一致者。詠唱困難者。彼らを魔法の外へ置かないために、外部演算を作った》
「それは、間違っていない」
《間違っていなかった。最初は》
封印書庫が、静まり返る。
《Ωの発見で、個人補助は大域同期へ拡張された。一人を助ける装置は、百人を揃える装置になった。百人を揃える装置は、都市を従わせる装置になった》
エリシアが唇を引き結ぶ。
《科学は神話に包まれた。理解できる者を減らすために。やがて、同期の声を神の声と呼ぶ者が現れた》
「神を作ったのか」
《神ではない。命令者だ》
その答えは、ひどく冷たかった。
リオネルが低く言う。
「軍で使えば、兵士の恐怖も消せるのか」
《可能》
「最悪だな」
《それは第二段階の最悪である》
「まだ上があるのか」
《命令者が、自分を神と誤認する》
今度こそ、誰も言葉を発しなかった。
俺は胸の奥が重くなるのを感じた。
知識は力だ。
俺はそれを信じている。
低魔力でも、非連結でも、理論と手順があれば届く場所がある。
それを証明したくて、ここまで来た。
だが、同じ理論は、人を自由にするだけではない。
同じ命令で動かすこともできる。
「あなたたちは、失敗したんだな」
俺が言うと、シグルドは即答した。
《そうだ》
言い訳はなかった。
《だから記録を残した》
「封印したのに?」
《封印は消去ではない。未来への遅延である》
遅延。
その言葉が、妙に重く響いた。
《安全に扱える者が現れるまで、問いを遅らせた》
シグルドの像が薄くなる。
《非連結者。あなたの手動演算は、我々の初期外部補助理論と同系である》
俺は、息を止めた。
《あなたは異端ではない》
その言葉は、思っていたより深く刺さった。
《古い問いの、遅れて来た回答である》
何も返せなかった。
異端ではない。
エラーではない。
門の外にいるのではなく、別の入口に立っている。
そんなふうに言われたのは、この世界に来て初めてだった。
シグルドの像がさらに薄れる。
《応答限界が近い。次回起動には、外部演算核の暫定模型が必要》
「設計図はあるか」
《完全図は封印、破損、焼却済み。断片は存在する》
閲覧台の水晶板に、新しい図が浮かび上がった。
円形の核。
入力端子。
位相補正。
負帰還。
反力ダンプ。
停止系。
そして、外周に赤く塗られたΩ接続ポート。
図の上に、文字が浮かぶ。
《ARC-SYSTEM》
《外部演算補助核》
《使用者判断保持型》
《大域同期接続、制限推奨》
フィンが息を呑む。
「アーク……」
シグルドの声が、最後に響いた。
《アークは人を自由にする》
次の瞬間、赤い警告文が浮かぶ。
《だが、神を作ることもできる》
光の像が消えた。
封印書庫には、また静寂が戻る。
だが、もう同じ静寂ではなかった。
俺たちは、墓場で声を聞いてしまった。
死んだ理論ではない。
遅延された問いだ。
そしてその問いは、今、俺たちの手元に戻ってきた。




