第32話 クラリス先生の秘密
封印書庫へ行きましょう。
自分でそう言った時、俺はそれが「次に調べる場所」の名前だと思っていた。
だが、学院という組織において、場所の名前はただの場所を意味しない。
そこには権限があり、規定があり、責任者がいて、閲覧記録が残り、誰が何を見ようとしたかまで政治的な意味を持つ。
第六実験室での報告は、あくまで現場報告だった。
魔獣襲撃時の時系列。
負傷者の有無。
使用した補助手順。
リナによる治療記録。
カイの退避誘導。
リオネルとエリシアの戦闘判断。
フィンの反力アンカーと、俺の即応手順。
要するに、あれは「何が起きたか」を整理するための報告だった。
だが、封印書庫の名前を口にした瞬間から、話は別の段階へ移った。
問題は、森で何が起きたかではない。
なぜ、学院の管理林に、登録されていないR-IDを持つ異常個体が現れたのか。
そして、そのR-IDが現行の学院式、王国軍式、工房ギルド式、教会式聖印のどれにも一致しないなら――どの資料群に照合すべきなのか。
クラリス先生は、あの場で即答しなかった。
ただ、角片を封印箱へ戻し、透写羽ペンで短い申請文を書いた。
【管理林襲撃事件における異常個体角片の未登録R-ID照合のため、封印資料第三分類の限定閲覧を申請する】
その一文が、俺たちを次の部屋へ連れていった。
◇
翌朝。
報告室ではなく、学院長室の隣にある審議室へ呼び出された時点で、俺は話の性質が変わったことを理解した。
現場報告なら、クラリス先生と担当教員、必要なら学院長への提出で済む。
だが、封印資料閲覧は違う。
閲覧申請は規定上、学院長の承認が必要になる。
さらに、封印資料の一部は王国と教会の共同管理対象だ。
つまり、申請書を出した瞬間、副学長――特に教会寄りのザレスの目にも入る。
分かりやすく言えば、昨日までは「森で危ないことが起きました」という報告だった。
今日は「危ない知識が眠っている扉を開けていいですか」という審議である。
同じ報告の続きに見えて、実際には全く違う。
前者は事故処理。
後者は禁忌への接近だ。
そして俺――天城ユウマは、めでたく監視等級を一段階引き上げられた。
めでたくはない。
学生証の赤い表示は、以前よりも少しだけ濃くなっていた。
《監視付き理論特待生》
《研究活動:制限中》
《未登録術式調査対象》
《封印資料閲覧:要学院長承認》
便利だ。
本人が何か説明する前に、周囲へ「こいつは面倒です」と通知してくれる。
前世でいうなら、白衣の背中に“取扱注意”と印刷されているようなものだ。
「ユウマ、お前、その札さらに禍々しくなってない?」
隣を歩くフィンが、俺の学生証を覗き込みながら言った。
「禍々しさは主観だ。表示色が濃くなったのは事実だけど」
「それを禍々しいって言うんだよ」
「学院のUI設計に文句を言ってくれ」
「ゆーあい?」
「人間に不安を与える表示設計のことだ」
「たぶん違う気がする」
フィンは苦笑しながら、工具袋の紐を締め直した。
森の実習以来、彼の工具袋にも追加の封印札が貼られている。
持ち込み媒体の検査対象、というやつだ。
フィンはそれを見て、「俺の工具まで出世した」と笑った。
笑っていたが、手は少しだけ硬かった。
笑える状況ではない。
けれど、笑わないとやっていられない状況でもある。
◇
審議室に入ると、すでに面子は揃っていた。
長机の奥に、ゼノス=グランヴェル学院長。
黒衣をまとったザレス副学長。
数名の監査官。
そして、端にクラリス=エルダーレン先生。
クラリス先生はいつものように穏やかな顔をしていた。
だが、机の上に置かれた透写羽ペンは動いていない。
記録していない、というより、記録する前の沈黙を選んでいるように見えた。
その横には、エリシア=ヴァーミリオン。
背筋をまっすぐ伸ばし、紅のリボンを胸元で静かに結んでいる。
リオネル=グレイもいた。
腕を組み、窓際に立っている。顔つきは不機嫌だが、以前のような一方的な敵意ではない。
リナとカイも呼ばれていた。
森で同じ班だった全員だ。
証人というより、当事者として集められたのだろう。
机の中央には、二つのものが置かれていた。
一つは、黒い封印箱。
中には、異常個体の角片が入っている。
もう一つは、クラリス先生が提出した閲覧申請書。
そこには、俺が昨夜口にした「封印書庫」という言葉が、学院の正式文書として記されていた。
ゼノス学院長は、俺たちを一人ずつ見てから口を開いた。
「本日の議題は三つです。第一に、管理林襲撃事件の追加調査。第二に、異常個体の角片から検出された未登録R-IDの解析。第三に、クラリス先生より申請のあった封印資料閲覧の是非」
最後の言葉で、部屋の空気が少し変わった。
封印資料。
昨日、俺が「封印書庫へ行きましょう」と言った時には、まだ調査先の候補にすぎなかった。
だが、申請書に記された瞬間、それは学院制度の中に実体を持った。
学院では、あまり口にしない言葉らしい。
学生の間では噂として聞いたことがある。
地下にある禁書庫。
教会と王国が共同で封じた古代写本。
触れた者は異端審査にかけられる。
夜になると本が勝手に呻く。
最後のはたぶん盛られている。
だが、前二つは否定できない。
ザレス副学長が、申請書の端へ指を置いた。
「学院長。封印資料閲覧など論外です。そもそも、この申請は早計に過ぎます。異常個体の角片に未登録R-IDが残っていたからといって、それが古代資料と関係するとは限らない」
「通常登録簿に該当なし。王国軍術式録にも該当なし。工房ギルドの公開R-IDにも該当なし。教会式聖印にも一致しません」
クラリス先生が静かに言った。
「それを確認するために、私が照合しました」
「クラリス先生。あなたの解析は認めます。しかし、だからといって封印書庫を開く理由にはならない」
「では、副学長はどの資料群で照合を続けるおつもりですか?」
「通常手続きに従い、教会へ照会を――」
「教会へ照会すれば、角片そのものの提出を求められます」
クラリス先生の声は柔らかかった。
柔らかいのに、逃げ道を塞ぐような声だった。
「そして提出した瞬間、学院の解析権限は失われます。王国学院として、それを許容しますか?」
ザレスの眉が動いた。
「教会を疑うのですか」
「いいえ。制度の話をしています」
クラリス先生は、そこで初めて透写羽ペンに触れた。
「知識には、管理者がいます。学院、王国、教会、ギルド。どの組織も、自分が管理する知識を手放したがりません。だからこそ、学院の内部で確認できる資料を先に確認すべきです」
「封印書庫の資料は危険です」
「危険だから封じたのか。封じたから危険になったのか。それも、確認しなければ分かりません」
沈黙。
俺は思わずクラリス先生を見た。
いつもの穏やかな先生ではない。
いや、穏やかさは変わらない。
ただ、その奥にあるものが見えた。
胆力。
そして、後悔。
「先生」
俺は小さく声をかけた。
「封印書庫に、入ったことがあるんですか」
クラリス先生の指が、透写羽ペンの上で止まった。
ほんの一瞬。
だが、その沈黙だけで答えは十分だった。
「……ええ」
先生は静かに言った。
「学生だった頃に、一度だけ」
ザレス副学長の目が細くなる。
リオネルがわずかに眉を動かし、エリシアも先生を見る。
「その時、私は知りました。知識は、人を救うこともあります。けれど、準備のない者に渡れば、人を壊すこともある」
「事故が、あったんですか」
フィンが思わず訊いた。
クラリス先生は答えなかった。
ただ、封印申請書の端を指先でなぞった。
「だから私は、一度、知識を閉じる側に回りました」
その声は、いつもの柔らかさを保っていた。
けれど、柔らかいものほど深く刺さることがある。
「今でも、それが完全に間違いだったとは言い切れません。けれど、閉じた知識は、別の場所で腐ります」
部屋の空気が、さらに重くなった。
「今回の角片が、その腐った匂いでないことを、私は確かめたいのです」
ゼノス学院長が小さく息を吐く。
「天城君」
「はい」
「君は、封印資料を閲覧する危険性を理解していますか」
「資料の内容によります」
ザレスが鼻で笑った。
「また言葉遊びを」
「いいえ。危険には種類があります。術式として危険なのか、思想として危険なのか、政治的に危険なのか、あるいは読者の理解不足によって危険になるのか。分類しないと対策が作れません」
リオネルが小さく呟いた。
「本当に、こういう場でも変わらないな」
「再現性のある性格だからな」
「褒めていない」
「半分くらいは?」
「一割だ」
「厳しい」
フィンが肩を震わせた。
ザレスの視線が刺さったので、すぐに真顔に戻った。
戻ったが、遅い。
ゼノス学院長は、俺たちの軽いやり取りを見てから、机上の封印箱へ目を向けた。
箱の中には、森で制圧した異常個体の角片が入っている。
黒く、硬く、ねじれた角。
表面には細いルーン状の傷があり、その奥に、現行術式とは違う位相署名が残っている。
クラリス先生の測定では、R-IDは安定していない。
むしろ、複数の署名が無理やり重ねられたような痕跡があるという。
自然発生の魔獣ではない。
少なくとも、完全な自然ではない。
「条件を付けます」
ゼノス学院長が言った。
「封印資料の閲覧を許可します。ただし、対象はクラリス先生の監督下に置かれる者のみ。資料の持ち出し不可。写本不可。複製不可。高出力術式の実演不可。閲覧中は封印監視結界を起動します」
ザレスが立ち上がりかけた。
「学院長!」
「副学長。これは許可ではなく、管理です」
ゼノスの声が、少し低くなった。
「我々は、森で起きたことを理解しなければならない。理解しないまま禁止すれば、次も同じことが起きます。その時、死者なしで済む保証はありません」
ザレスは唇を引き結んだ。
聖印指輪が、彼の指で鈍く光る。
「……記録は、教会監査の対象となります」
「承知しています」
ゼノスは俺を見た。
「天城君。君の発言と行動は、今後さらに厳しく見られるでしょう。それでも行きますか」
「はい」
「理由は?」
「測れない危険を、放置したくないからです」
答えると、エリシアがほんの少しだけこちらを見た。
リオネルは無言。
フィンは小さく親指を立てた。
リナは緊張した顔で頷き、カイは「まあ、そう言うよな」という顔をしている。
クラリス先生は、初めて少しだけ微笑んだ。
◇
審議はそれで終わらなかった。
許可が出たからといって、すぐに地下へ降りられるわけではない。
封印資料閲覧には、閲覧者名簿、目的欄、監督者署名、封印鍵の貸与記録、退出時の身体検査、発話記録の扱い、そして閲覧後の沈黙義務まで、細かい規定が山ほどある。
ザレス副学長は、その一つひとつに異議を挟んだ。
「同行者は最小限にすべきです」
「森で角片を直接観測した者を外せば、照合精度が落ちます」
「非連結者を封印資料に近づける必要はありません」
「角片の未登録R-IDを最初に異常と認識したのは天城さんです」
「工房生の工具袋は持ち込み不可です」
「分解、記録、複製に使える工具は置いていきます。封印札付きの保守用具のみ許可してください」
クラリス先生は、静かに、だが一歩も引かずに応じた。
穏やかな口調のまま、必要な条件を通していく。
強引ではない。
だが、退かない。
まるで柔らかい布で刃を包み、そのまま押し返しているみたいだった。
俺はその横顔を見ながら、ようやく少しだけ分かった気がした。
この人は、ただ封印書庫を知っているだけではない。
封印される側と、封印する側の両方を知っている。
だからこそ、制度の言葉で戦える。
やがて、すべての署名が終わった。
ゼノス学院長が最後の印璽を押す。
羊皮紙に青白い光が走り、閲覧許可証が発行された。
その瞬間、クラリス先生の透写羽ペンが、ようやく動き出した。
【限定閲覧許可、成立】
【閲覧目的:異常R-ID照合】
【監督者:クラリス=エルダーレン】
【同行者:天城ユウマ、エリシア=ヴァーミリオン、リオネル=グレイ、フィン=クロード、リナ=フェルミナ、カイ=トラヴァース】
【制限:写本不可、複製不可、資料持出不可、高出力術式不可】
羽ペンが止まる。
クラリス先生は許可証を受け取り、俺たちを見た。
「準備をしてください。封印書庫へ向かいます」
その声は静かだった。
だが、さっきまでの審議室の重さとは違う響きがあった。
扉を開ける許可は出た。
問題は、その先に何が眠っているかだった。




