第28話 森のノイズ
第一観測地点は、小さな開けた場所だった。
今回の野外演習では、森の中に設けられた三つの実習地点を順に回ることになっている。
入口に近い第一観測地点では、地脈の乱れが比較的小さい場所で初等火花と風圧を確認する。
次の第二地点では小川沿いの湿った環境で発動差を見る。
最後の第三地点では、古い結界柱の近くで簡易結界を展開する予定だ。
つまり、ここは一番安全なはずの場所だった。
周囲を背の高い針葉樹に囲まれ、中央だけ芝生のような短い草が生えている。
学院が実習用に整備したのだろう。
地面には薄い円陣が埋め込まれ、四方に白石の杭。
遠目には、安全な演習場の縮小版に見える。
だが、俺には違って見えた。
(円陣の線幅が不均一)
(南東の杭だけ沈んでる)
(地脈流は北東から南西)
(風は西から東)
(熱核を置くと、外皮が流される)
安全な場所というより、安全に見せるための場所だ。
教師は学生たちを半円形に並べ、いつもの調子で説明を始めた。
「野外魔法運用において重要なのは、環境への適応である。屋内演習場と異なり、地形、風、湿度、地脈の乱れが発動に影響を与える」
正しい。
正しいことを言っている。
「ただし、学院管理林は結界によって調律されている。諸君は標準詠唱を守り、過度な応用を避けること」
半分だけ正しい。
結界はある。
調律もされている。
だが、調律が現時点で有効かどうかは別問題だ。
改めて教師からの説明が入る。
「本日の課題は三つ。第一、低出力火花。第二、簡易風圧。第三、二人一組による遮蔽結界。高出力術式は禁止。独自術式は禁止。持ち込み補助具の使用は教員許可を得ること」
最後の言葉で、教師の視線が俺に刺さった。
分かりやすい。
人間もラベルが好きだが、視線にもラベルがある。
俺は小さく頷いた。
今は反論しない。
反論すると、観測時間が減る。
「各班、準備に入れ」
学生たちが散る。
リオネルは風圧の確認へ。
エリシアは火核の低出力化へ。
フィンは円陣の端を見て、早速しゃがみ込んでいる。
カイは他班との距離を確認し、リナは救護鞄を広げていた。
俺は開けた場所の中央ではなく、少し外れた苔の多い地面へ向かった。
「また変な場所に行く」
フィンが言った。
「中央は整えられすぎてる。外周の方が本当の森に近い」
「それ、普通は危ないって言うんじゃね?」
「だから見る」
俺は黒鉛針を刺した。
石英片が薄く光る。
針は北東へ倒れ、戻り、また倒れた。
六拍。
昨日まで第七環で見た地脈ノイズと似た周期。
だが、ここでは重なっているものが違う。
「……一、二、三、四、五、六」
針が戻る。
「一、二、三――」
途中で、針が跳ねた。
六拍周期の途中に、別の短いパルスが割り込んだ。
まるで、誰かが地面の下から指で弦を弾いたように。
(自然ノイズじゃない)
(獣の足音? いや、地面振動ではなく場の位相変化)
(R-IDを持つ入力?)
俺は探針を抜かず、記録紙に線を引いた。
【異常パルス:六拍周期に非同期】
【位相跳び:短時間】
【方向:森奥、北北東】
「ユウマ」
エリシアが近づいてきた。
彼女の火核は杖先に灯っていない。
それでも、彼女の周囲の空気はわずかに温かい。
火属性の高C-index者は、発動前から場を整える。
「火がざらつくわ」
「朝の“重い”とは違う?」
「違う。重いのは外皮が沈む感じ。今は、核の内側に砂が混じる感じ」
「砂か」
「笑わないで」
「笑ってない。対応表に足す」
俺は書いた。
【エリシア感覚:火核内に砂】
【仮説:高周波ノイズ/核内部の微小発振】
「……便利ね、その紙」
「便利だ。人間の感覚は測定器になる」
「貴族の直感を測定器扱いする人、あなたくらいよ」
「高価な測定器だな」
「褒めているのかしら」
「かなり」
彼女は少しだけ目を逸らした。
その時、リオネルが戻ってきた。
表情が硬い。
「風が変だ」
「具体的には?」
「鳥が飛ばない」
「鳥?」
「普段、この森なら樹上に小鳥がいる。だが、さっきから上層の風が空だ。小動物も南へ逃げている」
「魔獣の気配か?」
「分からない。だが、自然な静けさではない」
リオネルの報告は簡潔だった。
彼は風を読む。
俺が針で地脈を見るように、彼は空気の空白を見る。
俺は森の奥を見た。
聞こえる音は変わらない。
葉擦れ。
遠い小川。
学生たちの詠唱練習。
だが、その奥に、空白がある。
音がない場所。
獣が避ける場所。
「フィン」
「おう」
「探針二号」
「はいよ」
フィンが工具袋から小型の振動板を出した。
薄い石英板に黒鉛粉を塗り、端に銀線を引いたもの。
音ではなく、場の震えを拾う板だ。
「これ、昨日の夜に作ってたやつだろ。完成度六割」
「十分」
「俺の試作品はだいたい六割で動く」
「残り四割は?」
「現場で気合い」
「そこが危険なんだが」
「動いたら正解」
フィンはそう言いながら、板を地面に置いた。
俺は仮杖の先で軽く触れ、最低出力で場を撫でる。
「……phase。低域掃引」
石英板に薄い縞が浮かんだ。
波紋のような線が広がり、北北東の方向でひずむ。
フィンが顔をしかめた。
「うわ、何か引っかかってる」
「見える?」
「見えるっていうか、板が嫌がってる。ギギって感じ」
「擬音は後で対応表に入れる」
「入れんな」
カイが近づいてきた。
「何か見つかった?」
「まだ“何か”の段階だ。君は周囲の班の位置を覚えてるか?」
「だいたい。第二班が西、第三班が南の小川側、教師が中央、下級生の補助班が入口寄り」
「退避するとしたら?」
「入口に戻るより、南西の小川沿い。道が広い」
「ただし地脈流は南西へ落ちてる。魔法失敗時の流れもそっちに行く」
「じゃあ、負傷者は?」
「地脈の谷の手前。流れに乗せない位置」
カイは一瞬だけ黙り、それから頷いた。
「分かった。合図があったら、俺が誘導する」
「まだ合図はしない」
「分かってる。でも、先に決めとく」
いい判断だった。
カイは理論を全部理解しているわけではない。
だが、人がどう動くかを見ている。
現場には、そういう目が要る。
リナが救護鞄を持って近づいてきた。
「あの、念のためですけど、負傷者が出た場合の集合地点を決めてもいいですか?」
「決めよう。あの倒木の陰。地脈流から少し外れてる。風も抜ける」
「はい。治癒術式は重傷者への止血と生命維持を優先します。軽傷への痛覚緩和や小さな修復は、状況が落ち着くまで後回しにします」
「理由は?」
「治癒魔法は、見た目より消耗が大きいからです。外部媒体が十分でない野外で軽傷まで順に治していたら、本当に必要な時に魔力も薬も足りなくなります」
俺は少し驚いて彼女を見た。
リナは柔らかく笑う。
「この前の理論魔法研究会で聞いていましたから」
「研究停止中だけど」
「聞いたことまでは止められません」
その言葉は静かだったが、強かった。
俺は頷いた。
「助かる」
「こちらこそ。止める手順があると、治癒も落ち着いてできます」
小さな火花は、もう移り始めている。
研究室は封鎖された。
SOP配布は禁止された。
でも、人は覚える。
必要だと思ったものは、忘れない。
その時、教師の声が響いた。
「第一課題、開始!」
各班が低出力火花を始める。
標準詠唱が森に散った。
「火の種よ、掌に灯れ」
「火の種よ、掌に灯れ」
「火の種よ――」
いくつもの小さな赤が灯る。
実技庭園よりも不安定だ。
火が左右に揺れ、ある者はすぐ消え、ある者は大きくなりすぎて教師に止められる。
屋外環境。
地脈ノイズ。
湿度。
風。
すべてが、標準詠唱の誤差を広げる。
俺は発動しない。
観測する。
火花が灯るたびに、森の地脈がわずかに揺れる。
正常な揺れ。
失敗の揺れ。
封印札の揺れ。
その中に、別のものが混じっていた。
北北東。
森の奥。
短いパルス。
火花に反応している。
(向こうが、こちらの発動を拾ってる?)
背筋が冷える。
「エリシア、火核を出さないで」
「分かったわ」
「リオネル、上層風は?」
「……さらに空いた。鳥が完全に消えた」
「フィン、杭を準備。打つな。持ってろ」
「了解」
「カイ、第二班と第三班の距離を見てくれ。近づきすぎてたら離す」
「任せて」
「リナ、集合地点の印を」
「はい」
指示を出すと、全員が動いた。
不思議なことに、誰も理由を長く聞かなかった。
まだ何も起きていない。
だが、何かが起きる前の手順として動いている。
それは、旧東棟地下の小実験室で何度も確かめた形に近かった。
発動者、観測者、停止係。
役割が先に決まると、人間は少し落ち着く。
教師がこちらに気づいた。
「天城ユウマ! 課題を実行しなさい。独自行動は禁止だ」
「課題前に環境確認を――」
「許可していない」
教師の声が硬くなる。
周囲の学生がこちらを見る。
その瞬間だった。
森の奥から、低い音がした。
獣の唸り。
いや、違う。
唸りにしては、音程が揃いすぎている。
喉から出る音ではない。
空洞を通した笛のような、湿った低音。
その音が、地面の下のマナ場を叩いた。
黒鉛針が跳ねた。
石英板の縞が割れた。
エリシアが息を呑む。
「火が、裂けた」
リオネルが剣に手を置く。
「来る」
教師が振り向いた。
「全員、課題中止! 待機姿勢――」
言葉が終わる前に、北北東の茂みが弾けた。
黒い影が、森の奥から飛び出してくる。
一体ではない。
三体。
五体。
十体。
狼に似た体躯。
だが、背中には石のような突起。
口元からは青白い泡。
目は赤く濁り、動きが揃っていない。
群れだ。
ただし、統率された群れではない。
何かに追われるように、何かに操られるように、魔獣たちは開けた実習場へ雪崩れ込んできた。
学生たちの詠唱が、悲鳴に変わる。
俺は仮杖を握った。
(やっぱり)
(安全域なんかじゃない)
森が隠していたものが、姿を現した。




