第29話 襲撃
最初に崩れたのは、詠唱だった。
「火の――火の種よ、掌に――!」
「風よ、壁となりて――違う、待って、こっちに来る!」
「先生、結界を!」
声が重なり、ぶつかり、途切れる。
森の開けた場所に、恐怖が一気に満ちた。
詠唱は、落ち着いている時には強い。
言葉が条件を整え、呼吸が場を整え、血紋スキル層が足りない部分を補う。
だが、恐怖で呼吸が乱れた瞬間、詠唱は長い坂道になる。
登り切る前に、獣が来る。
誰かの杖が地面に落ちた。
乾いた枝を踏む音と、杖先の石英が石に当たる硬い音が重なる。
別の学生が、震える指で杖を握り直そうとして失敗した。
火花が一瞬だけ灯り、恐怖で乱れた呼吸に引きずられて、青白く潰れる。
「いや、来るな……!」
「落ち着け、標準詠唱を――」
「無理だよ、速い!」
黒い魔獣が一体、最前列の学生へ跳びかかった。
狼に似ている。
だが、狼ではない。
肩の位置が高く、前脚が長い。
背中には石のような突起が並び、突進のたびに青白く瞬く。
口元から泡が散り、湿った土に落ちて、じゅっと音を立てた。
「土よ、盾とな――!」
補助学生の一人が杖を掲げる。
土属性を得意とする三年生だ。
咄嗟に前へ出て、結界膜を立ち上げようとした。
だが、形成前の膜は薄い。
魔獣の突進がそこへ刺さり、膜が局所的にへこんだ。
ぱきり、と音がした。
結界が割れたのではない。
支点がずれた音だ。
(反力が逃げてない)
(地面へ押し付ける前に、膜だけで受けた)
(膜厚、足りない。支持点、浅い。右下端、崩れる)
恐怖で喉が詰まりそうになる。
だが、詰まらせる余裕はない。
怖いなら、数えろ。
見えるものを増やせ。
見えれば、次の手順が選べる。
「下がれ!」
俺は叫んだ。
補助学生が振り返る。
その一瞬が遅い。
魔獣の前脚が結界膜を滑り、脇へ抜けた。
鋭い爪が肩口を裂く。
「うああっ!」
血が飛んだ。
白と青の実習外套に赤が散る。
近くの一年生が悲鳴を上げ、後ずさった先で別の学生にぶつかった。
人の動きが絡まる。
恐怖は、群れになる。
「リナ!」
「はい!」
リナが走る。
だが、真っ直ぐ負傷者へ向かわない。
一度、俺が指定した倒木の陰へ回り込み、地脈流の谷を避けてから近づく。
いい。
パニックでも手順を守っている。
「カイ、負傷者を倒木側へ!」
「任せろ!」
カイが軽槍を横に構え、魔獣と負傷者の間に入った。
攻撃ではない。
距離を作るための姿勢だ。
魔獣が低く唸る。
前脚が土を掻き、草が抉れる。
飛びかかる直前の重心。
肩が沈む。
次に来る。
「カイ、右へ跳ぶな! 半歩だけ引け!」
「っ、了解!」
カイが踏みとどまる。
魔獣の爪が、さっきまで彼の肩があった場所を裂いた。
風圧で髪が跳ねる。
彼は歯を食いしばり、槍の柄で魔獣の鼻先を叩いた。
倒すためではない。
向きを変えるためだ。
「第二班! 小川へ走るな! 倒木の方へ寄れ!」
「でも入口は――!」
「入口は詰まってる! こっち!」
カイの声はよく通る。
理屈を説明する時間はない。
現場では、声の大きさも安全装置になる。
教師たちは中央で結界を張ろうとしていた。
だが、魔獣は一方向から来ていない。
北北東から雪崩れた群れが、開けた場所に入った途端、左右へばらけた。
統率がない。
いや、統率が壊れている。
(群れの目的は捕食じゃない)
(逃走? 興奮? 発振?)
(進路が不規則。でも、完全なランダムじゃない)
(背中の結晶が光るたび、向きが変わる)
魔獣の背中の突起が青白く明滅していた。
石のように見えたものは、マナ結晶に近い。
ただし、自然結晶ではない。
結晶内部の光が、一定せず、ちらついている。
俺は呼吸を一つ落とした。
周囲の音を切り分ける。
悲鳴。
魔獣の爪音。
教師の詠唱。
エリシアの杖先で火核が鳴る微細な音。
リオネルの風が葉を切らずに押し分ける音。
フィンが工具袋を開ける金具の音。
必要な信号だけ拾う。
「周波数が不安定な個体がいる」
俺は呟いた。
「どれ?」
エリシアが杖を構える。
火球を撃とうとして、俺の札を思い出したのか、核だけを杖先に留めた。
赤い点。
小さい。
だが、安定している。
彼女も怖くないはずがない。
けれど、火は揺れていない。
それだけで、こちらの手順が一つ増える。
「まだ撃たない」
「分かっているわ。だけど、このままだと間合いに入られる」
「撃つなら進路を切る。焼くんじゃない」
「制圧ね」
「そう」
リオネルが風刃剣を抜いた。
彼の周囲に風が巻く。
速い。
美しい。
だが、この狭い森では危ない。
風刃で切れば、魔獣は倒れるかもしれない。
だが、血の匂いと痛みで群れがさらに散る。
散れば、逃げる一年生の中へ飛び込む。
「リオネル、風を切るな」
「何?」
「切ると魔獣は散る。散ると負傷者が増える。流せ」
「僕に、逃がせと言うのか?」
「違う。進路を指定しろ」
リオネルの目が一瞬だけ鋭くなる。
「……どこへ」
「南東の苔地。地脈が弱い。足が鈍る」
「三体なら送れる」
「十分」
リオネルが剣を振った。
風刃ではなく、薄い横風。
魔獣の鼻先に当てる。
切らない。
押さない。
ただ、嫌がる流れを作る。
葉が一斉に寝た。
草が波のように倒れ、魔獣の耳が反射的に風上へ向く。
その一瞬、進路が変わった。
魔獣三体が南東の苔地へ踏み込む。
湿った苔が爪に絡み、足を取る。
地脈が弱く、背中の結晶の明滅が鈍った。
「今!」
エリシアが火核を置く。
撃たない。
魔獣の進路上の空気へ、赤い核を置いただけだ。
俺は仮杖を向ける。
「……shell。薄く。Δφ、ゼロ寄せ」
火核の周囲に、薄い外皮を作る。
ほんの一瞬。
熱が横へ逃げず、前方の空気だけが膨張する。
ばん、と低い音。
小さな熱衝撃が魔獣の足元を叩き、三体が転んだ。
土が跳ねる。
黒い身体がもつれ、爪が空を掻く。
一体が起き上がろうとして、苔に足を取られてまた滑った。
殺していない。
止めただけだ。
「やれるじゃない」
エリシアが言う。
「君の火が安定してるからだ」
「今、褒める余裕ある?」
「事実確認だ」
「本当に、あなたは」
彼女の口元が一瞬だけ緩む。
だが、すぐに表情が引き締まった。
次の魔獣が来る。
開けた場所は、すでに混乱していた。
教師の結界が中央に張られ、学生たちはその内側へ逃げ込もうとする。
だが、全員が同じ方向へ走れば入口が詰まる。
詰まったところへ、魔獣が突っ込む。
最悪の流れだ。
俺の頭の中で、森の簡易地図が広がる。
入口。
倒木。
苔地。
小川。
白石杭。
結界柱。
地脈の谷。
人の流れ。
魔獣の進路。
線が重なる。
詰まる場所が見える。
死角が見える。
逃がすべき反力の先が見える。
「フィン、杭!」
「どこ!」
「倒木の右、白石杭の手前、根が三本出てる場所!」
「見えねぇ!」
「カイ!」
「了解!」
カイがフィンの前へ走り、槍で地面を指した。
「ここ!」
「助かる!」
フィンが杭を打つ。
一本目。
地面に刺さり、黒鉛芯が地脈に触れる。
石英先端が淡く光った。
魔獣が一体、フィンの背後へ回り込む。
フィンは気づいていない。
「フィン、伏せろ!」
「うおっ!」
フィンが工具袋ごと地面へ倒れ込む。
魔獣の爪が、彼の頭上を薙いだ。
リオネルの風が横から魔獣の肩を押し、カイの槍がその鼻先を打つ。
軌道が逸れる。
「今の、寿命縮んだ!」
「記録しておく!」
「すんな!」
「二本目、南へ半歩!」
「細けぇ!」
「誤差が大きいと折れる!」
「折りたくねぇ!」
二本目。
打ち込まれる。
俺は仮杖を地面へ向けた。
「……anchor。weak bind」
杭と地脈の間に、細い経路を作る。
反力を逃がすための道。
今はまだ、低出力。
だが、後で必要になる。
その時、教師の一人が大声で詠唱を始めた。
「大地よ、我らを守る堅牢なる壁となれ――」
大きい。
明らかに中等結界。
この場の混乱を止めるために、強い壁を作るつもりだ。
だが、足元の地脈が揺れている。
中央の円陣はすでに魔獣の突進で傷つき、南東の白石杭は沈んでいる。
その状態で大きな結界を立てれば、反力が逃げない。
膜が立つ。
魔獣がぶつかる。
地面が受ける。
支持点がずれる。
結界が内側へ倒れる。
頭の中で、その失敗が先に見えた。
まるで、実験記録の続きを読んでいるみたいに。
「先生、止めてください!」
俺は叫んだ。
教師は聞かない。
いや、聞こえていても止められない。
詠唱はもう後半に入っている。
自分の発動を途中で中止する訓練を、たぶん十分にしていない。
「大地よ――」
「リナ、停止札!」
「はい!」
リナが四角で囲った点の札を掲げる。
だが、距離が遠い。
中等結界には届かない。
「くそ」
俺は仮杖を握り直した。
(出力で止めるな)
(介入点を探せ)
(結界本体じゃない)
(詠唱の初期条件)
(地面への結合部)
教師の杖先から土色の光が広がる。
結界膜の下端。
まだ閉じていない。
「……phase。底だけ」
俺は最低出力で、結界の下端を撫でた。
膜そのものを壊すのではない。
地面への結合を、一瞬だけ滑らせる。
結界の立ち上がりが遅れた。
教師が驚いて詠唱を止める。
「何をする!」
「今は壁じゃない!」
魔獣が迫る。
教師が怒鳴る。
「では何だ!」
俺は杭の光を見た。
まだ細い。
だが、繋がっている。
「今は、反力処理が要る」
その言葉に、リオネルが振り向いた。
エリシアも、フィンも、リナも、カイも。
全員が一瞬だけこちらを見る。
短い。
ほんの一拍。
だが、十分だった。
「エリシア、核を三つ。撃たない。置く」
「了解」
「リオネル、外皮風。切るな。包め」
「……分かった」
「フィン、三本目を白石柱の根元へ。劣化してる。深く打つな。浅くでいい」
「浅くって逆に難しいんだけどな!」
「カイ、一年生を倒木内側へ。入口へ戻すな」
「任せろ!」
「リナ、負傷者の意識確認。重傷なら止血と生命維持を優先。軽傷の痛覚緩和は後回し」
「はい!」
指示が広がる。
それぞれが動く。
怖がっていない者はいない。
カイの声は少し上ずっている。
リナの手は震えている。
フィンは杭を握る指に力を入れすぎて、爪が白い。
リオネルの風も、いつもより少し荒い。
エリシアの火核でさえ、時折、外皮が微かに歪む。
それでも、動いている。
手順があるからだ。
俺は森の奥を見た。
魔獣の群れの向こう。
北北東。
木々の影の中に、ひときわ大きな個体がいた。
狼型ではない。
鹿のような角。
しかし胴体は獣ではなく、黒い泥を固めたように歪んでいる。
背中の結晶が、青白く明滅していた。
その明滅に合わせて、周囲の魔獣が狂ったように動く。
(あいつだ)
(発振源)
黒鉛針の異常パルス。
エリシアの火のざらつき。
リオネルが見た鳥の不在。
全部、あいつから来ている。
「発振源を特定した」
俺は言った。
「どこ?」
エリシアが火核を置きながら訊く。
「森の奥。角のある個体」
リオネルが風を巡らせ、目を細める。
「見えた。だが遠い」
「距離は問題じゃない。経路が問題だ」
「経路?」
「あいつまで、直線で撃つと全員を巻き込む」
魔獣がさらに迫る。
教師の結界は間に合わない。
学生たちはまだ逃げ切っていない。
必要なのは大火力ではない。
この混乱を切る線だ。
俺は仮杖を構え、息を吸った。
あの夜、旧東棟地下で言葉にした安全規範。
第一条、人命優先。
反力処理。
地脈アンカー。
停止条件。
机上で書いた言葉が、目の前で試されている。
(失敗したら、人が死ぬ)
(だから、失敗できる形にする)
(止められる形で、動かす)
心臓は速い。
掌は汗で滑る。
怖くないわけがない。
でも、怖いからこそ、数える。
怖いからこそ、止める手順を先に置く。
怖いからこそ、祈らない。
俺は短く言った。
「即応戦術に切り替える」
リオネルが笑った。
挑発ではない。
緊張を切るような笑いだった。
「理屈で森を歩くどころか、森で戦う気か」
「戦うんじゃない」
俺は発振源を見据えた。
「止める」




