第27話 実習の森
野外実習の知らせが出たのは、前日の午後だった。
実技基礎の授業が終わった直後、担当教師が教壇の上で一枚の羊皮紙を広げた。
内容は簡潔だった。
【一年基礎実技・野外環境演習】
【場所:王都郊外、学院管理林・第三野外実習区画】
【目的:屋外環境における初等魔法の安定発動、退避行動、簡易結界の展開確認】
【注意:高出力術式は禁止。独自術式は禁止。教員の指示に従うこと】
つまり、授業の一環だ。
学院の管理林では、月に一度、教員と警備担当が結界柱や魔獣避けの状態を点検しているらしい。
実習要項にも、直近の巡回記録に異常なし、と記されていた。
だから今回の俺たちは、森の安全を確認するために派遣されるわけではない。
あくまで「安全確認済み」とされた区画で、屋外環境が初等魔法に与える影響を体験する基礎実習である。
……という建前になっている。
(屋外環境での基礎訓練、か)
俺は配られた実習要項を見ながら、思わず眉を寄せた。
研究活動は停止中。
旧東棟地下の測定室は封鎖。
SOPの配布も禁止。
それでも学院としては、学生に実地訓練を受けさせる必要がある。
そして俺を完全に授業から外せば、それはそれで「何をそこまで恐れているのか」という話になる。
だから、野外実習。
学院側にとっては、俺を監視下に置いたまま屋外環境での挙動を観察できる。
俺にとっても、実験室は封鎖されているが、現場の安全確認まで禁止されたわけではない。
実習要項の端には、小さくこう追記されていた。
【管理林は月次巡回済み。直近巡回記録に異常なし】
管理記録は重要だ。
だが、記録は記録された時点の状態しか保証しない。
(書類上の安全ほど、現場で信用しすぎると危ない)
そう考えた時点で、持っていくものは決まった。
攻撃術式ではない。
高出力媒体でもない。
測る道具。
止める道具。
逃がす道具。
安全確認用なら、ぎりぎり言い訳が立つ。
◇
そして翌朝。
王都郊外、学院管理林。
正式名称は「第三野外実習区画」。
俺たち一年生は、入口広場で点呼を受けていた。
今日は一年基礎実技の野外演習だが、安全管理のため、各班には上級補助学生が同行することになっている。
俺の班についた補助学生は、エリシア=ヴァーミリオンとリオネル=グレイだった。
学院主席と、風の名門。
どちらも一年生の補助役としては過剰な人材だ。
(補助というより、監視だな)
そう考えると、妙に納得できた。
俺を野外へ出す以上、学院側としても「何かあった時に止められる人間」を近くに置きたいのだろう。
点呼と注意事項が終わり、まだ本課題に入る前の待機時間。
俺は森の入口でしゃがみ込み、地面に細い黒鉛針を刺した。
森は、思っていたよりも騒がしかった。
いや、耳に聞こえる音は少ない。
鳥の声。
葉擦れ。
遠くで小川が石に当たる音。
靴底が湿った土を踏む音。
だが、場が騒がしい。
地図上では安全域に分類され、低級魔獣避けの結界が張られ、月次巡回記録にも異常なしとある。
つまり、書類上は安全だ。
針の根元には小さな石英片。
石英片の周囲には銀線を一巻き。
フィンが昨夜、工具室の隅でこっそり組んだ簡易探針だ。
「……針、北東へ三度。いや、周期的に戻るな」
黒鉛針が、かすかに震えていた。
風で動いているのではない。
地面の下を流れるマナ場――地脈の表層流が、針先の黒鉛層に微弱な偏りを与えている。
俺は記録紙に線を引く。
【地点A:地脈流向 NE 3°〜0°で揺動】
【周期:約六拍】
【強度:低〜中】
【備考:南側に散乱源】
「ユウマ、お前さ」
背後から声がした。
フィン=クロード。
工具袋を肩に引っ掛け、片手に小さな杭を三本持っている。
森に来たというより、工房の床をそのまま野外に延長したような格好だ。
「森に着いてまだ三分だぞ。もう地面と会話してんのか?」
「会話じゃない。観測だ」
「地面から返事来てる?」
「来てる。あまり機嫌が良くない」
「やっぱ会話じゃん」
フィンは笑いながら、俺の横に膝をついた。
手元の杭は、木芯に黒鉛粉を染み込ませ、先端だけ薄い石英で覆ったものだ。
見た目はただの雑な杭。
だが、地面に打ち込めば簡易の反力アンカーになる。
「これ、どこに打つ?」
「まだ打たない。先に流れを見る」
「了解。杭は逃げない」
「君が落とさなければ」
「そこまで信用ない?」
「工具係としてはある。持ち物管理としては検証中」
「ひでぇ」
フィンが肩をすくめたところで、班員たちがこちらへ集まってきた。
今回の班分けは、学院側が決めた。
一年生側は、俺、フィン、リナ=フェルミナ、カイ=トラヴァース。
そこへ上級補助学生として、エリシアとリオネルが付く。
貴族主席、風の名門、工房系、治癒系、行動派、監視付き理論特待生。
安全実習というより、評議会が「何かあっても責任の所在を分散できる組み合わせ」を作ったように見える。
嫌な合理性だ。
「天城」
涼しい声が降ってきた。
リオネル=グレイが、木漏れ日の下に立っていた。
学院の制服の上から実習用の軽装外套を羽織り、腰には家伝の風刃剣。
足元の泥を嫌うように見えて、歩き方に無駄がない。
森に慣れているというより、どこでも自分の姿勢を崩さない人間の歩き方だ。
「何をしている」
「地脈マップを作ってる」
「実習は始まっているが、まだ本課題には入っていないぞ」
「本課題前だからだ」
「開始前から地面を測る必要があるのか?」
「ある。課題が始まってから異常に気づいても遅い」
「理屈で森を歩くつもりか?」
予想通りの言葉だった。
周囲の学生が少し笑う。
俺は黒鉛針を抜き、土を払った。
「森を理屈で歩くんじゃない。理屈で迷わないようにする」
「詭弁だな」
「安全確認だ」
「安全確認なら、学院の巡回記録がある」
「月次巡回記録だ。最後に見た時点では有効でも、今この瞬間の森を保証するものじゃない」
リオネルの眉が少し動いた。
「一か月で森が変わると?」
「一日でも変わる。湿度、風向、地脈、獣の移動、結界柱の劣化。現場条件は待ってくれない」
「君は、本当に面倒な男だ」
「よく言われる」
「否定しろ」
「再現性のある評価だからな」
フィンが横で吹き出した。
リオネルは不快そうに目を細めたが、それ以上は言わなかった。
その少し後ろで、エリシアが静かに森を見ていた。
紅のリボンは今日は外套の内側に隠されている。
焔紋の杖を手にしているが、構えはしていない。
「ユウマ」
「何?」
「この森、火が重いわ」
彼女の声は低かった。
冗談の温度ではない。
「重い?」
「燃えにくい、とは違う。火を出す前に、外皮が沈む感じがする。湿気だけではないわ」
俺は記録紙の端に追記した。
【エリシア感覚:火が重い】
【仮説:地脈散乱/外皮形成時の位相遅延】
「採用」
「まだ何も説明していないわ」
「説明できるようにするために記録する」
「そういうところよ」
エリシアは少し呆れたように言った。
だが、以前のように突き放す響きではない。
自分の感覚が記録されることに、もう抵抗はないらしい。
リナ=フェルミナが、不安そうに周囲を見回した。
淡い栗色の髪を肩口でまとめた、治癒魔法専攻の一年生だ。
実技の成績は派手ではないが、観察が細かい。
人の顔色や呼吸の乱れに気づくのが早く、授業でも怪我人が出ると真っ先に駆け寄るタイプだった。
腰には緑晶の数珠と、小さな医療キットを下げている。
「本当に、危ない場所なんですか?」
「今のところ、危険とは言えない。ただ、きれいではない」
「きれいではない?」
「場の流れが整っていない。魔法が失敗したとき、失敗理由が増える」
「それは……危ない、に近い気がします」
「近い。だから先に手順を置く」
俺は白衣の内側から、小さな札束を取り出した。
木札ではない。
薄い羊皮紙に石英粉を塗り、端に黒鉛線を引いたもの。
学院の正式媒体ではない。
だから、出力増幅には使えない。
だが、合図と停止と退避には使える。
「何それ」
カイ=トラヴァースが、興味津々で覗き込んできた。
同じ一年の平民出身で、軽槍を背負った行動派の学生だ。
魔力量は目立たないが、足が速く、周囲を見るのがうまい。
誰かが孤立すると自然に声をかけ、教師の指示が届きにくい場所へもすぐ走る。
会話でも、森の道でも、人と人の間を移動するのが得意な男だった。
「プリセット札」
「研究停止中じゃなかったっけ?」
「これは攻撃術式じゃない。安全補助具だ」
「その言い方、先生に怒られない?」
「怒られる可能性は高い」
「使うんだ?」
「必要なら」
俺は札を一枚ずつ配った。
「丸印が退避。起動すると、地脈の弱い方向へ小さな光点が出る。追わなくていい。見るだけで方向が分かる」
カイに渡す。
「君は誘導役。班の誰かが混乱したら、光点と逆に走らせないでくれ。特に、入口へ戻ろうとする動きが出たら止めてほしい」
「了解。地図より分かりやすいの助かる」
「波線が遮蔽。煙というより、細かい粉塵膜だ。視界を切るだけで火力はない」
フィンに渡す。
「お前、俺に煙幕渡すの好きだな」
「君は現場で隙間を作るのがうまい」
「褒めてる?」
「かなり」
「よし、採用」
「四角で囲った点が停止。初等術式の暴走兆候を黒鉛層へ逃がす。万能じゃない。強い魔法には効かない。だが、低出力の失敗なら戻せる」
リナに渡す。
彼女は両手で慎重に受け取った。
「負傷者の近くで使っても大丈夫ですか?」
「低出力なら。むしろ、治癒術式の過剰入力を止める補助にもなる」
「……わかりました。停止を優先します」
エリシアには、赤い縁をつけた札を渡した。
「これは?」
「熱核保持用の合図札。出力を上げるものじゃない。君の火を“撃つ”前に、“置く”ためのもの」
「私に、火球を撃つなということ?」
「必要になるまでは」
「命令?」
「依頼」
エリシアは札を見つめ、少しだけ口元を緩めた。
「なら、聞くわ」
最後に、リオネルへ細い青線の札を渡す。
「君にはこれ」
「僕に札が必要だと?」
「必要だ」
「僕の風は、札などなくても――」
「君の風が強すぎると、熱外皮が剥がれる」
リオネルが言葉を止めた。
「補助に使う気か」
「補助じゃない。外皮制御だ。君の風は、この班で一番速い。だから一番危ないし、一番必要だ」
リオネルは札を受け取らなかった。
しばらく、俺を見ていた。
「君は人を道具のように配置する」
「違う。役割を明確にしている」
「同じことだ」
「違う。道具は拒否できない。人間は拒否できる」
リオネルの目が細くなる。
「なら、僕が拒否したら?」
「別の手順を組む。ただし効率は落ちる」
「正直だな」
「嘘をつくと、現場で死ぬからな」
沈黙。
風が一度、木々の間を抜けた。
葉が揺れ、光がばらける。
リオネルはため息をつき、札を受け取った。
「いいだろう。君の理屈が、森でどこまで通るか見てやる」
「ありがとう」
「素直に礼を言われると腹が立つな」
「じゃあ、感謝は記録だけにしておく」
「するな」
カイが小声で「仲いいのか悪いのか分かんないな」と呟いた。
フィンが「だいたい悪くて、たまに役に立つ」と答えた。
リオネルが二人を睨んだ。
実習担当の教師が笛を鳴らす。
「各班、第一観測地点へ移動!」
学生たちが動き出す。
森の奥へ、白と青の制服が散っていく。
俺は最後に、入口付近の結界柱を見た。
白石の柱。
表面には古いルーン。
亀裂はない。
だが、柱の根元に、薄い苔が生えている。
苔の下で、銀線の一部が黒ずんでいた。
(整備記録は正常)
(現物は劣化)
(よくある)
俺は記録紙に小さく書き足した。
【結界柱一番:根元銀線劣化。反力逃がし先としては不安】
その時だった。
黒鉛針が、手の中で一度だけ跳ねた。
強い揺れではない。
ほんの一瞬。
だが、自然な地脈の揺らぎとは違った。
周期がない。
いや、周期はある。
ただし、森の呼吸とはずれている。
(何だ?)
俺は森の奥を見た。
木々の隙間。
薄い霧。
その向こうで、何かが低く鳴ったような気がした。
「ユウマ?」
エリシアがこちらを見る。
「今、何か感じた?」
「火が、少しだけ嫌がったわ」
「そうか」
俺は記録紙を閉じ、仮杖を握り直した。
書類上は安全。
結界上も安全。
巡回記録も正常。
だが、場は嘘をつかない。
森は、何かを隠している。
俺たちは、まだその名前を知らないまま、実習区画の奥へ足を踏み入れた。




