09
オティーリエ夫人たちが嵐のように去っていった翌日、屋敷にはいつもの穏やかな時間が流れていた。カミラは庭の木陰で、三歳の弟カイルが積み木に夢中になっているのを眺めている。
今日もお母様の計らいで、カミラは手袋をしていない。
「おねえさま、みて! おしろ!」
カイルが短い指先で一生懸命に積み上げたのは、今にも崩れそうな歪な塔。カミラは笑って、カイルのふっくらとした頬に指先で触れた。
(……えへへ、おねえさま、笑ってる。だいすき。……あ、でも、どうしよう。おねえさまの「だいじなもの」、隠したのバレてないかな……?)
カミラはぴくりと眉を動かした。カイルの心の中に、小さくて可愛らしい「罪悪感」がポツンと浮いている。
(どうしよう、おねえさまの青いリボン。きれいで、僕も触りたかっただけなのに……。ひっぱったら、お庭の池にポチャンしちゃったんだ。怒られるかな。嫌われちゃうかな。……うぅ、言えないよぉ)
カイルの瞳が、不安で潤み始める。カミラは一瞬、お気に入りのリボンが池に落ちたと聞いてショックを受けたけれど、すぐに昨日のお母様の言葉を思い出した。
「(……毒じゃないけれど、これも一つの『本音』ね。そのまま暴いてしまったら、カイルは泣いてしまうわ)」
カミラはカイルを怖がらせないように、ふんわりと抱き寄せた。
「カイル、どうしたの? なんだか、とっても悲しい「声」が聞こえてきそうなお顔ね」
「……う、ううん。なんでもない、おねえさま」
(……ごめんなさい、ごめんなさい! 本当はリボンが池に……!)
カイルの本音は今にも泣き出しそうに震えている。カミラは「綿で包む」ように、優しく言葉を重ねた。
「そう? 昨日の夜ね、私、夢を見たの。青いリボンが、お庭の池で泳いでるお魚さんたちと遊びたがっている夢。だから、もしリボンが池に遊びに行っちゃっていても、私はちっとも怒らないわ。だって、お魚さんたちが喜んでいるもの」
カイルが、ぱちくりと目を瞬かせた。
「……おさかなさんと、あそんでるの?」
「ええ、きっとそうよ。だから、もしカイルがそのリボンを見かけたら、私に教えてくれる? 怒ったりしないから、一緒に『おかえり』って言ってあげましょう」
カミラが微笑んでカイルの小さな手を握ると、彼の心の中にあった真っ黒な不安が、しゅわしゅわと溶けていくのが分かった。
(……よかった。おねえさま、怒ってない。夢で知ってたんだ! おねえさまは、やっぱりすごいんだ!)
「おねえさま! あのね、さっき池の近くに、リボンがおちてたの! ぼく、とってくる!」
カイルはぱぁっと明るい笑顔を見せると、短い足で一生懸命に走り出した。
「待って、カイル。一人じゃ危ないわ」
カミラが声をかけるのと同時に、近くでバラの剪定をしていた庭師のヘンドリックが、ハサミを置いて腰を上げた。
「カイル坊ちゃま、私がお供しましょう。お池の主がお菓子を狙っているかもしれませんからな」
ヘンドリックはそう言って、カイルの歩幅に合わせてゆっくりと歩き出す。カイルはその大きな手をぎゅっと握り、「ぬし、やっつけるじょ!」と意気揚々と池へ向かっていった。
それを見送ったカミラは、少しだけ汚れてしまったリボンのことは気にせず、穏やかな気持ちで空を見上げた。
(私、上手にカイルの心を『綿』で包んであげられたわ)
嘘を暴くのではなく、相手が自分から「本当のこと」を言える場所を作ってあげる。それは、昨日の戦いよりもずっと難しくて、ずっと温かい、カミラだけの特別な「恩恵」の使い方だった。
カミラが一人でその余韻に浸っていると、背後からクスクスと控えめな笑い声が聞こえてくる。振り返ると、そこには侍女のアナが立っていた。
「カミラ様、今のやり取り……とっても素敵でしたわ」
アナが歩み寄り、テーブルに冷たいハーブティーを置く。カミラは少し照れくさくなって、アナの手にそっと触れた。
(……カミラ様、なんてお優しい。リボンが池に落ちたことを知っていらしたのね。カイル様を傷つけないように、あんなに可愛い嘘をついてあげて。私まで心が温かくなってしまったわ)
伝わってくるアナの「本音」は、ひだまりのようにぽかぽかと温かい。
「アナ、見ていたのね」
「ええ。お気に入りのあのリボン、後で私が綺麗に洗っておきますから、ご安心くださいね」
アナはいたずらっぽく微笑み、冷たいお茶を勧めてくれた。
カミラはハーブティーを一口飲み、昨日のイザベラの言葉を反芻する。
「私、昨日の夜、お母様と約束したの。これからは『綿』で包んであげるって」
「綿、ですか?」
「ええ。ふわふわで、柔らかい言葉の綿よ」
カミラは得意げに胸を張った。アナはその言葉の意味を深くは問い詰めなかったが、カミラの表情を見れば、彼女がまた一つ大切なことを学んだのだと分かった。
「おねえさまー! 見つけたよー!」
遠くから、ヘンドリックに抱えられたカイルが、泥だらけの青いリボンを旗のように振り回しながら戻ってくる。その顔は、秘密を抱えていた時とは打って変わって、誇らしげな笑顔で輝いていた。
「カイル、おかえりなさい! ヘンドリックもありがとう」
カミラは、ヘンドリックの腕から降りたカイルをしっかりと抱きとめる。泥がドレスについても、今はちっとも気にならない。
(……あぁ、やっぱり。隠し事がない本音って、こんなに軽くて心地いいんだわ)
カミラはカイルの背中をトントンと叩きながら、アナやヘンドリックと顔を見合わせて笑い合った。
五歳のカミラにとって、この屋敷の平和な午後は、何よりも得難い安らぎの時間だった。




