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カミラは今日、父であるフリードリヒに連れられて、領地のさらに奥にある別邸を訪れていた。そこには、数年前に家督を譲り隠居した祖父、アルベルト・フォン・ローゼンブルクが暮らしている。
フリードリヒの母――カミラの祖母は、カミラが生まれる前に病でこの世を去っていた。それ以来、アルベルトはより一層人との関わりを断ち、この静かな別邸で過ごしているのだという。
(おじい様の「本音」はどんなものかしら。お父様が少し緊張しているみたい……)
馬車を降りると、そこには手入れの行き届いた、しかしどこか冷たさを感じさせる石造りの館がそびえ立っていた。
「カミラ、粗相のないようにな。父上は……少々、厳格な方だ」
フリードリヒがカミラの小さな手を握り直す。その掌からは(父上はカミラの『恩恵』をどう思われるだろうか。もし『忌むべき力』だと断じられたら……)という、隠しきれない不安が伝わってくる。
案内された書斎。重厚な扉が開くと、暖炉の前で本を読んでいた一人の老人が顔を上げた。
鋭い眼光。刻まれた深い皺。まさに「古き獅子」と呼ぶにふさわしい威厳がそこにはあった。
「……よく来たな、フリードリヒ。それに、カミラか。一年前より、少しは令嬢らしくなったようだな」
低い、地を這うような声。カミラは教わった通り、完璧なカーテシーを決める。
「お久しぶりでございます、おじい様。お会いできて光栄ですわ」
カミラは一歩歩み寄り、挨拶のためにアルベルトの膝にかけられたブランケットを直すふりをして、その震える手にそっと触れた。
その瞬間――。
(……久しぶりの孫が、わしに触れたああああああ!読み取られてしまう!やめなさい!でも可愛い!……目元が、今は亡き妻にそっくりじゃないか。うう…かわいい…泣ける。)
カミラは驚いた。
その厳しい外見とは裏腹に、アルベルトの心に広がっていたのは、亡き妻への深い愛情と、孫娘であるカミラへの、不器用な愛情だった。
「カミラ。……お前の『恩恵』については聞いている。触れた者の声を読み取るそうだな。私のことも、今読み取っているのか?」
アルベルトの鋭い視線がカミラを貫く。フリードリヒが息を呑むのが分かった。
カミラはアルベルトの手を離さず、にっこりと微笑んで首を振った。
「いいえ、おじい様。読み取ってなどいませんわ。ただ、おじい様の手がとても温かくて……。亡くなったおばあ様も、きっとこの手の温かさが大好きだったのだろうなって、そう思っただけですの」
アルベルトの瞳が、わずかに揺れた。
「……ほう。……そうか。あいつは、そうだったな。私の不器用な手を、いつも笑って握ってくれたものだ」
(この子は優しいな……私の弱さを暴くのではなく……あぁ、ローゼンブルクの血は、確かに新しく、そして優しく塗り替えられているのだな。それにしてもかわいい)
アルベルトの心から、先ほどまでの刺々しい緊張が消え、穏やかな安堵が広がっていく。
「フリードリヒ。この子は優しい。ローゼンブルクの誇りを、形だけではなく心で受け継いでいる。……よし、カミラ。庭に、お前の祖母が愛した白いバラが咲いている。一緒に見に行こう。老いぼれの昔話に、少し付き合ってくれるか?」
「ええ、喜んで! おじい様」
カミラは、安堵で肩の力を抜いたお父様を振り返り、いたずらっぽくウインクをした。
先日、母イザベラに言われたことをカミラはしっかりと実行していた。相手の「本音」がどんなに複雑でも、それを優しさで包み込むことができれば、頑固な獅子の心さえも開くことができる。
カミラとアルベルトが手をつなぎ、ゆっくりと中庭へ向かう後ろ姿を、フリードリヒは見送る。
フリードリヒの心には、驚きと、そして娘を誇らしく思う温かな感情が満ちていた。
庭に出ると、初夏の風にのって芳醇なバラの香りが鼻をくすぐった。そこには、手入れの行き届いた真っ白なバラが、海のように広がっている。アルベルトは一本のバラの前に立ち、愛おしそうにその花びらを見つめる。
「このバラはな、お前の祖母が嫁いできたときに王都から持ってきたものだ。当時はこの地の気候に合わず、何度も枯れそうになった。だが、あいつは諦めなかった」
カミラはバラの刺を避けながら、アルベルトの腕にそっとしがみついた。
(……このバラを見るたびに、あいつの声を思い出す……。もう、その声を聞くことはできない。……カミラの言葉を聞いていると、まるであいつが隣にいるような懐かしさを覚える)
アルベルトの本音は、深い喪失感さえも包み込むような、穏やかな凪の状態になっていた。
「おばあ様は、とっても強い方だったのですね。このバラがこんなに綺麗に咲いているのは、おじい様がずっと大切に守ってきたからでしょう?」
カミラの言葉に、アルベルトはふっと表情を緩めた。
「守ってきた……か。私はただ、この花を枯らしてしまったら、あいつとの繋がりが本当に消えてしまうような気がして、必死だっただけだ。……男というものは、情けないものだな」
(……こんな弱音、フリードリヒにさえ言ったことはない。だが、この子には、不思議と話してしまえるな。孫ってこんなに無条件に可愛いものなのか…?)
カミラはアルベルトの腕をぎゅっと握りしめる。
昨日のオティーリエ夫人たちのような、ドロドロとした黒い本音とは違う。おじい様の心にあるのは、年月を経て磨かれた、透明で少し切ない宝石のような本音だった。
「おじい様、バラが『ありがとう』って言っているわ。おじい様のおかげで、今年もみんなに会えて嬉しいって」
「……そうか。お前にそう言われると、本当にそう聞こえてくるから不思議だ」
アルベルトは、カミラの小さな手を自身の大きな手で包み込んだ。その手は節くれ立っていたが、フリードリヒの言うような「恐ろしさ」は微塵も感じられない。
「カミラよ。お前のその力……使い道を間違えてはならんぞ。人の心を暴くのは、鋭い剣を振るうのと同じだ。だが、お前のように誰かの孤独を埋めるために使うなら、それはどんな「恩恵」よりも尊いものになる」
(……いつかカミラが王都へ行き、本当の「悪」に触れるとき、今日のこの静かなバラの香りを思い出してほしい。カミラの為ならわしは覚悟ができておる。老いぼれだからな…カミラを傷つける者がいれば、刺し違えてでも…わしはやる!!)
心に響くアルベルトの力強い決意。
カミラは、おじい様が自分を全力で肯定してくれたことを知り、胸がいっぱいになる。
「はい、おじい様。私、この力を大切にするわ。おじい様のお話、もっともっと聞かせて?」
白いバラの海の中で、老いた獅子と幼い少女は、いつまでも静かに語り合っていた。
遠くでそれを見守るフリードリヒの目にも、いつしか安堵の涙が浮かんでいた。
その日の別邸からの帰り道。馬車の中で、カミラは心地よい疲れとともに眠りにつく。
手袋のない手は、お父様の大きな手にしっかりと握られていた。
カミラの世界は、また少し、温かく広がっていた。




