07
柔らかな朝日が、厚手のカーテンの隙間から寝室へ差し込んだ。
五歳のカミラは、ふかふかの枕に顔を埋めたまま、ゆっくりと瞳を開く。
「お嬢様、おはようございます。お目覚めのお時間ですよ」
聞き慣れたアナの明るい声。続いて、カチャカチャと銀のトレイが運ばれる小さな音が聞こえた。
カミラは大きく伸びをしてベッドから這い出す。昨日授かった「恩恵」で今日はいっぱいみんなの「本音」を聞いてみよう!と思い立つ。
(今日は、どんな『本音』が聞けるかしら……!)
カミラは期待を胸に、素直にアナの前に立った。
アナは手際よくカミラのナイトドレスのボタンを外し、白磁のような肌を露わにする。その時、カミラの肩にアナの温かな指が触れた。
(……ふぁ。お嬢様、今日も寝癖がついてて可愛いなぁ。朝の光に透ける髪が、まるで砂糖菓子みたい。……あ、そうだ。昨日のリーザ、やっぱり叱られちゃったみたいね。掃除中にぼーっとしてたって。私も気をつけなきゃ)
(やっぱりアナの声は、明るくて温かいわ)
カミラは心の中でふふっと笑う。自分の知らないところでメイドのリーザが叱られていたことを知り、少しだけ何があったのか気になる。
「さあ、今日はお庭でのティータイムも予定されていますから、動きやすいこちらのドレスにいたしましょうね」
アナが青いリボンのついたドレスを広げる。
その横で、侍女長のマルタが厳しい目差しで支度をチェックしていた。マルタはカミラの足元に跪き、靴下を履かせるためにその足首を掴む。
(……昨夜の湿布はよく効いたわ。おかげで今朝の腰は随分と軽い。……昨日の鴨肉の影響か、少し胃が重いけれど、仕事に支障はないわね。今日もお嬢様を完璧に装わせ、ローゼンブルクの名に恥じぬよう務めなければ)
(マルタの腰が治って良かった!)
カミラはマルタの頭のてっぺんを見つめながら、心から安心した。
いつもは怖く感じる無表情な侍女長も、心の中で「よし、腰が軽いぞ」と喜んでいると思うと、なんだかとても親近感が湧いてくる。
仕上げに、アナが丁寧にカミラの手に「白絹の手袋」を嵌める。
指先が隠され、布越しに伝わる体温だけになった瞬間、賑やかだった頭の中の合唱が、ぴたりと止んだ。
(……ああ、静かになっちゃった)
少しだけ名残惜しいけれど、しばらくは手袋はして過ごしなさい、両親が言っていたので仕方ない。
カミラは手袋の上から自分の手を握りしめ、鏡に映る完璧なお嬢様の姿に微笑みかけた。
「準備はできたわ。行きましょう!」
「はい、お嬢様」
アナに導かれ、カミラは意気揚々と部屋を出た。廊下を歩く間も、すれ違う使用人たちの腕や手に「うっかり」を装って触れたくて、カミラの指先は手袋の中でそわそわと動く。
朝食を終えたカミラは、普段は「お行儀よく」と躾けられているが、小さな隙を突いてみんなの素肌にタッチするチャンスを狙っていた。
◇◇◇◇
まずは午前中の勉強の時間。いつも難しい顔をして歴史を教えてくれるクレマン先生。
カミラはわざとペンを落とし、それを拾おうとした先生の指先に、手袋から出した指先でちょんと触れた。
(……ああ、昨日のチェスは惜しかった。あそこでビショップを動かしていれば勝てたものを。……おっと、カミラお嬢様がこちらを見ている。威厳を保たねば。今日こそはこの難解な王国の歴史を叩き込む。……しかし、お腹が空いた。お昼のサンドイッチは何だろうか)
(先生、チェスの反省とお昼ごはんのことばっかり考えてる!)
カミラは、教科書の後ろに隠れて「くすっ」と笑った。
授業を終えたカミラは、元気よく侍女を連れて庭に出る。そこには大きな鋏で生垣を整えている庭師のヘンドリックがいた。
「ヘンドリック! お花、きれいね」
カミラは駆け寄り、彼のゴツゴツした腕に直接触れる。
(……お嬢様は今日も天使だ。……ああ、このバラの剪定、右側が少し重いか? 今年は害虫が少なくて助かる。……うむ、腰を痛める前にあっちの鉢植えも動かしてしまおう。今夜はカミさんに花を一輪持って帰ってやろうか)
「カミラお嬢様、鋏を持っている者に急に近づくのは危ないのでお控え下さいな。ですがお声をかけてくださりありがとうございます、花たちもきっと喜んでいることでしょう」
(ヘンドリック、奥様にプレゼントを考えてるのね。素敵!)
カミラは温かな気持ちで庭を後にした。
次は厩舎へ。生き物の「本音」は聞こえるのかな? と思い、カミラの愛馬シフォン(真っ白なポニー)の鼻先に触れてみる。
(……ニンジン。ニンジン。……あ、カミラだ。なでて。もっと下。そこ。……あ、ニンジンは? ニンジン持ってないの? つまんない。……あ、でもなでて。気持ちいい)
(ふふ、シフォンはニンジンとなでてもらうことだけなのね)
動物の純粋すぎる「本音」に、カミラは声を上げて笑った。
「本音」って面白い!とカミラはルンルンで屋敷を散策していると、廊下を必死に磨いている若いメイドのリーザを見つけた。今朝アナが昨日リーザは叱られたと「本音」で話していたので気になり、「頑張っているわね」と腕に触れると、そこからは意外な「声」が届く。
(……うう、眠い。昨日の夜、こっそり読んだ恋愛小説が面白すぎて夜更かししちゃった。公爵様と平民の恋……ああ、私もいつか白馬に乗った騎士様が……。カミラお嬢様、ありがたいですが掃除の邪魔しないで!侍女長にまた叱られちゃう! 磨け磨け、必死に磨くのよリーザ!)
「ありがとうございます、カミラお嬢様」
大慌てで掃除を再開するリーザを、応援したい気持ちで見つめた。
夕方になると、カミラは満足感でいっぱいだった。
今日一日で分かったこと。それは、みんな口では「お嬢様、お勉強しましょう」「お嬢様、お庭は危ないですよ」と立派なことを言っているけれど、心の中は「お腹が空いた」「腰が痛い」「あの子が好き」といった、とても人間らしくて、可愛らしいお喋りで溢れているということ。
(本音って、全然怖くないじゃない! みんな、心の中でもとっても楽しそうにお話ししているんだもの)
カミラは、廊下を歩きながら自分の手袋を見つめた。
お父様やお母様、セルジオおじ様があんなに心配していたのが、不思議でならない。
けれど、カミラはまだ知らない。
今触れているのは、ローゼンブルク家の愛情深い庇護の下で、平穏に暮らす人々だけの声だということを。
そして、この屋敷の一歩外に出れば、そこには「言葉の刃」を心に隠し持った大人たちが、獲物を狙うように笑っているということを。
「おじさまー! 今日ね、シフォンの本音を聞いたのよ!」
カミラは、客間でお茶を飲んでいたセルジオを見つけると、元気いっぱいに駆け寄っていった。
そんな無邪気な姪の姿を見て、セルジオは少しだけ、複雑な笑みを浮かべる。
「おや、カミラちゃん。それはいい収穫だったね。……でも、一つだけおじ様と約束してくれるかな?」
セルジオはカミラの目線に合わせて屈み、その小さな手袋を優しく包み込んだ。
「これから先、屋敷の外で出会う人たちには、自分から触りにいっちゃダメだよ。……いいかい? お外の世界には、シフォンみたいにニンジンを欲しがるだけじゃない、もっと『難しい声』を持った人たちがたくさんいるんだから」
カミラは首を傾げたが、叔父の真剣な眼差しに押されて小さく頷いた。
「わかったわ、おじさま。お外の人は、触らない。約束よ」
「……いい子だ。さあ、シフォンの本音、もっと詳しく聞かせておくれよ」
セルジオはいつものおどけた顔に戻り、カミラを抱き上げた。
五歳の少女の好奇心は、夜の帳が下りるまで止まることを知らなかった。




